第四十五話「桜色ノートと鉛筆の調べ」
梅雨明けの図書室で、理子が私の消しゴムを転がしながらため息をつく。水色の蛍光ペンが問題集を染めていく軌跡が、隼人が描いた配線図みたいに複雑だ。
「ねえ美羽ちゃん、この数式お花みたいだね」
理子の指先が二次関数のグラフをなぞる。彼女のマニキュアに付いたラメが、文化祭で使ったスプレーの輝きを思い出させる。
「ほら、ここに花びらを描けば...」
私の手が自然に動き、グラフの頂点に桜のイラストを添える。三十二歳の部下にプレゼン資料を作っていた手つきとは違う、柔らかな曲線が生まれる。
「すごーい! これなら覚えられる!」
理子の歓声に合わせて、隣の席で参考書を広げる隼人が顔を上げる。彼のシャーペンの芯が0.3mmから0.5mmに変わったことに、なぜか胸がキュンとする。
「桜井さん、この物理問題...」
隼人が差し出したノートの余白に、無意識に電球のイラストを描き加える。男子時代の回路図の知識が、今は水彩のような優しいタッチに変わる。
「ここに抵抗が入ると、明るさがこう変わるの」
指で描いた光の広がりが、理子の瞳に映る。彼女が「わかった! イルミネーションみたい!」と叫ぶ声に、隼人が工具箱から実際の抵抗器を取り出す。
「実物だとこんな感じ」
渡された金属片の重みが、彼の掌の温もりを伝える。理科準備室の薬品棚から漂うエタノールの匂いが、なぜか甘い芳香に感じられる。
放課後の河原で、三人分の参考書が水鏡のように広がる。理子が革靴を脱いで浅瀬に入り、「冷たいっ! これが水の抵抗?」と笑う。
「七瀬さん、そこ滑るよ」
隼人が差し伸べた手に、理子がじゃんけんのパーを出す。その無邪気さに、私が編み出した記憶法「花びら公式」が役立つのか不安になる。
「ねえ、美羽ちゃんの勉強法ってどうやって思いつくの?」
ふと問われて、シャーペンの芯を折りそうになる。雲の影が川面を撫でる軌跡が、前世のオフィスのブラインドを連想させる。
「たぶん...」てのひらに小石を転がす。「隼人くんが工具を整理するみたいに、知識を可愛く並べるから」
理子が「ずるい! 私にも教えて!」と水しぶきを上げる。隣で黙々と単語帳を作る隼人の耳が、夕日に透けて赤く染まっている。
雨の予報を裏切り、突然の虹が校舎を包む昼休み。屋上で食べるおにぎりの海苔が、理子の手作りだと知って驚く。
「お母さんに習ったんだ」彼女が照れくさそうに頬を掻く。「女子なら料理くらい...って」
その仕草に、楓先生が家庭科室で鍋を掻き混ぜる姿が重なる。私の手元でおにぎりが三角形にまとまる過程が、数学の証明問題のように思える。
「桜井さん、具材の分布が理想的だ」
隼人が真面目な顔で分析する。ごま塩の粒が指紋に刻まれる感触が、なぜか胸の奥をくすぐる。
「ほら理子、のりの端はこう折るの」
手を取り合って教えるうちに、隼人の小指が私の手首に触れる。屋上の手すりに止まった蝶々が、文化祭で使った装飾リボンと同じ色で舞う。
試験前日、理子の部屋に泊まることになる。電気スタンドの灯りで、彼女の参考書に私が描いたイラストが妖精のように踊っている。
「美羽ちゃんのノート、マンガみたいでいいなあ」
理子が私のひざ枕で分数と格闘する。シャンプーのリンゴの香りが、隼人の柔軟剤の匂いと混ざり合う記憶が蘇りそうになるのを必死で抑える。
「ここはね、ケーキを三等分するイメージで...」
指で円を描くと、理子の髪がくすぐったい。小学生の頃、母親に算数を教わっていた時の安心感とは違う、甘酸っぱい緊張が部屋に満ちる。
「わかった! これってつまり...」
理子が突然跳ね上がり、頭が私のあごに当たる。痛みと笑いが入り混じる中、隣の家のピアノ練習曲が『エリーゼのために』から『乙女の祈り』に変わる。
「もうすぐ門限だぞ」
階段を上がる隼人の声に、二人で「うるさいー!」と叫ぶ。彼が差し入れたアイスの棒が、図形問題の補助線みたいに机の上で交差する。
試験当日、理子が私の作ったお守りを握りしめて教室に入る。画用紙に描いたイチョウの葉が、隼人が工具箱に貼ったシールと対になるデザイン。
「美羽ちゃん式花びら公式、バンザイ!」
理子が答案用紙に小さな桜を描くのを目撃し、監督の先生に注意される。隼人が咳払いで合図を送り、私が消しゴムを転がしてごまかす。
帰り道、三人の影が夕日に伸びる。理子が「絶対同じ高校行こうね」と小指を求め、隼人が工具箱から銅線で作った指輪を取り出す。
「合格したら...」
渡された指輪の内側に、私たちのイニシャルが刻まれている。川面に浮かぶ花びらが、解答用紙に書いた数式の曲線を再現している。
「当たり前でしょ」
握り合った手から、未来の桜の香りがほのかに漂う。男子だった記憶など、もう勉強法の1つでしかない。今この瞬間、私は紛れもない女子中学生なのだから。




