第32話「終戦」
ゆっくりとゆっくりと、浮遊感と共に蒼い空間を沈んでいく。
自身の傷口から流れ出す血潮が、周囲の蒼を汚している様がぼんやりと認識できる。
視線の先にはぼやけた光が煌めいており、シエル・アルムレクスはそれに向かって朦朧とした状態で手を伸ばした。
その暖かな光が、かつて敬愛した兄が纏う優しい魔力のように思えたからだ。
当然五八年前に命を落とした兄がいるはずもない。
シエルはそれが高天で輝き続け、昏い海中まで照らす太陽だと理解しながらも手を伸ばし続けた。
その光の中に兄だけではなく、忌々しい灰色の少女の姿も幻視してしまったシエルは顔を歪めて毒づいた。
──クソが……。
蒼い水の中ではそれが音となることはない。
その代わりに彼女の口腔から泡が溢れ、遠のいていく光に向かって上昇していった。
その泡とは対照的にシエルは仄暗い海底へと沈んでいく。
もう諦めて瞼を閉じようとした瞬間、泡が海面へと浮上した位置に何かが飛来して、シエルが吐き出したそれとは比にならないほど盛大な泡を生じさせた。
彼はシエルと同色の金髪を海水に揺らめかせながら、必死にこちらへ手を伸ばしている。
やがてその金髪の青年は沈みゆくシエルの元までたどり着き、伸ばされたままだった彼女の手を掴んだ。
水の中でも確かに感じる暖かさに、シエルは口端をほんの少しだけ持ち上げ微笑を浮かべた。
そしてゆっくりと瞼を閉じ、海上へと浮遊していく感覚と共に意識を喪失した。
◆ ◆ ◆
このまま倒れたらまずい、とアリスは理解していた。
周囲には吹き飛んだ瓦礫が音を立てて降り注いでおり、無防備に倒れていたらその下敷きになりかねないのだ。
だというのに、彼女は足を踏み出すことさえ出来ない。
魔力も気力も使い果たしてしまったのだ。
「ぁ……?」
しかし襤褸切れのようなアリスの身体は唐突に抱きとめられた。
前に傾いだ身体の前に左手が添えられ、残る右手には身長ほどもある豪奢な魔杖が握られている。
「どうやら勝ったようだな」
仏頂面で見下ろしているのはレアルスだった。
その端正な顔や手足にはいくつもの傷が刻まれており、彼は彼で死闘を繰り広げていたことがありありと伝わってきた。
「一応、ね……」
そんなレアルスはアリスの身体を左手で支え続けながら、右手の魔杖を天へと掲げる。
そして二人を覆う半球形の鏡氷の結界を展開し、降り注ぐ瓦礫をすべて弾いていった。
彼は片手で受け止めていたアリスの身体を地面に横たえ、肩から腰にかけて刻まれた傷に治癒魔法を施し始めた。
それにより傷口からの出血が止まり、アリスの顔色が少しずつ良くなっていった。
「ありがと、レアルス……」
「まだじっとしていろ。身体の傷はともかく、魔力が枯渇寸前だろう」
「ダメよ、まだ終わってない……。いかなきゃ……!」
仰向けの状態から起き上がったアリスの両肩をレアルスはそっと押さえ込む。
しかし彼女はその手に触れながら、じっとレアルスの双眸を見つめ返した。
「……どこへだ?」
「そんなの、決まってるでしょ……?」
アリスは整った顔に玉の汗を浮かべながら、遠方を見据えて言い切った。
◆ ◆ ◆
希望の光が差し始めた【惨禍の渓谷】。
そこでは黄金の鎧騎士を次々と打ち倒しながら、それを操っている術者の元へと駆ける二つの影があった。
黒メッシュの前髪で右眼を隠し、薄灰色の髪をなびかせる青年は光速の槍術で次々と鎧騎士を穿つ。
そして白メッシュの前髪で左眼を隠し、濃灰色の髪を揺らす少女は大ぶりの戦斧で鎧騎士を纏めて屠っていた。
「病み上がりなんだから後ろで待ってて良いんだよ?」
「うっさい……。自分が治って泣いてたシスコンお兄ちゃんの方が休んでなよ……?」
「な、泣いてないわっ!」
ヴァルレアとシャルリア。ルディス兄妹は軽口を叩き合いながら黄金の鎧騎士を打ち倒し、その術者であるウィラーニャ・オルフィーリスの元へとたどり着いた。
「わ、わ……! ここまで来ちゃったんだね……」
猫背の姿勢で傍らの特別な鎧騎士に寄り添っているウィラーニャは、自分の元へとたどり着いた双子を認めると、目を見開いて驚いていた。
それもそのはず。
黄金の鎧騎士の軍勢は惨禍の渓谷を埋め尽くし、そう簡単にここまでたどり着けるはずも無かったのだ。
「それにあなたの呪いが解けたってことは、シエルちゃんが……」
そして驚愕の表情から一転、心配を滲ませるウィラーニャはふと二人の背後上空を見上げた。
それにつられてヴァルとシャルもそちらに振り返ると、戦場の上空に二つの人影が出現していた。
彼女たちは何らかの魔法で空中に足場を作り、そこに立っているようであった。
「あれって……」
「あぁ、帰ってきたみたいだ……!」
惨禍の渓谷上空。
アリスとレアルスは鏡氷の足場に立って戦場を見下ろしていた。
二人は【蒼海の妖精】との領域境付近から、転移魔法が込められた貴重な魔力結晶を使用して一気にこの場所まで転移してきたのだ。
「ふぅ…………」
アリスはレアルスの手を取り、倦怠感に包まれた身体で辛うじて足場の上に立っていた。
そこで深々とため息をつき、自身の口元に小さな魔方陣を展開した。
『みんな、聞いて!!』
拡声魔法を通して拡散されたアリスの声は渓谷全域に響き渡った。
それを耳にした者たちは種族問わず上空に目を遣った。
『私は【灰燼の妖精】の戦士。【燼魔精隊】の隊長アリス・フォティア!』
アリスの名乗りが響き渡ると、捕縛されている金エルフたちの表情が嫌悪の色に染まる。
『【皇金の妖精】のリーダー、シエル・アルムレクスは私が倒したわ! だからもう戦争は終わりよ!』
その主張により彼らの怒りが爆発し、天に轟く怒声があちこちから上がった。
「嘘を吐くな!!」
「そうやって油断させて、俺たちの領域を侵略するつもりだ!」
「灰エルフごときが、金エルフの王族様に勝てるわけねぇだろ!!」
罵声に次ぐ罵声。
ウィラーニャの鎧騎士以外は中立地帯のならず者を中心に構成された軍勢であるため、とにかく気性が荒いのだ。
「まぁ、それはそうよね……」
眼下の光景にアリスは小さくため息をつき、魔方陣から顔を背けて小さく呟いた。
「ごめん、レアルス。ちょっと力を貸してね」
「あぁ、構わない」
そして手を握って支えてくれているレアルスに微笑み、再び前方に向き直った。
そしてゆっくりと瞼を閉じ、自身の左眼に手をかざした。
『だったら今から証拠を見せるわ』
かざした手を下ろし、瞼を持ち上げたアリスの左眼は灰色から眩い黄金へと変化していた。
そして彼女の右手に握られている折れた細剣に黄金の雷が迸る。
その先端を前方に突き出し、唱えるように名を呼んだ。
『力を貸して——【正義の大天使】!!』
瞬間、凄まじいほどの黄金の雷が天空を塗り潰し、眼下の者たちを等しく驚嘆させた。
「……ミカエル、様?」
光が収まると捕縛されている金エルフたちが呆然としながら上空を見上げ、口々にそう呟いていた。
アリスは背の左に一枚だけ顕現させた黄雷の翼を大きく広げ、折れた細剣を突き出している様は、まるで守護天使を彷彿とさせる神々しい姿だった。
「ど、どうせ見かけだけだろ!」
「お前ら灰エルフは他種族の魔法を使えるんだろ!?」
「そうだそうだ、その見てくれだけで騙そうとしてるんだ!!」
『じゃあ、これで納得してくれるかしら……?』
なおもアリスの言葉を信じない金エルフたちに、彼女は温度の低い声音で呟いた。
そして折れた細剣を引き絞り、戦場すべてを照らすような雷光を纏った。
その切っ先が向けられているのは灰エルフの首都アマルガムがある方向、誰もいない渓谷の切れ目あたりだった。
アリスは色の異なる双眸を見開きながら雷光の刺突を撃ち放った。
刹那、彼女の手元から強烈な閃光が迸り、遙か遠方の崖が数キルエトル範囲で雷撃によって抉り取られ、塵と化して消失した。
その光景を目の当たりにした者たちは言葉を失って呆然としていた。
『シエル・アルムレクスはこの力を取り返すため、【灼燼の灰域】で私と戦った。そのために中立地帯の貴方たちを扇動して、自分の目的を達成するための囮にしたのよ』
アリスが語る真実に金エルフたちは瞳を震わせ、彼女の姿を見上げることしか出来なかった。
もう罵声を上げる者はいない。
『貴方たちは利用されただけなの。だから私たちが殺し合う必要なんてもうないわ……!』
それがとどめとなった。
金エルフたちは、自分たちがシエルの私欲のための戦いに巻き込まれたことを悟り、抵抗をやめてその場に膝を屈した。
『ありがとう……』
アリスは眼下の光景を見て微笑んだ直後、ぐらりと身体を大きく揺らがせた。
それによって拡声魔法の魔方陣が砕け、背に広がっていた黄雷の翼も雷として拡散した。
「レアルスも……って貴方、すごい汗よ!」
灰色に戻った双眸を眇めながら、倒れかけたアリスの身体を支えてくれたレアルスの方に眼を向けた彼女は驚愕する。
「当然、だろう……。魔力結晶の代わりのような役割をしたんだぞ……」
アリスを支えるレアルスの額には玉の汗が浮かび上がり、時折それが頬を伝うほどだったのだ。
争いを止めるためにもう一度【半天護者】の覚醒状態になる必要があるかもしれないとアリスから言われた。
そのためアリスと比較すれば残存魔力が多かったレアルスが彼女に魔力を分け与えることで先ほどの一撃を実現させたのだ。
しかし天護者が行使する魔法に必要な魔力量は凄まじいもので、たった一回でレアルスの魔力は枯渇寸前にまで削られてしまっていた。
「ご、ごめんなさい……、早くサナリィおばさまのところへ行きましょう!」
「あぁ、そうしてくれると、助か、る……」
アリスの提案に言葉を返したレアルスだったが、魔力の枯渇によって頭が朦朧とし、鏡氷の足場の上で体勢を崩してしまった。
「あっ……、ちょっと、下降りるまで待っ——」
逆にレアルスの身体を支え返したアリスだったが、彼の集中力が切れたのか鏡氷の足場が砕け散り、二人は上空から落下し始めてしまった。
「わぁぁぁぁぁ!!!」
レアルスは意識が朦朧としていて再度魔法を使うことは出来そうにない。
アリスの方も意識ははっきりしているものの、咄嗟に魔法を行使できるほど体調が戻っているわけではないため二人揃って為す術がなかった。
そんな二人の落下点に蒼の斜線を描く魔力の矢が飛来し、凄まじい勢いで水を噴き上げた。
「わぷっ……!?」
それはまるで間欠泉のように吹き上がり続け、落下してきたアリスたちをしっかりと受け止めた。
「だ、大丈夫ですか、お二人とも……!?」
「あ、ありがとセレネ! 助かったわ!」
蒼の矢を放った張本人、セレネが吹き上がる水の発生源の手前でアリスたちを見上げていた。
この戦いの中で外したのか、セレネの目元を覆っていた漆黒の紗が失われている。
近寄ってきたセレネにアリスがお礼を返すと、吹き上がる水が徐々に収まり、二人がゆっくりと地面に降ろされた。
「お二人ともここにおられるということは、勝ったのですね……!」
「えぇ、こんな感じだけど……」
アリスは自身の身なりを指し示して苦笑いを浮かべた。
レアルスの治癒魔法によって深い傷は治っているものの、満身創痍であることには変わりない。
「ちっ、血が……!!」
それにシエルに斬り裂かれた傷口は先ほどまで出血していたこともあり、身体の前面が真っ赤に染まっているのだ。
それを見たセレネは顔面を蒼白にしながら駆け寄ってきた。
「あっ、傷はもう塞がってるから大丈夫よ!」
アリスは治癒魔法を施してくれたレアルスに眼を向けてからセレネに笑いかけた。
意識がはっきりとしてきたのか、彼は自身の額を押さえながらゆっくりと立ち上がり始めていた。
「ア~リちゃん、お疲れ」
「ヴァル! それに……!」
声がした方に振り返るとそこにはヴァルともう一人が、アリスたちの方に向かって歩いてきていた。
彼女の顔を見るや、アリスは身体をふらつかせながらもそちらの方向へと駆け出した。
「シャルっっ!!」
「わっ……! どうしたの、アリスさん……?」
ヴァルの一歩後ろを歩いていたシャルは、突然アリスに飛びつかれて驚いた様子だった。
「もう起きて大丈夫なの? 傷は痛まない? っていうかどうしてここにいるの!?」
質問の答えが返ってくる前に質問を重ねるアリスに、苦笑いを浮かべるシャル。
「アリスさんが勝てば呪法は解けるから、無理言って戦場に連れてきてもらってたんだよ。おかげで呪法が解けてすぐ、サナリィ様に治癒魔法をかけてもらったんだ」
「シャルさんが加勢してくれなければ、鎧騎士に押し込まれていたかも知れません……」
「そうなのね……」
こちらの戦いも激しいものだったと知り、アリスは【燼魔精隊】の面々が全員無事なことに安堵した。
「そういえばヴァルくん、シャルさん。ウィラーニャさんはどうなったのですか……?」
「あ~……、アリちゃんたちの方に気を取られてて、振り返ったらもういなかったんだよね……」
「たぶん魔力結晶で転移したんだと思う……」
セレネの問いにヴァルは後頭部を掻きながら答え、忽然と姿を消したことからシャルがそう推測する。
そんな三人にアリスが笑いかけ——
「勝ったんだからもう良いじゃない! みんな、無事で良かったわ……!」
こうして【灰燼の妖精】と【皇金の妖精】の第七王女シエル・アルムレクス率いる急造の軍勢の抗争は灰燼の妖精の勝利で幕を閉じた。
首魁であるシエル・アルムレクスの安否は今のところ不明だが、レアルス曰くローグ・ファティネルが自身との戦闘を放棄して助けに行ったため存命だろうと推測していた。
だがたとえ生きていようとも、今回の独断専行は中立地帯の金エルフたちから本領域に伝わり、シエルには重い罰を与えられることとなるだろう。
そのため再度の襲撃がすぐさま来ることはないと判断したうえで、悪魔の力を行使する彼女に唯一対抗できるアリスの力の修練が種族全体としての課題となった。
そのためこの戦い以降、彼女は厳しい修行の毎日を送ることとなった。




