第六話「同居生活と桜色の泡」
母の実家帰りが決まった夜、リビングのカーテンがヒラリと揺れた。キャリーケースに入りきらないパジャマの山を見つめながら、女子の長期外泊に必要な物が全く分からなくて絶望する。
「着替え3セットで足りるかな…いや女子は毎日変えるんだっけ?」
迷い込んだ森の小鹿のように途方に暮れていた時、理子の自転車のベルが救世主のように響いた。彼女のリュックからはみ出すクマのぬいぐるみが、どう見ても過剰な荷物だと指摘する隙もない。
「お邪魔しまーす!」
理子の家は喫茶店を改装したような木造の古民家だった。階段の手すりにぶら下がった風鈴が、私の不安を軽やかに揺らす。
「お風呂上がりに着るの!これで決まり!」
理子が放り投げたパジャマが私の頭を覆う。タオル地の短パンとキャミソールのセット。男の頃の部屋着がTシャツとボロボロのジャージだったことを思い出し、背徳感に震える。
◆
夕食のカレーライスが妙にプロっぽい。理子の父親(元フレンチシェフ)がニンニクの香りを立てながらフライパンを振るう姿に、男子寮のイメージが崩壊する。
「美羽ちゃん、ナンとライスどっちがいい?」
理子が炊飯器の蓋を魔法の箱のように開ける。彼女のエプロンの結び目が腰のくびれに食い込み、なぜか目が離せなくなる。32歳の魂が「成長著しい14歳女子」を鑑賞する罪悪感。
食後のお風呂タイムが地獄の始まりだった。理子が脱衣所でためらう私の手をひょいと掴み、いつの間にか湯船に沈んでいた。
「背中流してあげる!」
彼女の手がスポンジを持って背中を這う。泡の軌跡が神経を逆なでする。「力入れすぎ?」の問いかけに、声が裏返りながら「平気…」と答える自分がいる。
理子の体が湯気の中にくっきり浮かぶ。ウエストのくびれ方、肩の丸み、へその上のほくろ。女の子の裸をまじまじと見るのは初めてなのに、なぜか目を逸らす理由が分からなくなる。
「美羽ちゃんの肌つるつる~」
突然お腹に触れてくる指先に、思わず飛び退る。湯船が波立ち、理子の髪が濡れて黒い絹のように広がる。シャンプーの香りと湯気で思考が麻痺する。
「あ、髪のリンスつけ忘れた!」
立ち上がる理子の背中に水の粒が光る。腰のあたりに小さな傷跡があるのを見て、過去の記憶の断片が揺らめく。でもそれはすぐに湯気に溶けて消えた。
◆
理子の部屋は押し花の標本箱のようだった。天井から吊るされた星形のライトが、ベッドの上のぬいぐるみ軍団を優しく照らす。私が敷いた布団の横で、理子が編みかけのマフラーを振り回す。
「ねえ、楓先生の誕生日プレゼントどう思う?」
彼女のベッドサイドに並ぶ手作り小物が全てイチョウ模様なのに気付く。カーテンの隙間から漏れる月明かりが、その想いの深さを仄めかす。
「先生、イチョウが好きなの?」
「うん! 昔転校してきた時、落ち葉で私の名前書いてくれたんだよ」
理子の頬がリンゴのように染まる。指先で編み棒を動かすリズムが、なぜか切なさを運んでくる。隠し持っていた男の感性が「これはまずい」と警鐘を鳴らす。
夜更け、隣の布団で理子の寝息が穏やかになる。ふと彼女が寝返りを打ち、腕が私の布団に落ちてくる。洗いたてのパジャマの匂いと、ほのかに甘いリップクリームの香り。
(これが女子の寢息か…)
時計の針が2時を指す頃、ふと気付く。理子のスマホの待受画面が、文化祭で撮った楓先生の後ろ姿になっている事実。暗闇の中で、その画像が妙に鮮明に焼き付く。
◆
三日目の朝、理子の父が作るフレンチトーストの香りで目覚める。理子が寝癖だらけの頭で私に寄りかかりながら、テレビの天気予報をぼんやり見つめる。
「今日は雪が降るって」
彼女の肩からこぼれる温もりが、布団の中の冷たさと対照的だ。窓の外を横切る烏の群れが、冬の訪れを告げる。
学校からの帰り道、理子が突然コンビニに駆け込む。私がおにぎりを選んでいる間、彼女がレジ横のコンドーム売り場で真剣な顔をしているのに気付く。
「えっと…その…」
「あ、これ楓先生に聞かれたから調べてたの!」
理子の弁明が逆に誤解を深める。店員の忍び笑いを背に、頬を火照らせて走り出す。夕暮れの坂道で、二人の影が不器用に重なり合う。
◆
一週間目の夜。共有した洗面台で並んで歯を磨くのが、なぜか自然に感じ始めていた。理子が突然「女子会やろう!」と言い出し、ベッドの上に化粧品を広げる。
「メイクの練習しよ!」
リップグロスを塗られる時の頬の感触が、羽根で撫でられるようだ。まつ毛カーラーを初めて使って泣きそうになるハプニング。理子が私の顔を固定する手の温もりが、なぜか懐かしい。
「完成! 美羽ちゃん、絶対モテる~」
鏡に映った自分が、百貨店のウィンドウのマネキンみたいに洗練されている。理子の笑顔が曇りない鏡のように清らかで、ふと本音を漏らす。
「七瀬さんって…本当に楓先生が好きなの?」
瞬間、部屋の空気が蜂蜜のように濃くなる。理子がクッションを抱きしめながら天井を見上げる。
「好きっていうか…憧れ? 先生が持ってる『大人の余裕』が眩しくて」
その言葉に、元オッサンの心臓がギクッと音を立てる。私が求めていた「リセット」とは違う種類の再生を、理子は静かに望んでいるのかもしれない。
就寝前、理子が突然私の布団に潜り込んでくる。
「ちょっと…寒いから」
彼女の足先が冷たいのに、背中の温もりがやけに熱い。月明かりが照らす天井に、神社の階段の夢が浮かび上がりそうになるのを必死に消す。
(これが…女の子同士の距離感)
隣で眠る理子の寝息に合わせて、ゆっくりと目を閉じる。外で雪が降り始める音が、布団の中の小さな絆を優しく包んでいった。