第二十九話「陽炎のフェミニン」
天井の扇風機が回るたび、レースのカーテンが肌にまとわりつく。実家の昼下がり、スマホの画面に映るイケメンYouTuberの笑顔が、畳の目盛りを歪ませる。冷やしたての麦茶の水滴が、鎖骨の窪みで小舟のように揺れる。
「この人…前より筋肉ついた?」
無意識につぶやいた声が、ふすま越しに母の足を止める。指がスクロールする度に、タンクトップから覗く二の腕の血管が、中学時代に憧れた陸上先輩と重なる。
突然、下腹部に懐かしい疼きが走る。生理三日目特有の鈍痛とは違う、甘酸っぱい熱が腿の内側を這う。団扇で仰ぐ風が逆効果になり、汗がタオル地のショートパンツに染みる。
「あれ…?」
スマホを落とし、押し入れの鏡台に膝をつく。頬の紅潮が、文化祭で理子が塗ってくれたチークよりも鮮やかだ。首筋に浮かんだ汗の軌跡が、川辺で少年に撮影された時の構図と同じ。
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仏間の線香が折れる音と同時に、記憶の断片が舞う。男子時代、コンビニの雑誌コーナーで目を背けたグラビアページ。今は画面の肉体が芸術品に見え、親指が自然に拡大操作する。
「だめ…」
布団に潜り込むと、祖母の手縫いのシーツが火照った肌を責める。エアコンのリモコンを探す手が、代わりにタンスの奥の日記帳を引きずり出す。14歳の春に書いた「彼氏が欲しい」の文字が、インクの滲みで立体化する。
「んっ…」
漏れた吐息が、障子紙を震わせる。スマホの画面に映る喉仏のない首元が、ウェディングドレスの試着時を思い出させる。腿を絞める力が、いつしか快感のリズムに変わる。
「あ、あの時と…違う」
高校時代の自慰の記憶が、今の感触と交錯する。指先の動きが洗練され、潤滑油代わりの汗が茉莉花の香りを放つ。ふと理子が「女の子のオナニーってね…」と囁いた浴室の記憶が蘇る。
◆
爆発的な快感の後、縁側で洗濯物を干す祖母の声が耳に飛び込む。「美羽、氷菓子買ってきて」。震える脚を立て直し、スカートのシワを必死に伸ばす。
コンビニの冷蔵ケース前で、イケメンアイドルのポスターが視線を遮る。レジ袋を持つ手に、男子時代の財布の革臭が蘇る。でも今は小銭入れから飛び出した生理用品が、現実を突きつける。
「お嬢さん、大丈夫?」
店員の心配そうな声に、頬の火照りが再燃する。逃げるように駆け出す自転車のチェーンが、あの日川辺で追いかけた風鈴の音と同期する。
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夕暮れの納屋で古いアルバムを発見する。七五三の写真に写る私が、紛れもなく真紅の千歳飴を持っている。隣ページの運動会では、リボンを歪ませて泣く私の後ろに、神社の老人らしき影が写り込んでいる。
「おかあさん、これ誰…?」
母が胡瓜の漬け込みを止める。「あら、美羽じゃない。近所のおじいさんよ」。でもその手の震えが、氷菓子の袋を濡らす。
仏壇のロウソクが揺れ、父の写真の裏から幼稚園のお絵描きが現れる。家族四人の絵の私が、黄色いワンピースで手をつないでいる。
「私…ずっと…?」
縁側の蚊帳の中で祖母が呟く。「あんたね、三歳で『お嫁さんになりたい』って」。その言葉が、夜の川面に投げた小石のように波紋を広げる。
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深夜、再びスマホの光に溺れる。イケメン医師のドラマ映像に、ふと楓先生の白衣姿が重なる。手が腿を撫でるのを止められない自分に、ある疑念が芽生える。
「本当に男だったのかな…」
爪先で畳の目を数える。男子トイレの小便器の記憶が霞み、代わりに初潮の日に母と買い物した下着売り場の照明が鮮明になる。生理用ショーツのパッケージを握った手の感覚が、今の汗ばんだ掌に蘇る。
「違う…確かにあの神社で…」
押し入れの奥から見つかる文化祭の衣装。委員長の腕章が、サラリーマン時代の名札と同じ傷跡を共有している。鏡台の抽斗から現れたピルケースが、未使用のまま埃を被る。
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早朝、川辺で自分と対峙する。水鏡に映る少女が、確かに14年間の私の歴史を背負っている。でも足元の小石を蹴ると、32歳の革靴で歩いた渋谷の交差点が揺らぐ。
「美羽ちゃん!」
理子からのビデオ通話が現実を引き戻す。「見て、海の写真!」画面越しの日焼けした笑顔が、私の曇った水鏡を打ち破る。
「私ね、夏休み明けに大切な話があるんだ」
その言葉に、川の流れが突然速くなる。指先で水面を撫でると、過去の私が「大丈夫」と囁く指紋が波紋に刻まれる。
帰り道、踏み切りの警笛が記憶の分岐点を告げる。線路を渡り切った時、ふと全てが夢だった可能性を受け入れる覚悟ができた。
仏壇に手を合わせ、「今の私でいい」と告げる。母が仕込んだ氷菓子の甘さが、初めて素直に美味しいと感じられる。




