第二話「新生活は全身がセンセーショナル」
式典後の帰り道、腿の内側にじんわり広がる汗の感触が気になって仕方なかった。ランドセルの肩紐が鎖骨に食い込み、家に辿り着くまでに三回も姿勢を正した。
「ただいまー」
声のトーンを意図的に上げるのが苦痛だ。リビングで洗濯物をたたむ母親がテレビに向かって頷いている。平成の終わりを告げるニュースキャスターの声が、妙に現実感を剥ぎ取る。
トイレのドアを閉めた瞬間、背中が壁にへばりついた。二度目にしてようやく気付く異変――便座の冷たさが直接伝わらない。指先でスカートの裾をそっと捲り上げる。レース付きのショーツ。男の頃なら鼻血が出るような代物が、今は自分に密着している。
「…落ち着け。ただの生理現象だ」
便座に腰掛ける動作がぎこちない。足を閉じた状態で用を足す感覚に、未だに鳥肌が立つ。チラリと下を見て目を背ける。ピンクの包装紙の生理用品が棚に積まれている。まだ必要ないはずなのに、なぜか安心する自分がいる。
「終わったら前から拭くんだったよな」
記憶の断片が混線する。男性用トイレの壁に書いてあった「的を外すな」の落書きを思い出し、くすりと笑いそうになる。でも今は逆だ。拭く方向を間違えたら大惨事だ。トイレットペーパーを折る指先が震える。
ふと気付くと鏡に映った自分が真っ赤な耳をしている。頬のほくろが涙のように光って見える。手を伸ばして曇りガラスに指で絵を描く。無意識に描いていたのはサラリーマンのシルエットだった。
「みうー! お風呂沸いてるわよ!」
母の声に飛び上がる。洗面所の棚から落ちた綿棒が、まるで私の動揺を嘲笑うように転がっていく。
脱衣所でためらう。制服のボタンを外すたびに、胸元の薄い影が気になる。昨日までは何もなかった場所に、ほんのり膨らみを感じるような気がしてならない。タオルで体を覆いながら浴槽を覗き込むと、レモンの香りが鼻を刺す。
「子供用バスボム…?」
湯船に浮かぶラムネ菓子のような物体に笑いそうになりながらも、足先をそっと浸ける。熱さよりも先に、肌が水中でふわりと浮く感覚に驚く。以前の筋肉質の体と違い、どこか水に馴染みやすい柔らかさだ。
シャワーを浴びるたび、新たな発見が襲ってくる。リンスの容器を間違えてボディソープを使い、全身がベタつくハプニング。泡で洗うべき場所の優先順位に混乱し、ついデリケートゾーンをゴシゴシしすぎて痛い目に遭う。
「髪…長い」
お尻まで届く髪の毛を掬い上げると、重みで首がぐらつく。男の頃は五分刈りだったのに。シャンプーの香りが鼻腔を刺激し、くしゃみが止まらない。リンスを流す際に目に入った一滴が、思わず「殺す気か!」と浴室で叫ばせる。
湯船に沈んだ瞬間、視界がゆらめく。膝を抱えると、胸の小さな膨らみが水面にぷかっと浮かぶ。指先でそっと触れてみる。ゼリーのような弾力。急に恥ずかしくなり、おでこまで沈む。
(これが…女の子の体か)
風呂上がりの鏡が悪魔的だった。湯気で曇ったガラスが徐々に透明になるにつれ、自分が裸の少女になっていく。手で曇りを拭うと、鎖骨の窪みに水の粒が光っている。腰のくびれが不自然に感じるのは、元の記憶との比較があるからだ。
「みう! タオルでちゃんと拭きなさい!」
母の声に跳ねるように体を拭く。下着のフックが背中で踊る。パジャマのボタンを掛け違えて気付かず、食堂に現れる羽目に。
「今日の給食どうだった?」
唐突な質問に箸が止まる。記憶が混濁している。確かに給食を食べたはずなのに、メニューが思い出せない。隼人が直してくれたボタンの感触と、理子のリボンの匂いしか浮かんでこない。
「えっと…パンと…」
「また緊張して食べられなかったの? 明日はおにぎり持たせるわ」
母が呆れたように笑う。その笑顔の奥に、離婚の影がちらつく気がした。テーブルの下で膝をぎゅっと抱える。新しい体はまだ小さすぎて、正座すると足先が痺れる。
部屋に戻ると、ランドセルから謎のアイテムがぞろぞろ出てきた。キラキラした消しゴム。ハート型の定規。男子から渡されたらしい折り目だらけの手紙。全部昨日の自分には無縁のものばかりだ。
ベッドに倒れ込み、天井のシミを数え始める。隣の部屋で聞こえる母の電話の声。「そうね、あの子最近妙に大人びて…」という断片が耳に引っかかる。
ふと脚を組もうとして、太ももの柔らかさに驚く。パジャマの裾から覗く膝は、以前の自分が思い描いていた「女子中学生の膝」そのものだ。指で押すと白くなる肌の感触が、妙に官能的に感じて目を背ける。
(明日は体育あるんだよな…)
クローゼットにぶら下がった体操服を見つめながら、深いため息をつく。胸元の白い布地が、無機質に光って見えた。