第8話「黄金の追憶」
今から五八年前、妖精歴一八〇七五年。
当時のアリスとレアルスは七五歳。
幼少ながらも見習いとして研鑽を積んでいく中で、騎士団と共に遠征に参加することも増えている時期だった。
しかしちょうどその頃、【幻虹の妖精】による他種族の【天護者】狩りが頻発していた。
アリスたちは中立地帯の治安維持のために遠征した先で、【皇金の妖精】が標的となったという報を受ける。
虹エルフとの戦闘によって生じる首都への被害を避ける意図で、金エルフの天護者は戦いの舞台を中立地帯にある無人の森に移すため、軍を率いて北上しているという。
その報せを受けたアリスたち【灰燼の妖精】は、抗争の飛び火から中立地帯の同族を守るためそこに残ることとなった。
しかし金エルフと虹エルフが中立地帯に現れるや、想定を超えるほど激しい戦闘に巻き込まれ、戦場は混沌を極めた。
「レアルスっ!」
「アリス!!」
雷光や虹の極光、灰炎に赤炎などの様々な魔法、剣戟による甲高い金属音や絶叫が迸る。
そんな地獄絵図の中、騎士団の大人に抱えられたアリスとレアルスは戦場で分断されてしまう。
「アリス! しっかり捕まってるんだぞ!」
「は、はい……!」
見習いゆえ、まだ自身の相棒であるグリーズヴォルフを与えられていないアリスは、団員に抱えあげられ二人乗りの形で戦場から遠ざかろうとしていた。
遠征部隊隊長の号令により中立地帯の防衛を放棄して撤退を決めた灰エルフの騎士団は、混沌を極める戦場から少しでも早く逃れるため散り散りになっていた。
現在地の戦場は中立地帯東部で、レアルスを拾い上げた団員は西に活路を見出し、アリスを拾い上げた団員はアマルガムがある北東方向へとグリーズヴォルフを駆っている。
「っ!! 後ろです!」
背後から魔力の熾りを察知したアリスは、団員の背に声を飛ばす。
咄嗟に反応した彼は右手に握った長剣の切っ先を背後に向け、そこから灰色の炎塊を放った。
アリスたち目掛けて向かってきていたのは黄金の雷条で、灰炎と激突して燃え尽きた。
「すごいっ!」
咄嗟にもかかわらず魔法を相殺した団員の手腕に、笑みを浮かべながら前方へと向き直ったアリスだったが、視界に収めた光景に彼女は絶句する。
「あ……がぁ……」
同乗している団員の頭頂部から右眼球にかけてまでが撃ち抜かれ、アリスの眼前で滝のような血潮を零していたのだ。
空気中に先程と同じ雷光が迸っていることから、金エルフの魔法の流れ弾に被弾してしまったのだろう。
早急に対処しなければならないと思いながらも、アリスは自分の回復魔法では手の施しようがないと理解してしまっていた。
「この、子、を……たの、む……!!」
彼は命の灯火の終わりを悟ったように相棒であるグリーズヴォルフにアリスの命を託し、最期に優しく手綱を打ってからそれを彼女に持たせた。
「だっ、だめ……!!」
全身から力を失ってゆっくりと右側に傾いでいく彼に手を伸ばすアリスだったが、それを阻むように騎乗しているグリーズヴォルフが左方に跳躍した。
その結果、彼の身体が地面へと投げ出される。
さらにそこへ飛来する虹の極光が彼の身体を飲み込み、跡形もなく消し飛ばした。
グリーズヴォルフの咄嗟の判断がなければアリスもああなっていたと思うと背筋が凍りつく。
「ありがとう……あなたが一番辛いのに……」
『グゥルル……』
主人を失いながらも彼の最期の指示に従って戦場を駆けているものの、アリスには鋭利な牙を噛み締め悲しみを堪えているように見えた。
そんなグリーズヴォルフの後頭部を優しく擦ったアリスは、目尻に浮かんだ涙を指先で弾いて強い眼差しを前方に向けた。
未だに様々な魔法が飛び交う死地を脱出できてはいないのだ。
いつ先ほどの団員のように流れ弾によって命を失うか分からない。
それでもアリスはその翡翠の瞳に希望の炎を絶やすことはなかった。
進行方向の戦闘で、金エルフの雷光によって虹エルフの胸に風穴が穿たれる。
一人を討った金エルフの青年の背後から虹色の極光が放たれ、右半身が消し飛ばされた。
虹エルフの固有魔法である虹色の極光は、物質を分解して消滅させるという規格外の性質を持つ。
掠める程度なら問題ないが、まともに食らえば一瞬にして塵と化して消滅してしまうのだ。
そのため金エルフは着実に数を減らされていた。
「右から迂回して!!」
『ガウッ!』
声と手綱を動かす方向でアリスの意図を理解したグリーズヴォルフは地を蹴り、前方の戦闘を躱して駆け抜ける。
「邪魔をするな、灰燼の妖精の少女よ」
「っ…!?」
しかしその先で敵を斬り伏せた直後の虹エルフが、アリスに視線を向けて無感情に言い放つ。
それと同時に剣の切っ先が向けられ、そこから虹の極光が放たれた。
切っ先が煌めいた瞬間に即断したアリスは強引に手綱を左へ引き、グリーズヴォルフの体勢を大きく崩した。
騎乗しているアリスの側頭部が地面に擦れそうなほどの角度だ。
それによって射線から逃れたため、極光はアリスの灰髪の毛先を掠めるだけに留まった。
「っ……! はあぁ!!」
なんとか体勢を立て直したアリスは腰の細剣を引き抜き、すれ違いざまに裂帛の呼気と共に高速の一閃を放つ。
それは咄嗟に構え直された長剣の腹で受け止められてしまうものの、アリスは細剣を握る手に更に力を込めた。
「燃え尽きてっ!」
直後、細剣の切っ先から爆発的な灰炎を放ち、一瞬にしてその刀身を延伸した。
それによって虹エルフの防御を貫通した炎の刃が彼の喉元を貫き、一瞬にして全身を燃え上がらせる。
アリスが宿す魔力量は正団員と比較しても劣らないほど多く、かつ戦闘センスもピカイチなのだ。
さらに死地に等しい戦場の只中で、彼女の力は十全以上に発揮されている。
ゆえに格上の敵を相手にしても打ち倒すことが出来てしまったのだ。
「ぐあぁぁぁぁぁ!!!」
絶叫を上げながら炎上する虹エルフの喉元から細剣を引き抜きグリーズヴォルフに手綱を打つ。
それによって灰と化す彼の最期を見届けずに加速したアリスは、細身の刀身にべったりとこびりついたどす黒い血潮に目を落として愕然とした。
アリスが人を殺めるのはこれが初めてのことであり、自分が助かるためだったとはいえ凄まじい罪悪感が彼女の背にのしかかっていた。
それを振り払うべく、再び灰炎を刀身に灯してこびりついた血液を一瞬にして蒸発させる。
自身の命と敵の命を天秤にかけたアリスは、決意を胸に得物である細剣を横に薙いだ。
敵を殺してでも押し通らなければ、この混沌とした戦場から生きて帰ることは叶わないと己に言い聞かせて。
何度死を覚悟したか分からない。
そのたびに立ちはだかる敵に向かって絶叫を上げながら細剣を振るい、魔法を放って殲滅した。
創傷や裂傷、打撲や火傷など、痛まぬ場所が無いほどアリスの身体には数多の負傷が刻まれていく。
そのうえ自身の出血と敵の返り血が混ざり合って血みどろの様相を呈していた。
美しかった灰髪もすっかり血に塗れてどす黒く染まってしまっている。
見る者が見れば幽鬼のように見える容貌ながらも、アリスとグリーズヴォルフは必死にアマルガムを目指して駆けていた。
戦い続けるアリスと同様に、グリーズヴォルフも満身創痍でいつ倒れてもおかしくない状態だ。
それでも亡き主人の命令を遂行するために地を蹴り続けている。
「この森を抜ければあと少し……!」
見覚えのある灰色の木々の合間を縫っていく一人と一匹は、すでに混戦状態の戦場から脱出を果たしていた。
後はもう力尽きずに自国へと辿り着くのみのはずだった。
「……? 動物?」
北東方向に進むアリスは視界の右端に、なにやら動く影を視認した。
それを確認しようと首を右に向けた刹那——。
「っっ……!!」
これまでに感じたことが無いほど凄まじい、爆発とも言えるような魔力が彼女たちの後方で熾った。
つまりアリスたちが逃れてきた戦場の方向からだ。
咄嗟に振り返ったアリスだったが、後方に広がる光景は虹色の極光に埋め尽くされていた。
否、視界を埋め尽くすほどのそれは極光を束ねた巨大な大剣だ。
アリスは確実な死を悟った。
そして生きることを諦めようとした瞬間、彼女の背後から黄金の雷槍が飛来し、極光の大剣と激突した。
その衝突は周囲から一切の音を奪い、南西方向を虹の極光、北東方向を黄金の雷光が塗り潰した。
ほんの数秒間だけ虹色と黄金が拮抗したものの、極光の大剣の軌道が逸れただけで打ち消すことは叶わなかった。
振り下ろされた極光の大剣はアリスから見て左側に逸れている。
しかしこのままではまだその刃に両断される未来は変わらない。
「こっち!!」
アリスは叫びながらグリーズヴォルフの手綱を右側へと懸命に引いた。
それに従ってグリーズヴォルフの四足の筋肉が盛り上がり、これまでで一番の跳躍を見せた。
それと同時に大剣の下降が再開し、絶大なる威力を秘めた刃がアリスたちに迫る。
そしてアリスは直感した。
(躱しきれないっ……!)
グリーズヴォルフの跳躍をもってしても、大剣の軌道から完全に逃れることは出来なかったのだ。
しかし着地したはずのアリスの身体を再び浮遊感が襲う。
何事かと下方を見やれば、グリーズヴォルフが背中のアリスを突き飛ばしたということが理解できた。
自身を犠牲にしてでもアリスを生かそうとした彼の意思を理解し、彼女はそちらに向かって懸命に左手を伸ばした。
極光の大剣がアリスの視界を埋め尽くしながら大地に到達した刹那、周囲のすべてを飲み込むような虹色の閃光が迸った。
その閃光は視界はおろかアリスの触覚をすべて塗り潰し、自身と世界の境界さえ認識できなくなるほど強烈なものであった。
■■■とある理由から、アリスはこの後の記憶をほとんど有していない。■■■
「…………っ」
それからどれほど時が経過したのか判然としないまま、アリスは視界と感覚を取り戻した。
そして自身が仰向けに倒れていることを理解する。
それと同時に、耳を聾する霹靂が生じ、天空で黄金の雷が迸った。
そして虹色の大剣が振り下ろされた方向に大気を焼き尽くさんばかりの無数の雷条が降り注ぐ。
音の方向に眼を向けたアリスは無惨にも両断され、腹部から頭部にかけてのみが残ったグリーズヴォルフの姿を見つけて息を詰まらせる。
だが極光の刃を受けて骸が残っているだけでも奇跡的なことなのだろう。
彼が身を挺して庇ってくれたことを思い出したアリスは、事切れてしまったグリーズヴォルフに寄り添うため身体を起こそうと身じろぎをした。
「あっ、ぐぅ……!!」
瞬間、頭が焼け付いたと錯覚するほどの激痛が彼女を襲った。
視界が明滅するほどのそれが収まり、痛みを伝達したであろう自身の身体に眼を落としたアリスは絶句する。
そこにあるはずの左腕が、胸を抉るような位置から失われていたのだ。
そして自分が鮮血の池に倒れているということをようやく理解した。
「ぁ……」
それと同時に、傷口から自身の命が溢れ続けていることも認識してしまう。
それからアリスは自分の身体からじわじわと温度が抜け落ちていく感覚を味わい、命が尽きることを明確に理解した。
「灰燼の妖精の少女か……」
アリスはおぼろげな意識の中で、誰かが零したかすかな声を聞き取った。
懸命にそちらへ顔を向けると、ぼやける視界の中に黄金の人影が映り込んだ。
命の灯火が吹き消えそうなアリスの眼には、もうほとんど魔力の色しか映っていない。
それでも歩み寄ってきた誰かが纏う魔力の美しさを感じることは出来た。
「他種族の力を宿すことが出来る種族なら、あるいは……」
眩いほどの黄金の魔力を纏う人物は、仰向けに倒れるアリスをのぞき込んでいるらしい。
朦朧とする頭では理解できない何かを呟きながら、暖かな魔力を纏う手を彼女の欠損した左腕の傷口へとかざした。
それにより、致命傷である大きすぎる傷口から溢れ続けていた血液が完全に止まった。
「君には過酷な運命を背負わせてしまうかもしれない……。だが奴らがこの世界を制することになれば、すべての種族が滅ぶこととなる……」
出血が止まったのは治癒魔法によるものだったらしく、アリスの頭の中の靄が薄まり、ぼやけた視界が少しだけ精彩を取り戻す。
「大、天使……様……?」
そして自身を治療した人物の姿を目にしたアリスはそう零した。
そんな表現が適切なほど、彼女をのぞき込んでいる人物は神々しかったのだ。
女神が奏でる竪琴の弦のように滑らかな金の長髪に、はっきりとは認識できないが異様に整っているであろう目鼻立ち。
体格と声色から男性であることは分かる。
そしてアリスに大天使と言わしめた一番の要因であるのは、背に生えた三対六枚の黄金の大翼だった。
「大丈夫、君は助かるよ。だから今は眠っているんだ」
優しい声音を落とした彼は、手のひらでアリスの目元を覆い、瞼を閉ざさせた。
それによって一気に安心感を覚えたアリスは徐々に意識を失っていく。
「すまない……」
金髪の青年の弱々しい謝罪と共に、アリスの全身に膨大な魔力が流れ込んできた。
それはこれまでに感じたことのない全能感を彼女に与えると同時に、暖かな心地よさを全身に巡らせた。
段々と身体が柔らかな雲の中に落ちていくような感覚がアリスを満たす。
『——————アリス——フォティア……』
意識が完全に途切れる直前に青年の声とは異なる、男女の区別が付かないような不思議な声がアリスの頭の中に響いた。
しかしその声の意味を理解することは出来ず、自身の名が呼ばれたことだけ直感できた。
そして声の正体を深く思考することなく、彼女の意識は心地よい眠りへと落ちていった。