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第四十一話「朝焼けの体温計」

午前五時十七分、目覚まし時計の針が現実と夢の境界線で震えていた。薄明かりの中、ベッドのシーツが汗に濡れて重たい。喉の奥で懐中時計のネジが回るような乾きを感じながら、掌をそっと下腹部に当てる。中学一年の身体測定以来、初めて意識する熱の輪郭が広がっている。


「……っ」


窓際のミラーに映った自分が、夢の中の二十代の面影と瞬時に重なる。頬の火照りが文化祭の電飾のように脈打ち、膝裏に張り付いた汗が修学旅行の夜の雨を思い出させる。男子時代に生理現象としてしか認識しなかった「あれ」が、今は全身を流れる未知の電流として皮膚の下を駆け巡る。


枕元のスマホを握りしめる。隼人とのLINE画面で最後のメッセージが「工具の写真ありがとう」で止まっている。指が無意識に送信済みの画像を拡大——ネジを並べる彼の指先が、夢の結婚式で理子に指輪をはめる手と重なって見える。


「だめ……!」


冷蔵庫の製氷音が雷鳴のように響く。タオルケットを蹴り飛ばした足首が空気に触れ、ふとプール授業で隼人に補助された時の水の感触が蘇る。腰の筋肉が不意に収縮し、教科書で読んだ「思春期の身体変化」の図表が瞼裏を走馬灯する。


男子時代の知識が、今この少女の体で起きている現象を理屈で説明しようとする。交感神経、エストロゲン、自律神経の乱れ——全ての専門用語が砂の城のように崩れ、代わりに隼人が工具箱を整理する後ろ姿が網膜に焼き付く。


「……どうして」


呟き声が震える。理子が家庭科室でカルピスをこぼした時の笑顔が、突然嫉妬のフィルターを通して鮮明によみがえる。爪先がベッドフレームに触れ、文化祭で一緒に飾り付けした紙花の感触を思い出す。


スマホの待受画面が暗くなる。その瞬間、全身の感覚が集中するポイントが、解剖学の模型よりも具体的に自覚される。冷房の風が首筋を這い、教室で隼人のシャンプーの香りを嗅いだ時の記憶が皮膚の下で発酵する。


「……あ」


指が自然に動く。下着のゴムを通り過ぎた瞬間、理科室の実験で触ったアンモニア溶液の匂いが鼻腔を刺す。隼人が故障した扇風機を直すため半袖姿で梯子に登っていた時の、あの日の光景——鎖骨の汗、腕の筋肉の収縮、工具箱から零れる潤滑油の匂い——が鮮烈に蘇る。


「……んっ」


歯茎に力を入れる。ベッドのスプリングが軋む音が、あの日校庭の鉄棒で逆上がりを教わった時の音とシンクロする。男子時代に部下の恋愛相談を受けたオフィスのソファが、今このベッドの感触と重なり、過去と現在が螺旋階段を描く。


「駄目だ……こんなの……」


瞼を強く閉じる。まぶた裏に浮かぶのは、修学旅行の夜に隼人が修理したプロジェクターの青い光。その光の中を泳ぐ塵が、今や体内を駆け巡る無数の神経信号に見える。


突然、廊下で母の足音が近づく。慌ててタオルケットをかぶると、汗の匂いが女子更衣室のロッカーと重なる。心拍数が体育祭のリレー直後のように上がり、耳朶で血潮が潮騒のように鳴る。


「みう? 熱でもあるの?」


ドア越しの声に、喉がカラカラに渇く。「大丈夫……!」と叫んだ声が妙に甲高い。中学入学時の声変わりを思い出し、涙腺が突然熱くなる。


冷蔵庫の氷を齧りながら、浴室の鏡に映った自分を観察する。頬の紅潮が文化祭のメイクより濃く、鎖骨の窪みに朝日が溜まっている。シャワーの水しぶきが、隼人が自転車のチェーンを洗っていた時の水の軌跡を再現する。


「……ばかみたい」


突然浴槽の縁を叩く。32歳の理性が15歳の身体を制御できない歯痒さが、石鹸の泡のように全身を覆う。男子時代に軽蔑していた「感情に流される部下」が、今や自分自身の鏡像となる皮肉。


登校時間、理子がいつもより早く現れる。彼女のリボンの結び目が乱れているのが、楓先生への告白前夜と同じだと気付く。


「美羽ちゃん、目腫れてる?」


鞄を預ける手が止まる。理子の視線が私の首元を掠め、なぜか昨夜の夢の花嫁衣装が脳裏を過る。


「隼人くんに……何かあった?」


その名前を口にした瞬間、またもや下腹部に熱の波が押し寄せる。理子が真剣な顔で近づき、「実は私……」と切り出す唇が、式場の盃を飲む姿と重なる。


「ちょっとトイレ!」


逃げるように教室を出る。廊下の窓から見える校庭のイチョウが、夢の中で神殿の装飾だった枝振りと酷似している。手の平に残る工具箱の鍵の幻影が、現実のドアノブの冷たさと混ざり合う。


放課後の図書室で、隼人が文化祭の配線図をチェックしている。彼の後頭部の髪の渦巻きが、工具箱のネジの並びと同じ法則性を持っていることに今更気付く。


「ここ、絶縁テープの巻き方が……」


指摘する声が裏返りそうになる。隼人が振り向いた時の睫毛の長さが、夢の新郎のそれよりリアルに突き刺さる。工具の油の匂いが、式場の百合の香りに変換されそうになる。


「桜井さん、大丈夫ですか?」


心配そうな瞳が真正面から覗き込む。膝がガクンと震え、女子トイレの個室に駆け込んだ時の記憶が蘇る。必死で資料を抱え、「熱中症の……予防に!」と叫びながら逃げ出す背中に、理子の視線が焼き付いているのを感じる。


夕暮れの川辺で、制服のスカートを水に浸す。冷たい水流が、体内に燻ぶる火種を鎮める幻想に囚われる。ふと夢の中で流した血の滴が、川面に浮かぶ落ち葉と同じ赤だったことを思い出す。


「美羽ちゃんの秘密、知ってるよ」


背後で理子の声が響く。転んだ拍子にズボンを濡らした彼女が、まるで式場の花嫁のように輝いて見える。


「私も……同じだから」


投げられた小石が水面に七つの波紋を作る。その数が、文化祭で一緒に飾った風鈴の数と同じだと気付く瞬間、夕日が二人の影を一つに縫い合わせる。隼人を巡る想いが、透明な糸のように絡み合う音が川風に乗って流れる。


帰路、握り締めた石の欠片が掌紋に「隼」の字型に食い込む。明日の太陽が、この秘密をどう変容させるのか、十四歳の身体はまだ知らない。

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