第4話 ネリファルース・ツワッド
4.ネリファルース・ツワッド
美しい女性、いや、ネリファルース・ツワッド、かつて『ネル』と呼んでいた女性が口を開く。
「ノアーナ・イル・グランギアドール様。いえ極帝の魔王ノアーナ様」
「……ネル?なにがあった?俺、いや俺は…?いやこれはどういう状態だ?」
彼女のことは認識できた。
自分のことも何となくだが分かる。
だがまるで覚めた瞬間に消えてしまった夢のように、数瞬前の記憶があやふやになっていく。
非常に似合っている黒を基調とした蠱惑的なメイド服を身に纏っている、ネリファルース・ツワッド『ネル』は見惚れるほど美しい所作でカーテシーをし、すっと背筋を伸ばし、先ほどの恐ろしい雰囲気が嘘だったかのような、蕩けるような柔らかな表情で微笑かけてきた。
「ノアーナ様とお呼びしても?」
「ああ、うん。かまわない…なにか違和感がある、けど……」
「おそらく1割かと…」
「1割?……なんだそれは?」
「ノアーナ様の現在の『存在』が。でございます。おそらく散り散りにされた貴方さまの『存在』の1割程度しか、今ここにはないのでは、と」
美しい所作で紅茶のお代わりを注いでくれる。
芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
「ただ『本体』であるあなた様の心の真核『佐山光喜様』がこちらへの強制送還の秘術により復帰されたため、一応の整合性が保たれノアーナ様としての自我がごく一部ではありますが、奇跡的に安定されたのではないか、と愚考するところでございます」
存在が散り散り?…真核?…強制送還の秘術?
…情報が多すぎて理解ができない。
確かに対面している今も、何かとても古い記憶が刺激されているような気はする、が。
覚めてしまった夢のように認識できなくなってしまっていた。
どうやら俺はとてつもない存在で、何かに滅ぼされ、ご丁寧に魂と呼ばれるものまでもバラバラにされ、時間・次元・概念の異なる場所へと飛ばされたらしい。
ネル、彼女はどうやら俺の部下だったらしいが、ノイズが走り詳しくは思い出せない。
見た瞬間、というか触れられて記憶が刻まれたときに認識できたが、今は……
自分も確かにすごくエラそうな存在だったような気が…する…!?
???あれっ?なんか冷静になってきたら…えっ?
えっ、なんで俺こんなに奇麗で可愛い子とお茶しながら話してるの???
ていうか、何だこれ?!
異世界転生?!
まじか?
なんのラノベだこれ?!
ちょっと落ち着こうか。
まずは現状の確認からだな。
うん。
えーっと…………
俺は佐山光喜37歳。
よしっ、大丈夫。
自分の名前は分かっている。
陰キャで童貞、社畜でブラック企業にいいように扱われ、死ぬほどの残業を繰り返し、今日は取引先のコンペで佐々木部長と……って!?
思わずテーブルに手をつき立ち上がってしまった。
「あのっ、ネル…さん?すみません。俺は死んだのですかね?ここは東京ではないですよね?えっと、さっきは混乱していて……なんか偉そうに話していましたけど…ははは……あのお?」
俺が俺が話し始めると、ネルさんの表情がみるみる曇っていく。
心なしか小刻みに震えているようにも見える。
さっきまでの非現実的な存在は、少しばかり身近に感じた。
認識したからかな?
「あのおー、えっと……」
「あっ、ああああ!……何てこと?!ノアーナ様の存在が…小さく?!…あああ、どうすれば??…ノアーナ様っ!…あああ…ううう……ヒック…グスッ……」
突然泣き出すネルさんに、俺はどうしていいかわからずに茫然となってしまった。
もちろん抱きしめてあげたり「大丈夫だよ。俺に任せろ!」なんて気の利いた行動も、セリフも吐けるはずもなく、一緒に立ち尽くすだけであったのは言うまでもない。