第三十二話「三角定規の未来図」
母が用意した柏餅の甘い香りが、リビングの蛍光灯の下でゆらゆらと漂っていた。座卓の上に広げた参考書の山が、隼人の分厚い問題集と理子のカラフルな付箋で埋め尽くされていく。窓の外で五月雨が降りしきる中、三人分のココアの湯気が複雑な数式のように絡み合う。
「ねえ、これって連立方程式の応用じゃなくて図形問題だよね?」
理子が赤ペンでノートを突く。彼女の頬に付いたホワイトチョコの粉が、なぜか楓先生のイチョウのブローチを彷彿とさせる。隼人が私の肩越しに問題文を覗き込み、指で三角形を空中に描く。
「ここに補助線を引くんだ。そうすればこことここが相似になる」
彼の指先が私の鎖骨あたりを通り過ぎるたび、ココアのカップが傾きそうになる。男子時代、部下に教えていた時とは違う種類の緊張が首筋を伝う。
「わかった! 美羽ちゃん、隼人くんの説明で理解できた?」
理子の無邪気な質問に、私はうなずきながら自分のノートを隠す。実は隼人の体温が近すぎて、最後の三行が波打ち線になってしまっていた。
二日目の夜更け、母が差し入れたおでんの匂いが勉強机を包む。理子が大根をほおばりながら突然真剣な顔をする。「私、実は工業高校のデザイン科も考えてるんだ」。その告白に、隼人が箸を止めた音が深夜の台所に響く。
「でも楓先生が転勤するから…」
理子の指が昆布をぐしゃっと掴む。彼女のスマホの待受画面が、先生との最後の文化祭写真から私と隼人のツーショットに変わっていることに今更気付く。
「オレも志望校変えようかと思って」
隼人が唐突につぶやく。工具箱から取り出したネジが、おでんの汁に落ちて小さな波紋を作る。「この前の模試で、桜井さんの目指してる学校の合格圏内まであと30点だった」
私の喉が急に熱くなる。先月隼人が深夜の公園で「工業高校で終わるつもりだった」と呟いた時の表情が、おでんの湯気に溶けて見える。
「30点なら余裕だよ!」理子が突然立ち上がり、壁に貼ったスケジュール表を引きちぎる。「特訓しよ! 私が英語を、美羽ちゃんが数学を、隼人くんが…えーっと、その工具で頭叩いて!」
隼人が苦笑いしながら私のシャープペンを借りる。「物理の力学的エネルギー保存則なら教えられる」。彼の手が私の手の甲に触れた瞬間、中学生になって初めての生理でパニックになった日を思い出す。
最終日の朝、雨上がりの庭で三人並んでストレッチする。理子が「脳みそに酸素を送り込むんだ!」と叫びながら前屈する姿が、文化祭のダンス練習と重なる。
「桜井さん」
隼人がタオルで首筋の汗を拭きながら、庭石に腰を下ろす。「あの時図書室で言った『人は変われる』って、実は自分に言い聞かせてたんだ」
柘榴の木から雫がぽたりと落ちる。中学時代の私が女子トイレで泣いていた時、誰かがドア越しに差し入れてくれたティッシュのことをふと思い出す。
「工具屋の親父さんに『お前は器用なだけ』って言われてた」
隼人の掌に乗ったネジが朝日にきらめく。「でも最近、壊れたものを直すより…新しいものを作りたいって思うようになった」
理子が突然私たちの間に割り込んできて、両手で頭を抱える。「もうやだ! 隼人くんまで難しこと言い出したら付いていけないよ~」。彼女のリボンが私の鼻先をかすめ、甘いシャンプーの香りが混ざる。
「七瀬さんこそ」隼人が理子の消しゴムをひょいと奪う。「楓先生に『成長した』って言われたくて、家庭科のエプロン仕上げに三時間かけてたじゃないか」
「そ、それは…!」
理子が真っ赤になって隼人を追いかける。彼女が転びそうになった瞬間、私と隼人が同時に手を伸ばす。三人の腕が絡まった影が、濡れた庭石の上で奇妙な方程式を描く。
最終チェックの数学問題で事件が起きた。理子が解いた答えが、なぜか楓先生の携帯番号の下四桁と一致する。
「これは…運命のサイン!」
理子が叫びながらスマホを握りしめる。隼人が呆れ顔で「単にケアレスミスだろ」と指摘するが、耳の後ろが赤くなっているのが分かる。
「でも確率にしたら0.001%だよ! ねえ美羽ちゃん、これって…」
私が理子の興奮を鎮めようと手を上げた瞬間、隼人がそっと答案用紙を差し出す。「答え合わせより、七瀬さんの解法の方が面白いかも」
その紙には、理子が悩んだ軌跡がカラフルな矢印で記されていた。誤答から正解に至る道筋が、まるでイチョウの葉脈のようだ。
「隼人くん…これ私の間違い全部分析してたの?」
理子の声が初めて小さくなる。隼人が窓の外を見ながら「委員長の手伝いのつもりで」と呟く。その横顔に、文化祭で電飾ツリーを修理した時の真剣さが浮かぶ。
夜の最終ミーティングで、母が特別に白玉ぜんざいを振る舞う。理子が「受験よりこっちで起業しようよ」と冗談を言いながら、隼人がそっと私の小皿に栗を分けてくれる。
「明日からまた一人で勉強か…」
理子が湯気の向こうでぼやく。隼人が箸袋を三角に折りたたみながら「週末も集まれば」と提案する手が、微妙に震えている。
風呂上がりの廊下で、隼人が突然立ち止まる。「この二日間、オレ…」。その背中越しに、中学生になって初めて買ったブラジャーのホックが苦しかった夜を思い出す。
「隼人くんの工具箱」
私が洗面所の鏡に映った彼を見つめる。「文化祭の時より、ネジの数増えてるよね」
彼の肩がぴくりと動き、「桜井さんには何でもバレるな」という笑い声がタオルの匂いに包まれる。
明け方、最後の確認テストを終えた三人が庭のベンチで仮眠を取る。理子が私の膝を枕に、隼人が私の左肩に頭を預けている。母が撮影した写真が、後日私たちの卒業アルバムで「運命の三角形」というキャプションになるとはまだ知らない。
隼人の時計のアラームが鳴る直前、彼が夢うつつでつぶやく。「同じ学校で…また委員長に投票するから」。その言葉を理子が「ずるい…私も」と繰り返すのが、五月雨に洗われた柘榴の葉の音に消える。
母がそっと掛けてくれた毛布の下で、三つの体温が未来の形を模索していた。




