第三十九話「硝子の羽根と工具箱の鍵」
雨上がりの夕暮れ、玄関の風鈴が壊れたまま鳴らない。リビングのソファで理子が私の膝枕になりながら、隼人が工具箱を広げる音に耳を澄ませている。母が淹れた麦茶の氷が、コップの縁でちりちりと泣いている。
「このネジ穴、少し潰れてますね」
隼人の指先に付いた潤滑油が、窓から差し込む夕陽で琥珀色に光る。工具箱の中身が、先週の文化祭で使った配線器具と同じ構成だと気付く。理子の髪の毛が私の鎖骨に触れ、女子更衣室で見た水着の紐を思い出させる。
「ねえ、これって逆回転じゃない?」
理子が突然身を乗り出し、隼人の手元を指差す。彼女の小指が隼人の手甲にかすり、工具箱の中のドライバーが床に転がる。三人同時に手を伸ばした瞬間、頭がぶつかり合う熱さが頬に滲む。
「ご、ごめん…」
隼人が耳を赤くして俯く。その分け目に白い頭皮が見えて、男子時代の部下が緊張する癖と重なる。理子が私の腕をつねり、目配せで「今のドキッとした?」と訴えてくる。
母が台所で包丁を研ぐ音が、奇妙なリズムを刻む。隼人が拾ったドライバーの先に、私が破棄した手紙のインク痕が付着している。あの夜書いた『小野寺くん』の『く』の字のカーブが、なぜか工具の傷跡にそっくりだ。
「そういえば…」
理子が足をばたつかせながら話題を逸らす。「この前の金魚鈴、校庭の木に結んだら翌日消えてたんだよ」
隼人がポケットから錆びた鈴を取り出し、「実はこれ…」と呟きかけて、母の「おかわりどうぞ!」の声にかき消される。
窓の外で蝉の抜け殻が枝から落ちる。理子が「あっ」と小さく叫び、隼人の肩越しにそれを指差す。彼の首筋に光る汗が、その一瞬だけ金魚の鱗のように輝いて見えた。
暗がりの中、三人で壊れた風鈴の修理を続ける。隼人がガラス片を透かしながら、「桜井さんの家って、いつも工具の音がしてる」と呟く。その言葉に、父が残した腕時計の分解音を思い出す。母が廊下で三味線の調弦を始め、低い「ド」の音が床を震わせる。
「小野寺くんの家ってどんな感じ?」
理子が無邪気に尋ねる。隼人がネジを回す手を止め、「工場の機械音が絶えないんです」と答える。その瞼の裏に、夜間中学の電気工事現場で働く父親の姿が浮かぶ気がした。
「あ、そうだ! 文化祭の電気系統チェックしなきゃ」
私が立ち上がろうとした瞬間、理子に引き戻される。「委員長はもうお休みでいいの!」彼女の力加減が、プールで溺れかけた時の腕の感覚に似ている。
隼人が風鈴の吊り下げ部分を精巧に組み立て直す。その指先の動きが、先月の物理実験で見た振り子の等時性を連想させる。「七瀬さんがデザインした飾り、ここに付けますか?」
ガラス片に通された銀線が、理子のペンダントと絡み合う。
母が夜食のそうめんを運んできた。理子が麺を啜りながら、「隼人くんの食べ方って機械みたい」とからかう。彼が箸を止め、「父さんにしつこく矯正されたから」と笑う歯の裏側に、小さな銀歯が光る。
「美羽ちゃんの食べ方、お姉さんみたい」
理子の指摘に、喉のそうめんがひっかかる。三十二歳のクセが、まだ舌の動きに残っているらしい。隼人が「確かに効率的です」と真顔で同意し、理子がゲラゲラ笑い出す。
台所で氷が割れる音がして、母が「あら、また製氷機が」と呟く。隼人が反射的に立ち上がり、「修理しましょうか?」と申し出る背中が、文化祭で電飾を点検していた時と同じ角度だ。
「小野寺くんって本当に修理屋さんね」
理子の言葉に、彼が鞄から工具を取り出す手が一瞬止まる。「…母さんが病気の時、壊れた時計を直すのが日課だったんです」
沈黙が流れる。風鈴の短冊がようやくかすかな音を立てる。その瞬間、理子の足が私のすねに触れ、隼人の工具の音がリビングの隅々まで染み渡っていく。
午後九時、修理が終わった製氷機から最初の氷が落ちる。理子が「記念に食べよう!」と無邪気に叫び、隼人が苦笑いで氷を砕く。その砕け方が、なぜか校庭のイチョウの葉の葉脈に似ている。
「今日はありがとう」
玄関で隼人を見送る理子の後ろ姿が、少し大人びて見える。彼女の浴衣の帯の結び目が緩んでおり、中学一年の文化祭で私が間違えた結び方と同じだ。
「七瀬さん」
隼人が振り返り、「今日の修理代わりに」と風鈴の短冊を差し出す。そこには『友情』と書かれるはずだった下書きが、なぜか『初恋』に変わっている。理子の息が首筋で止まる。
自転車のライトが路地を照らす。隼人の影が長く伸びて、私たちの影と地面で握手する。理子が私の小指を握り、「あのね…」と呟く声が、風鈴の残響に消える。
母が風呂の湯を沸かす音が二階に響く。理子と並んで布団を敷きながら、彼女が突然「美羽ちゃんの耳、赤いままだよ」と指摘する。隼人が触れた工具の温度が、まだ掌に残っているようだ。
「私さ」
理子が天井のシミを見つめる。「隼人くんの銀歯、かっこいいと思った」
その感想に、ふと楓先生のイチョウのイヤリングを思い出す。大人になれば気にならなくなる傷も、十四歳の今は輝いて見えるのだ。
「ねえ、これからも三人で…」
理子の言葉が途切れる。隣の部屋で母が三味線を弾き始め、『六段の調べ』が硝子の羽根のように舞い降りる。私の左頬のほくろが微かに疼き、あの大正時代の写真の少女が今ここに息づいている気がした。
明け方近く、理子の寝息に混ざって隼人の工具の音が耳朶で共鳴する。母が密かに書き残した『文化祭注意事項』の裏に、『みうの選択肢はいつも二つ』という謎のメモが光っている。窓の外では、壊れたはずの風鈴がかすかに鳴り続けていた。




