成金令嬢、婚約破棄される。
「真実の愛を見つけた私は、愛のない結婚などできない。よってアナスタシア嬢、君とは婚約破棄させていただく!」
その瞬間、煌びやかな内装の客間が凍り付いた。
氷点下まで下がったかと思われる空気を裏腹に、「真実の愛」で結ばれた男女は潤んだ瞳で見つめ合い、彼らの周囲1メートルにだけは、まるで常夏のような熱さが醸し出されていた。
アナスタシア・ロスベルクは、たった今婚約破棄を宣言した許嫁――リオネル・オルフェウスをちらりと見る。彼の腕に抱かているのは、オルフェウス侯爵家の遠縁にあたるウォルデン伯爵家が第三女、ナタリー嬢である。ほんのりと膨らんだ腹部を守るように撫でなる彼らを見て、鼻で笑いそうになるのを必死にこらえる。
「い、いや、リオネル……なんてことを……アナスタシア嬢を差し置いて、そのような……!」
焦りを隠しきれない声で沈黙を破ったのは、侯爵家当主のオルフェウス公爵であった。
彼にとって、アナスタシアと息子の婚姻は、ロスベルク家が代々保有する莫大な流通網と生産権への正式な介入手段であることは明らかだ。それが、まさか……こんな茶番で潰えるとは。
「い、いやあ、これは、我が愚息が失礼したね、アナスタシア嬢。
我々はもう他人ではないし、当家としてはこれからも、お金に困っておいでの貴家に支援をしていこうと考えていたところでね。どうだね、ここはひとつ、お怒りをお納めになって、妾として彼女迎えるという手も――」
「真実の愛を、侮辱しないでください!」
「お黙りなさい、リオネル!」
悲鳴に近い声でリオネルを牽制した公爵夫人の声に、アナスタシアの隣に座っている両親が揃って肩を震わせる。アナスタシアはそんな頼りがいのない父に呆れながらも、心の中で小さく拳を握る。
(これは………勝機ね。)
アナスタシアは、できるだけか弱い少女に見えるように努力して口を開く。
「お気持ちはありがたく存じます。ですが……リオネル様とナタリー様のお気持ちは、揺るがないご様子。…私はこれまで、オルフェウス公爵家の妻として恥じぬよう、一心に努めてまいりました。
愛し合っているおふたりを目の前にしたこの状況で、『それでも結婚したい』だなんて、どうして申し上げられましょう………」
噴き出しそうになるのを押し殺しながら話したら、ちょうど良く声が震えて、泣くのを堪えているように聞こえたのだろう。オルフェウス公爵は気まずそうに下を向きながら、唸るように口を開く。
「…………アナスタシア嬢のお気持ちはもっともだ。だが、しかし、我々としては貴家に」
「愛を確かめ合う行為には、爵位も婚姻関係も、関係ございませんもの。真実の愛で身も心も、未来さえも紡がれたおふたりのことは、心の底から応援いたしますわ。」
遠回しに浮気と近親を指摘し、なんとか婚約破棄を避けたいオルフェウス公爵を牽制する。
そんな政治を知ってか知らずか、浮気した当の本人たちは、相変わらず自分たちの物語の世界に浸りきっている。
「……アナスタシアへの誠意は、慰謝料という形でお支払いしよう。」
「ええ。私も、1日でもはやく前を向くために、この話のことはこの先、生涯、思い出さないようにいたします。」
慰謝料という名の口止め料を受け取る約束を取り付け、アナスタシアは心の中で握っていた拳を天に突き上げる。
(勝った!!!)
そう心の中でガッツポーズを決めながらも、アナスタシアはしとやかに立ち上がる。
「本日はお騒がせいたしました。どうぞ、おふたりの“真実の愛”が結んだ実が花開きますよう、心よりお祈り申し上げます。」
皮肉を塗り固めたその言葉を最後に、ロスベルク家はオルフェウス侯爵邸をあとにした。
屋敷を出るやいなや、母は拳を握りしめ、「私の可愛いアナスタシアという存在がありながら、あんな女と浮気するなんて!」と怒り狂っていたが、そんな母の隣で父はただ、「すまない……」と何度も繰り返すばかりだった。
アナスタシアは満面の笑みを浮かべ、両親に声をかける。
「お父様、お母様、安心して。私がこのロスベルク家を、再興してみせますから!」
アナスタシア・ロスベルクは、ロスベルク伯爵家の長女である。稀代の商才に恵まれた初代ハンス・ロスベルクが築いた莫大な資産は、商才のない父・ヒューゴによる放蕩経営により、現在では空前の灯であった。
しかし、アナスタシアの瞳は曇っていない。深い湖を連想させる群青色の瞳には、めらめらと燃える炎が灯っていた。
輝く夕陽を受けたアッシュブラウンの髪が風になびく。
「オルフェウス公爵家から支払われる慰謝料と口止め料。それを元手に、私もおじい様のように、商売をはじめます!」
アナスタシアは両親の手を取って、満面の笑みを浮かべた。