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第四話「私服迷宮と神様の悪戯」

朝6時。クローゼットの扉を開けたまま30分が経過していた。制服以外の服が宇宙服に見える。手に取ったワンピースのタグに「シフォン」と書かれており、お菓子のパッケージかと本気で疑う。


「みうー! 七瀬さんが迎えに来てるわよ!」


母の声にパニックが加速する。窓の外にはピンクの自転車に乗った理子が、カモメのように腕を広げて待機中だ。彼女の私服——レースのついたチュニックにデニムショートパンツ——が異次元のオシャレに見える。


「待って待って! 5分…いや3分で!」


引き出しを漁る手がレジ袋のようにガサガサ鳴る。男の頃の記憶が蘇る。服選びとは「清潔感があればOK」という極論だったのに、今や「友達と合わせる」だの「トレンドカラー」だの、戦場の指令書のような要件が並ぶ。


「これで…いけるか?」


鏡に映ったのは黒のボーダーTシャツにカーキパンツ。昨日の体育で着た体操服と大差ない。首元に巻いたバンダナが唯一のアクセントだが、どう見ても配管工のアルバイト風だ。


「あら、お父さんみたい」


母の一言で心が折れる。泣きそうになりながら脱ごうとした瞬間、理子が部屋に乱入してきた。


「遅いよ…あら?」


彼女の視線がクローゼット内をスキャンする。まるで考古学者が遺跡を発見した時のような眼差しだ。


「全部制服と同じ系統の色ばっかり! 美羽ちゃん、私が直してあげる!」


理子が魔法使いのように服を組み合わせ始める。水色のブラウスにベージュのスカート、そして謎の透明感があるレギンス。私の体が突然別人のように華奢に見えるから不思議だ。


「ほら、これで完成!」


首にかけられたネックレスが鎖骨に冷たい。リボン付きのサンダルを履かされるたび、足の指が恥ずかしがる。理子が私の腰に巻いたチェーンのベルトが、へその上でキラリと光る。


「でも…動きづらい」


「ファッションは我慢よ! 駅前のフォトスポットで撮影するんだから」


彼女の瞳が少年漫画のように輝いている。外に出ると、隼人が偶然ゴミ出しをしていた。私の私服姿を見た瞬間、彼が牛乳パックを逆さまに落とす。


「お、おはよう…その…似合ってる」


急いで去る背中が赤くなっているのを、32歳の魂は見逃さない。心臓がタイヤキのように焼ける感覚に、思わずリュックの紐を締めすぎる。



駅前のショップウィンドウが敵対的に映る。自分の姿がディスプレイに重なると、別人の妹と出会ったような錯覚に襲われる。理子が「かわいい!」連発しながら撮る写真の大半が、私の「笑顔の練習中」の不自然な表情だ。


「次はアクセサリー屋さん!」


試着コーナーで理子が私の耳にイヤリングを当てる。鏡の中の少女が頬を染めている。男の頃は「ピアスは痛そう」と思っていたのに、装飾品の冷たさがなぜか心地よい。


「あ、これ絶対似合う!」


理子が手にしたのは猫耳のヘアバンド。抵抗する腕を無視して頭に乗せられる。鏡の中の自分が完全に「女子高生(仮)」になっている現実。ふとショップの鏡に、あの神社の老人が映り込んだ気がして振り向くが、そこには普通の老婆が立っていた。


「お二人さん、学生割引ありますよ」


店員の声に我に返る。財布の中身が心もとないことに気付き、汗が背中を伝う。レジで小銭を数える手が震えるのを、理子が優しく手で覆う。


「私がおごる! だって美羽ちゃんの変身記念だもん」


彼女の笑顔に、男時代のプライドが粉々に砕ける音がする。受け取った袋の重みが、奇妙な罪悪感よりも温かい。



カフェで休憩中、理子が突然真剣な顔をする。


「実はね、美羽ちゃんに相談があるの」


吸い込まれそうな青い瞳。喉の奥で心臓が踊る。


「楓先生に渡すプレゼント…どっちがいいと思う?」


鞄から出たのはハンドクリームと革のブックカバー。どちらにも小さなイチョウのマークが刻まれている。理子の指が商品を撫でる仕草に、ある疑念が頭をよぎる。


「七瀬さん…楓先生のこと」


「あはは、バレた? 実は私、先生が転校してきた時の第一印象が忘れられなくて」


話すうちに頬を染める理子。その表情から、単なる憧れ以上の感情が滲み出ている。私はフォークの先でパンケーキを突きながら、自分がまだ「元オッサン」だと痛感する。


帰り道、夕焼けが私服をオレンジに染める。理子が突然「あっち行こう!」と路地裏に引き込む。古びた写真館の前に佇む楓先生の姿に、二人で息を殺す。


「あの…先生の後を追ってみない?」


理子の目がキラキラしているのを見て、思わず過去の同僚を思い出す。あの頃の自分も、取引先の美人OLにこんな目をしていただろうか。


尾行の末に着いたのは廃墟同然のゲームセンター。楓先生が懐かしそうにダンスマシーンを見つめている。彼女の後ろ髪に隠れた白いイヤリングが、理子の持つ商品と全く同じデザインだと気付く。


「帰ろう」


私が理子の袖を引く。彼女の手のひらが冷たくなっているのを、ただの夕暮れのせいだと誤魔化す。



帰宅後、クローゼットの前で発見があった。母が密かに仕込んでいたというラベンダー色のワンピース。タグには「15歳の誕生日用」のメモ付き。


「…着てみようかな」


鏡の前で一回転する裾が、なぜか涙の形に揺れた。今日理子がくれたイヤリングが、暗闇でぼんやり光る。窓の外を流れる雲の隙間から、またあの老人の笑い声が聞こえたような気がした。

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