第七話「雪解けと予期せぬ体温」
朝6時、窓の外が異様に明るい。カーテンを開けると、世界がホワイトチョコレートに包まれていた。理子の家の庭にある椿の木が、雪の重みでお辞儀している。
「美羽ちゃん! 学校休みかも!」
階段を駆け上がる理子の声が弾む。彼女の手にするスマホ画面に、市教育委員会の緊急メールが光っている。大雪のため臨時休校――その文字を見た瞬間、布団に倒れ込む私の頭に理子のクッションが直撃する。
「雪合戦しよ! あ、でもまず朝食ね」
理子父特製のシチュー香るリビングで、私たちは窓枠にへばりついた氷の花を観察していた。湯気の立つマグカップが、理子の頬をリンゴのように染める。
「あのね」彼女がスプーンをくるりと回す。「隼人くんからメールきた」
画面に映った文章が目に入る前に、思わず目を背ける。「みんなで雪かきボランティア」の提案文句に、理子のテンションが急上昇する。
「行こう行こう! 雪だるま作って、そり滑りして!」
反対する理由が見つからない。防寒具に身を包む際、理子が私のマフラーの巻き方を直す指先が、なぜか昨日より熱く感じる。
◆
公民館前の広場が戦場と化していた。隼人がシャベルを担いでいる姿が、妙に大人びて見える。私が雪玉を握った瞬間、彼の後頭部に命中するという偶然が起きる。
「桜井さん、それ狙ってた?」
「違います! 本当に偶然です!」
弁明する声が空気に吸い込まれる。理子が作った巨大雪だるまに「楓先生」と名札を付ける遊び心。その傍らで、地域の老婆が私の雪かきを見つめている。
「あら、あなた随分慣れてるわね」
かつての職場で培った段取り力が、雪処理作業で発揮されている事実。老婆がくれたカイロの温もりが、懐かしい記憶を呼び起こす。
昼過ぎ、理子が突然震えだす。楽しさのあまり防寒を怠ったせいか、唇がスミレ色に変わっている。隼人が咄嗟に自分のジャケットを羽織らせる仕草に、老婆たちがにやにやと笑う。
「早く帰った方がいい」隼人の提案に、反対する理子を背負って駅に向かう。彼の背中で眠りかける理子の吐息が、私の後頭部にかすかな桜の香りを運ぶ。
◆
理子の家で看病役を買って出る。彼女の額に手を当てた瞬間、高校時代に後輩を熱で休ませた記憶が蘇る。氷枕を準備し、おかゆを作り、換気のタイミングを計る――全てが男社会で培ったスキルだ。
「美羽ちゃん…えらい優しい」
布団の中から出る弱々しい声が胸を締め付ける。ふと気付くと、私が無意識に理子の手を握っている。彼女の指輪が掌に跡を残す。
夜更け、理子の熱が39度を超える。パジャマ姿でうなされる彼女の汗を拭いながら、初めて「守りたい」という感情が芽生える。濡れた髪を梳かす指先が、月明かりに透けて見える。
「お母さん…」
ふと漏れた理子の寝言に、たじろぐ。彼女の家庭事情について何も知らないことに気付き、布団の端をぎゅっと握りしめる。
◆
翌朝、雪が雨に変わる音で目覚める。理子の熱は嘘のように下がり、彼女が私の膝枕で寝ていることに気付く。髪の毛が指に絡まる感触に、時間の経過を忘れる。
「あのね」目を開けずに理子が呟く。「昨夜ずっと手を握ってくれてたでしょ」
肯定すると、彼女が小さく笑う。「美羽ちゃんの手、お母さんみたいに大きい」
窓の外で雪解けの水が軒先を伝う。ふと理子のスマホが震え、楓先生からのメールが通知される。体調を気遣う文面に、理子のまつ毛がかすかに震える。
昼下がり、理子が突然私の手を引く。「お礼がしたい」と言いながら向かった先は、駅前の小さな宝石店だった。
「ねえ、どっちがいい?」
ガラスケースに並んだイチョウのペンダントに、楓先生への想いが凝縮されている。店主の老婆が意味深な笑みを浮かべながら、私たちを見つめる。
「七瀬さん…本当に」
「先生の転勤が決まったの」理子の声がひび割れる。「だから卒業までに伝えたい」
雨上がりの匂いが店内に流れ込む。私が選んだペンダントを理子が握りしめる手に、雪解けの雫が光る。
帰り道、理子が突然立ち止まる。水溜りに映った二人の姿が、なぜか逆さまの世界のように見える。
「美羽ちゃんもね、本当のことを話してくれる日が来る?」
その質問に答える代わりに、私は彼女のマフラーの端を直す。街灯が灯り始め、私たちの影が一つの塊になる瞬間だった。
◆
その夜、理子の部屋で不思議な儀式が行われた。彼女が楓先生への手紙を書く横で、私は編みかけのマフラーを続ける。毛糸の色がイチョウ色であることに今更気付く。
「完成したら…私が渡すの」
頷く理子の耳元で、イヤリングがかすかに揺れる。雪解けの音が、私たちの静かな決意を優しく包んでいった。