成金令嬢、家族を想う。
アナスタシアの祖父であるハンス・ロスベルクは、靴職人の庶民であった。
聞き上手で、人好きする美貌に恵まれたその男は、貴族に使える使用人たちの靴を修理しながら、町の人々が何に困っているかを常に耳に入れていた。
「お屋敷から支給される使用人靴は、使いまわしだからサイズが合わなくて靴ずれしちゃうの。」
そんな町娘の声からハンスが開発したのは、切ってサイズを調整できる柔らかい中敷きで、これが瞬く間に大ヒットした。
「女の子にばれないように、身長を高く魅せられりゃあなあ。」
労働者の声からは、靴の中に入れられる隠しソールと、ソールを入れても自然に見える足首まで覆われるハイカットシューズを。
「水仕事をしていると、床が濡れて滑って転びそうになるの。」
配膳係の声から、靴の裏に貼るゴム製の滑り止めを。
「歩く」という人間の生活の悩みを解決し、人生の質を向上させるあらゆるアイデアを、庶民価格でありながら高品質な商品として次々と開発していったのだ。
ハンスは優秀な開発者であると同時に、優れた販売者でもあった。
仕事が終わった後には労働者が集う酒場に足を運び、ハンスの美貌に寄ってきた女性たちとこんな会話を繰り広げた。
「ねえ、それって、どこの靴?」
「これかい?三丁目にある、ロスベルクって奴の店のさ。かっこいいだろう?」
女性を侍らすハンスを横目で睨む男性客たちに聞こえるように、敢えて大声で話して回る。その翌日には、ハンスの店は男性客の列ができるのであった。
つまりハンスは、その持ち前の人当たりの良さと美貌を活かし、「歩く広告」となっていったのだ。
やがて彼は、口コミに強い女性たち――洗練された町娘や、社交界を出入りする中流階級の女たちを“広告モデル”として起用した。同時に、技術はあるが貧しい職人たち――縫製、薬草師、香水調合師など――を雇い、次々と優れた商品生み出した。
街中で聞き取り調査を元に商品を出し、広告モデルに着用して宣伝する。
彼女らのスタイルを真似したがる町娘たちの間で流行すると敢えて完売させ、何回目かの再入荷のタイミングで生産ラインを整える――《開発》《宣伝》《販売》《量産》の体制を完璧に整え、「庶民の悩み解決型プロダクトを広告モデルを活用した口コミで広める」というビジネスモデルを確立したのだ。
ロスベルク家は、わずか数年で数年で小さな靴屋から一大ブランドへと駆け上がった。
数々の貴族から独占販売の申し出が絶えなかったが、『高貴に媚びず、庶民の生活を美しくする』ことを信条とするハンスは、それらをすべて断った。
代わりに彼が導入したのが卸売システムであり、その哲学と実績をもって、彼は23歳という若さにして、“叩き上げの伯爵”となったのだった。
だが、ハンスの息子であり、アナスタシアの父である二代目・ヒューゴは、その遺産を守りきれなかった。
「困っているらしい、少しだけ貸してやろう」
「きっと返してくれるさ。彼も悪い人間ではない」
温厚で争いを嫌い、人を疑うことを知らない男であるヒューゴは投資に失敗しただけではなく、仕入れ業者からの値上げにも強く出られず、利益率は徐々に下がっていった。
ハンスの死後わずか10年足らずでロスベルク家の帳簿には赤い数字が並ぶようになり、それに目を付けたのが、オルフェウス公爵家だったのである。
「ご息女との婚約を条件に、借入金を肩代わりしましょう。」
国内最大の綿花農業と羊毛畜産を取り仕切り、紡績産業において右に出る者がいなかったオルフェウス公爵家は、ハンスの開発した庶民向け製品の登場により売上を落としており、兼ねてより独占販売の交渉を重ねては断られてきた。
投資に失敗し、子供たちの学費だけではなく、使用人の給金さえも苦しむほど落ちぶれたロスベルク家に手を差し伸べるように見せて、実際に彼が求めていたのはロスベルク家のブランドと販売網だったわけである。
しかし、人の善意を愚直に信じるヒューゴは、救世主とばかりにその手を取ってしまった。
こうして、“借金の肩代わり”という政略のもと、アナスタシアの人生が取引に伝われたのであった。
(お父様の優しさは愚かさだと思ってきたけれど、おかげで私は、自由に学べて来たのね。)
同級生たちの会話から、父の温厚さと優しさは、類を見ない宝物であることも理解したアナスタシアは、父の優しい笑顔に想いを馳せる。
けれど――
(優しさじゃ、家は守れない。)
アナスタシアは音をたてないようにカーテンを閉め、数々の計算式を書いたノートを撫でる。
(私が、ロスベルク家を再興させる。女性だってやればできるできるのだと、この世に証明してやろうじゃないの。)
祖父の言葉が静かに蘇る。
『賢くありなさい。知識は何よりもの武器だ。知識の質に、男女は関係ない。それをどうやって価値に変えるかだ。』
アナスタシアはノートを手に立ち上がり、今は亡き祖父に語り掛ける。
「今よりも不便な時代に生きていた庶民のおじい様にできたんだもの。学園に通う私に、できないわけがないわ。」
蝋燭の光は、群青色の瞳の中で静かに燃える光を映し出していた。