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余命三週間

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/11

 ──「自分はもうすぐ死ぬ」と思って生きよう。


 山口緑がそう思ったのは、生まれて初めて、がん検診を受けたのがきっかけだった。


 それは十一月の、冷たい雨が降る月曜日のことだった。


 会社の健康診断の結果が返ってきたのは、一週間前。封筒を開けた瞬間、緑の指は微かに震えた。数値の羅列の中に、赤い文字で「要精密検査」と書かれていたのだ。


 腫瘍マーカーの数値が基準値を超えている。


 すぐに病院に予約を入れた。電話口の看護師の声は優しかったが、緑の耳には遠く響いた。「三週間後に結果が出ます」という言葉だけが、妙にはっきりと聞こえた。


 検診当日。病院の待合室は白い蛍光灯に照らされ、消毒液の匂いが鼻をついた。緑は窓の外を見つめた。雨粒が窓ガラスを這い、曇り空の下で街路樹が寒々と揺れている。


「山口緑さん」


 名前を呼ばれて、緑は立ち上がった。膝が少し震えた。


 検査室は思ったより静かだった。医師の説明を聞きながら、緑は天井の染みを数えた。一つ、二つ、三つ。


「痛みはありませんか」


「いえ」


 嘘だった。胸の奥に、鈍い痛みがあった。でもそれが身体的なものなのか、それとも恐怖から来るものなのか、緑自身にもわからなかった。


 検査が終わって病院を出ると、雨は上がっていた。けれど空は相変わらず灰色で、冷たい風が吹いていた。緑はコートの襟を立てて、駅へ向かって歩き始めた。


 結果はまだ出ていない。

 だからこそ怖かった。


 もしがんだったらどうしよう。

 もし、「あなたは余命半年です」だなんて、余命宣告されたらどうしよう。


 緑の頭の中で、その言葉が何度も繰り返された。帰りの電車の中でも、夕食を作りながらも、お風呂に入りながらも。


 その日の夜、緑は百円ショップへ向かった。病院からの帰り道、ふと思いついたのだ。


 エンディングノート。


 店の文房具コーナーで、それはあっけなく見つかった。薄紫色の表紙。「わたしの記録ノート」と優しい字で書かれている。百円という値段が、妙に切なかった。


 家に帰ると、緑は早速、リビングのテーブルにノートを広げた。


 最初のページには「基本情報」とある。名前、生年月日、血液型、住所。淡々と書き進めた。ペンを走らせながら、これが自分の人生の要約なのかと思うと、不思議な気持ちになった。


 次のページ。「もしものときは」。


『延命治療は望みません』

『葬儀は直葬で。派手にしないでください』

『遺影は不要です』


 友人の連絡先のページでは、緑は手を止めた。高校時代の友人、大学の友人、会社の同僚。それぞれの名前の横に電話番号を書き込みながら、緑は一人一人の顔を思い浮かべた。


 佐藤美咲。高校からの親友。いつも明るくて、緑が落ち込んでいるときは必ず励ましてくれた。


 田中優子。大学のサークルで出会った。一緒に徹夜で課題をやったことを思い出す。


 鈴木健太。会社の同期。いつも冗談を言って周りを笑わせる。


 みんな、元気でいてくれるだろうか。私がいなくなっても、笑っていてくれるだろうか。


 大切なものの在り処を書くページでは、緑は部屋を見回した。


『通帳と印鑑は、机の一番下の引き出し』

『パソコンのパスワードは、手帳の最後のページに書いてあります』

『日記は処分してください。読まないでください』


 そして最後のページ。「大切な人へ」。


 緑はしばらく、白いページを見つめていた。


『お父さん、お母さんへ。

 いつもありがとう。

 もっと親孝行したかった。

 もっと一緒に旅行に行きたかった。

 でも、私は幸せでした。

 お父さんとお母さんの娘でよかった。

 ありがとう。

 山口緑』


 ペンを置くと、涙が一粒、ノートに落ちた。慌てて手の甲で拭う。滲んだ文字を指でそっと撫でた。


 時計を見ると、もう深夜一時を回っていた。


 それから、緑の生活は少しずつ変わっていった。


 翌日から、緑は身辺整理を始めた。


 まずクローゼットから。もう着ない服、サイズが合わない服。思い切って処分した。大学時代のサークルのTシャツを手に取ったとき、少し迷ったが、やはりゴミ袋に入れた。思い出は心の中にあればいい。


 本棚も整理した。何度も読み返した小説、資格の勉強に使った参考書、雑誌の切り抜き。一つ一つ手に取りながら、そのときの自分を思い出した。


 写真は、アルバムごとに年代別に整理した。


『子供の頃』『学生時代』『社会人』。


 それぞれのアルバムに付箋を貼った。母がもし見返したくなったとき、わかりやすいように。


 パソコンのデータも整理した。仕事のファイル、趣味で描いたイラスト、書きかけの小説。大切なものはフォルダにまとめ、いらないものは削除した。


 一週間が過ぎた。


 部屋はすっきりと片付いていた。緑は窓を開けて、冷たい空気を吸い込んだ。十一月の風が、レースのカーテンを揺らした。


 ──完璧だ。

 これで、私はいつでも死ねる。


 そう思ったとき、不思議な安心感が胸に広がった。


 後悔はない。

 やりたいことは大体やってきた。まだ夢も希望もあるけれど、叶わなかったからといって、緑に未練はなかった。自分の人生で、やれるだけのことはやったと思っている。


 それでも。


 それでも、まだやりたいことがあるのも事実だった。


 結果を待つ間も、緑は絶え間なく好きなことをし続けた。


 母へのマフラーを編み始めた。薄いピンクの毛糸を選んだ。母が好きな色だから。編み棒を動かしながら、緑は母の顔を思い浮かべた。


「これ、誰に編んでるの?」


 ある日、実家に帰ったとき、母が尋ねた。


「お母さんに」


「まあ、ありがとう。でも、どうしたの、急に」


「……冬だから」


 嘘をついた。本当は、もしかしたらこれが最後のプレゼントになるかもしれないと思ったからだった。でも、それは言えなかった。


 読みたかった本も読んだ。村上春樹の『ノルウェイの森』、太宰治の『人間失格』、夏目漱石の『こころ』。学生時代に読もうと思って、そのままになっていた本たち。


 夜、ベッドで本を開く。活字が目に入ってくる。物語の世界に没入する。そして、ふと顔を上げると、もう朝だった。


 絵も描いた。


 タブレットを開いて、デジタルイラストを描く。猫の絵、風景画、人物画。色を重ねていくたびに、画面の中に世界が生まれていく。


 漫画も描いた。高校生の恋愛を描いた短編。ページをめくるたびにストーリーが進んでいく。自分で描いたキャラクターたちが、まるで生きているみたいだった。


 そして、小説も書いた。


 ずっと書きたかった物語。若い女性が、小さな書店で働きながら、人生の意味を見つけていく話。パソコンに向かって、キーボードを叩く。文字が画面に並んでいく。


 書き上げたとき、緑は深く息をついた。そして、思い切って文学コンテストに応募した。


 ──私は「今」を生きている。

 やりたいことはやりたいうちにやる。


 そう心に決めていた。


 二週間が過ぎた。


 ある日の午後、緑はカフェで友人の美咲と会っていた。


「ねえ、緑。最近、なんか変わった?」


 美咲がカプチーノを飲みながら言った。


「え?」


「なんていうか、前よりも……生き生きしてる感じがする」


 緑は苦笑した。


「そう?」


「うん。なんか、キラキラしてる」


 美咲は真剣な顔で言った。緑は窓の外を見た。カフェの外では、人々が行き交っている。それぞれの人生を生きている。


「……実は、がん検診を受けたの」


 美咲の目が大きく見開かれた。


「え、がん?」


「まだ結果は出てないの。でも、その結果を待つ間に、いろいろ考えたんだ」


 緑はコーヒーカップを両手で包んだ。温かさが手のひらに伝わってくる。


「もし、自分があと少ししか生きられないとしたら、何をするか。何を残すか。誰に何を伝えるか」


 美咲は黙って聞いていた。


「それで気づいたの。私、ずっと『いつか』って思って先延ばしにしてたことが、たくさんあったんだって」


「……」


「いつか本を読もう。いつか小説を書こう。いつか母に何かしてあげよう。そうやって、ずっと先延ばしにしてた」


 緑は美咲の目を見た。


「でも、『いつか』なんて来ないかもしれないって、今回初めて本気で思ったの」


 美咲は緑の手を握った。


「緑……」


「大丈夫。怖いけど、でも、なんか吹っ切れた感じもあるんだ」


 二人はしばらく黙っていた。カフェには静かな音楽が流れていた。


 その夜、緑は自分の部屋で、亡くなった知人のことを思い出していた。


 中村麻美。


 緑と同い年で、同じ会社で働いていた。明るくて、いつも笑っていた。去年の春、がんが見つかった。そして半年後、麻美は逝った。


 最後に会ったのは、病院だった。痩せ細った麻美は、それでも笑顔だった。


「緑、元気でね」


 そう言って、麻美は緑の手を握った。その手は、驚くほど軽かった。


「私、やりたいことたくさんあったんだ。でも、時間が足りなかった」


 麻美の目には涙が浮かんでいた。


「だから、緑。後悔しないで生きてね」


 緑は頷くことしかできなかった。


 あれから一年。


 緑は、麻美の言葉をずっと胸に秘めていた。そして今、自分も同じ立場に立たされているかもしれない。


 緑ががんでない保証などどこにもない。


 机の引き出しから、エンディングノートを取り出した。最後のページを開く。両親への手紙が書いてある。


 自分の人生でやり残したことといえば親孝行くらいだが、きっと死ぬまでにそれが叶わなくても許してもらえるだろう。


 そう思いながらも、緑の心には小さな後悔が残っていた。


 もっと父や母と話したかった。

 もっと一緒に笑いたかった。

 もっと「ありがとう」と言いたかった。


 三週間目に入った。


 検診の結果が言い渡される日が、ようやく来週に迫った。


 聞きたいような、聞きたくないような。


 緑は毎晩、カレンダーを見つめた。赤い丸で囲んだ日付。十一月二十五日。その日に、すべてが決まる。


 ある朝、緑は実家に電話をした。


「もしもし、お母さん?」


「あら、緑。どうしたの、こんな朝早くから」



「……ううん、別に。ただ、声が聞きたくて」


 電話の向こうで、母が笑った。


「あなた、何かあったの?」


「……お母さん、ありがとう」


「え?」


「今まで、ありがとう。育ててくれて」


 沈黙。


「……緑、本当にどうしたの」


 母の声が少し震えていた。


「大丈夫。ただ、言いたかっただけ」


 電話を切った後、緑は窓の外を見た。


 冬の朝。空は薄い青色で、雲一つなかった。


 何を言われても受け入れる覚悟が必要だ。

 今からその心の準備をしておく。


 そう自分に言い聞かせながら、緑は深呼吸をした。


 あと一週間。


 緑は、編みかけのマフラーを手に取った。もう少しで完成する。母の誕生日は来月だ。それまでに完成させよう。


 もし、もし検査結果が悪かったとしても。

 もし、余命を宣告されたとしても。


 緑には、この三週間で学んだことがあった。


 ──人生は、「いつか」を待っていてはいけない。

 ──今を大切に生きる。

 ──やりたいことは、今やる。

 ──伝えたいことは、今伝える。


 窓の外で、小鳥が鳴いた。


 緑は微笑んだ。


 どんな結果が待っていようとも、この三週間は無駄ではなかった。


 むしろ、人生で最も濃密な三週間だったかもしれない。


 緑は、また編み棒を手に取った。

 カチカチと、毛糸を編む音が部屋に響く。

 その音は、まるで時を刻む音のようだった。


 一針、一針。

 今を、生きる音。



──完──

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