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第20話「フィルシア・グリーヴァ」

「フィルシア母さま……」


 母さまといったものの、フィルシアはアリスの実母ではない。


 アリスは彼女によって【灼燼しゃくじん灰域はいいき】から拾われた捨て子なのだ。


 姓はグリーヴァ。フィルシア・グリーヴァ。


 レアルスの母で、灰燼の妖精(コクマー)天護者ファヴロスだった女性だ。


 彼女は誰よりも優しく、そして強い女性で、女王として長きに渡って灰エルフを率いていた。


 すべての種族が手を取り合える世界を作るというアリスの目標も、フィルシアの思想の影響を色濃く受けているのだ。


 彼女は実子のレアルスと同等に捨て子であるアリスにも無償の愛を注いでくれた。


 もしかするとアリスはレアルス以上に彼女に懐いていたかもしれない。


 しかしフィルシアはある出来事をきっかけに倒れ、それ以来長い長い眠りについている。


 レアルスに天護者ファヴロスの兆候が出現してしまっている以上、彼女が目覚めることはもうないのではと噂されている。


 しかし一方では完全に継承が済んでいないため、明確に死亡したわけではないだろうとの意見もある。


「すまない、話が逸れたな。記憶の封印を施したのは情報の漏洩を防ぐため。そしてアリス、お前の精神の安定のためだ」

「私の、ため……?」


「お前は大抗争の時に受けた心の傷で、灰色のものを見ると錯乱状態に陥る。

 あの頃はその症状があまりにも重く、錯乱したお前は自傷を繰り返すほどに病んでしまっていたんだ……」

「確かにあの時のアリスちゃんはヤバかったもんね……。何回自殺まがいの暴走を止めたことか~、あはは!」

「あの頃のフィオはお姉ちゃんしてたよね、今はアリスちゃんの方がしっかりしてるけど」

「なんだとー!」


 空気が重くなり過ぎないよう、わざと冗談めかして笑う副団長二人にアリスは柔らかな笑みをたたえ、声に出さずに感謝した。


「だからそんな状態のお前に、守護天使の力が宿っていることを知らせるわけにはいかなかった。

 その力の矛先を自身に向けるようなことがあれば、最悪の事態を招いたかもしれんからな……」


 その説明で当時、レガウィアたちが自分のことを深く想って行動してくれていたことをアリスは理解した。


 そしえ自身の胸中に広がった暖かな感情によって口元で笑みの形を作る。


「さて、隠し事もなくなったみたいだし、シエルって子をどうするかに戻ろうか」


 柏手を打って話を強引に切り替えたフィオディス。

 そして彼女は円卓に頬杖をつきながら視線をアリスに向けた。


「アリスちゃん。単刀直入に聞くけど記憶が戻ったからって守護天使の力、使える感じするの?」


 問いかけよって表情を曇らせたアリスは、自身の胸に手を当てながら弱々しく答えた。


「……分かりません。頭の中に微かな声が聴こえて、自分の中に膨大な力が存在していることは分かるんですが……」

「それってヤバくない? 悪魔の力に対抗するには守護天使の力が必須。でもアリちゃんはそれを使えるかまだわかんない」


 アリスの返答に真っ先に反応したのはヴァルだった。彼はさらに言葉を続ける。


「そのうえ灰エルフの守護天使はずっと継承されてなくて、戦力として数えることは出来ないんだし」

「ヴァル、貴方……!」


 デリカシーの無い彼の発言に、アリスは柳眉を逆立てながら立ち上がった。


 彼の発言はレアルスが守護天使の力を継承できていないことを責めているように聞こえたのだ。


「ごめん、言葉は悪かったかもだけど、今は事実を並べてるだけだから。他意はないよ」

「構わない。俺に守護天使の継承が為されていないのは紛れもない事実だ。だから今はアリスの中に眠る守護天使をどうにかするのが先決だ」


 アリスの反応にヴァルは謝意を示し、発言の意図を説明する。

 その横からレアルスが平坦な声を向けてきた。


 当事者であるレアルスの落ち着き払った様子に頭が冷えたのか、アリスはそっと椅子に座り直した。


 現状をしっかりと把握したリアリストな彼の発言に、この場の誰もが口を噤んでしまう。


 アリス本人が扱いかねている力を、他者がどうこうできるものではないと理解しているのだろう。


「…………方法はある」


 静寂を破ったのは最高司祭であるレガウィアの重々しい声だった。


「七五年前、記憶の封印を施したフィルシアが、こうなることを見越して守護天使の扱いについての記録を残していた」


 瞑目しながら説明したレガウィアは、おもむろに懐から何かを取り出し円卓の上にことりと置いた。


 アリスは円卓に少しだけ身を乗り出しながら、彼が取り出したものを注視した。


 それは手のひら大の透き通った灰色の水晶。その内部には手折られた濃灰色の枝が封じ込められているようだった。


「彼女の元でお前たちがそれに魔力を通せば、残された記録を見ることが出来るはずだ」

「これは、【魔力結晶】……?」


 魔力結晶。

 

 それはエルフが魔法を込めて携帯を可能にする外付けの魔力器官のようなものだ。


 内部にあるのは聖大樹の枝であり、それに魔法を刻み込んだものを魔力で結晶化させるという方法で精製される。


 この結晶にはどのような魔法でも込めることが出来るのだ。

 それに加え——


「フィルシアの魔力で作られたものだ。お前とレアルスにだけに残したメッセージと言っていたな」


 記録媒体として音声や映像、文章なども記録できる。


「……! レアルス、すぐ行くわよ!」


 レガウィアの言葉に驚愕したアリスは、すぐさまレアルスと共にフィルシアが眠る場所へ向かおうとする。

 しかしそれを少年の声が呼び止めた。


「ちょっと待って、アリちゃん」

「な、なによヴァル……」

「一応聞いておきたいんだけどさ、守護天使の力を扱えるようになったらアリちゃんは今まで以上に強くなるでしょ?」


 唐突な問いかけを放ってきたヴァルに、アリスは怪訝そうな表情を返す。


「この力を引き出せたら、多分そうなると思うわ……」


 自身の中に眠っている大天使の力の片鱗を感じ取りながら、アリスは僅かに頷いた。


「そんな力、手に入れてすぐ使いこなせるなんてことはないと思うんだよね。だから今までみたいに手加減して戦うみたいなことは出来ないんじゃない?」


 ヴァルの言わんとすることに、成り行きを見守る全員が思い至った。


 言葉を向けられたアリスは口を噤んで視線を落としている。


「もう分かってるんでしょ? シエル・アルムレクス相手に手を抜く余裕なんてない。

 つまり殺すつもりで挑まないとアリちゃんが死ぬよ……?」

「そっ、それは……」


 常とは異なる鋭い視線と声を向けられたアリスは、言葉を詰まらせながら視線を彷徨わせる。


 そんな彼女に追い打ちをかけるよう、ヴァルはなおも言葉を続ける。


「アリちゃんが負けるってことはシャルの傷を治す方法がなくなるし、灰エルフの仲間の犠牲も増える。

 もしかしたら壊滅するかもしれない。それでも敵を殺したくないなんて言うの?」

「ヴ、ヴァルくん、それ以上は──」

「口出ししないの、セレネちゃん。正しいのはヴァルくんだよ」


 困惑の表情とともに、冷や汗を浮かべながらヴァルを止めようとするセレネ。

 そんな彼女にフィオディスが厳しい言葉を向ける。


 そしてしばしの沈黙が円卓広間を満たす。


 ようやく反応を示したアリスは、拳を強く握り締めながら口を開いた。


「そ、それでも私は——」

「ふざけんな!! 甘えるのも大概にしろよ、アリス・フォティア……!」


 アリスの言葉を切り、円卓を叩きながら立ち上がったヴァルの瞳には、誰が見ても怒気と分かる焔が灯っていた。


「あんたは仲間の命が失われることより、自分の手が汚れることを恐れてる。

 理想を追い求めるのは勝手だけど、それに巻き込まれる方の気持ちも考えたら?」

「待っ……!」


 吐き捨てるように言い残したヴァルは、アリスたちに背を向け円卓広間から出て行ってしまった。


「ヴァルくん……。みなさん、失礼いたします……!」


 見かねたセレネは開け放たれた扉とアリスとの間で視線を往復させ、全員に頭を下げてヴァルの後を追っていった。


「っ…………」

 アリスが歯噛みしながら立ち尽くす円卓広間は、もう何度目とも知れぬ沈黙で満たされる。


 それをまたレガウィアのため息が破り、彼は重々しく口を開いた。


「大方の方針は決まった。一旦解散としよう」

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