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第二十三話「逆行する肖像」

目覚めた瞬間、天井のひび割れが視界から消えていた。ベッドの硬さが変わり、鎖骨の上にかかっていた髪の毛の重みがない。右手が無意識に胸元を探り、分厚い胸板の感触に鳥肌が立つ。


「…まさか」


浴室の鏡に映った男が、過去の自分だった。32歳の頬のたるみ、剃り残した無精髭、左腕の昔の火傷痕。女子中学生だった記憶が、悪夢の残滓のように脳裏をかすめる。


「みう…?」


母の声が階下から響く。その呼び名が、鏡の中の男に突き刺さる。慌ててタオルで体を覆い、押し入れの制服を探す。しかしあるのはスーツばかりで、ピンクのブラウスは幻のようだ。



通勤電車のつり革が異様に低く感じる。女子高生たちの視線が、以前とは違う角度から刺さる。無意識に膝を揃えた姿勢が、隣のOLに怪訝な顔をされる。


「すみません、お酔いですか?」


席を譲られそうになり、思わず甲高い声で断る。その声が中年男性の喉から出たことに、自分で嘔吐感を覚える。スマホの待受画面が、なぜか理子とのツーショットではなく、取引先の名刺スキャンになっている。


オフィスでエレベーターのボタンを押す指が震える。ネイルの跡がない爪が、白く不健康に見える。女子トイレの前で足がすくみ、清掃員に「そちらは男性用ですよ」と指摘される。


「あ、いえ…」


トイレ個室でズボンのチャックを扱う手が、女子仕様の動作を覚えている。前かがみになる癖が災いし、ベルトの金具が腹部を圧迫する。



昼食のコンビニで、無意識に女子中学生コーナーに立つ。店員が「お子様用お弁当はこちら」と声をかけ、顔から血の気が引く。レジ横の生理用品棚を見つめ、突然のめまいに襲われる。


「課長、大丈夫ですか?」


部下の声が遠のく。会議室のソファに横たわりながら、理子が編んでくれたマフラーの感触を思い出す。しかし現実は、ネクタイの締め付けが首に食い込んでいる。


「熱があるようですね。早退なさった方が…」


秘書の心配そうな目が、楓先生の優しさと重なる。エレベーターの鏡に映ったスーツ姿の男が、涙を流しているのに気付く。



夜の繁華街で、無意識に女子服売り場に入る。店員の「ご夫人用ですか?」という質問に、喉が詰まる。「いえ…自分で着ます」


更衣室で試着したブラウスが、肩幅で裂けそうになる。ボタンが閉まらず、鏡の中の変装した変質者が嘲笑っているように見える。


「お客様、ご試着はお一人様一点まで…」


店員の警戒する視線に、商品を床に落とす。逃げ出すように入ったゲーセンで、女子中学生たちの群れに混ざり太鼓の達人を叩く。かつてのリズム感が、鈍った男性の体で再現できない。


「おじさん、邪魔」


冷たい視線を浴びながら、クレーンゲームでイチョウのぬいぐるみを取ろうとする。理子が誕生日にくれたものと同じ型なのに、何度も失敗する。



アパートの風呂場で体を洗う手順が狂う。シャンプーの香りを「女子らしい」と選んでしまい、男性用ボディソープを買い忘れたことに気付く。浴槽に沈んだ瞬間、胸の重みがない虚無感に襲われる。


「みう…」


無意識に呼んだ名前が、浴室に反響する。スマホのロック画面を理子の写真に変えようとするが、社内セキュリティの警告が表示される。


布団に潜り込んでも、女子部屋の柔らかい感触がない。天井のシミが、神社の格子模様に見える錯覚。ふと隣で寝ていた理子の寝息を探す手が、冷たい壁に触れる。



午前2時、コンビニのコピー機で女子制服の設計図を印刷する。夜勤店員の疑い深い目を感じながら、急いで折りたたむ。


「成人男性が…」


背後で囁かれる言葉に、走り出す。路上で転んだ膝から血が滲み、中学生時代の自転車事故を思い出す。しかし止血するハンカチは、チェックの男子用だ。


マンションのエレベーターで、隣に立った女子高生が鞄を抱きしめる。無意識に「大丈夫?」と声をかけた声が、低い男声に変質している現実。


「キモい」


吐き捨てられる言葉が、エレベーターの鏡に何度も反射する。自室のドアを開ける手が震え、両親の写真が映ったテレビにへたり込む。



翌朝、ヒゲ剃りで頬に傷をつける。血の滴が白いシャツに落ち、文化祭で理子がケガした時の記憶が蘇る。ネクタイの結び方が分からず、YouTubeで検索する手が震える。


「おはようございます! 今日も頑張りましょう!」


部下の元気な挨拶が、耳の奥で歪んで響く。会議資料の数字が、女子時代のテスト問題のように見える。プレゼン中、突然「女子中学生です」と自己紹介しそうになる衝動。


昼休みに屋上で携帯を握りしめる。理子の番号を打ち込む指が、11桁目で止まる。「この声で話したら…怖がられる」


鴉の鳴き声が、嘲笑っているように聞こえる。



終電を逃し、公園のブランコに座る。隣に理子の幻影が現れ、無言で漕ぎ始める。


「戻りたい…」


呟いた声が、中年男性のうめきに変わる。ポケットから取り出した女子用リップクリームが、男性の手のひらで異様に輝く。


突然の雨の中、制服姿の自分とすれ違う。振り返った先には何もなく、ズボンのポケットがびしょ濡れになっている。


「おい、酔っぱらいの戯れ言はよせよ」


警官の懐中電灯が、過去と現在を切り裂く。雨に滲んだコンビニの看板が、女子中学生時代の下校路を歪めて映す。


アパートのドア前に佇むと、郵便受けから理子の字で書かれた手紙が落ちている。「美羽ちゃんへ」。しかし封を切ると中身は白紙で、涙の跡のようなシミだけが残っていた。


風呂場の鏡が曇り、女子の姿が一瞬浮かぶ。手を伸ばすと映像が消え、残ったのは32歳の男の裸体だけだった。


「お願い…戻して…」


排水口に吸い込まれる嗚咽が、第二十三話への引き金となる。

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