2学期になりみんな成長し、真理にもライバル心が芽生える。劇では最後の一葉の数を演じ、夜も勉強して遂に男子を追い抜くことが出来た
夏休みが終わって2学期が始まる。当たり前の話だけど、でも少し違う、何か違う。何だろう?1年の時や小学校の時の2学期の始まりとはなんか違うのだ。大人になった?みんなも私も背も伸びたし(残念ながら私の背はほんの1センチ足らずしか伸びなかったけどね、あっちゃん何か10センチ以上伸びていて吃驚したなんてもんじゃない。これからはあっちゃんなんて気楽に呼べないなあなんて考えてしまう)、顔だちも少々大人びて来たような‥・でもそうじゃない外側が変わったことでこんなに気持ちにサザナミが立つわけがない。
このわたしに、未だかって殆ど競争心を持ったことのないわたしの中にふつふつと煮えたぎる負けたくないという熱いものがあったなんて、気が付かなかった。
夏休みの自由研究の事だ。私は真黒くなるのも構わず(実際は母の日焼け止めを顔は勿論の事、手、腕、首、ついでに足まで塗りたくったけどさ)春山公園に出かけては、植物採集に明け暮れ、その中から薬草になるものを選び、成分や効用を調べ、未だ発見されてはいないけど今後期待されたり、活用されるであろう植物をピックアップして出来上がった我が夏休みの集大成である「春山薬草最終図鑑」自分で言うのもおこがましいがそりゃあ絵も良くかけてるし、内容も深く掘り下げてる(掘り下げすぎて少し妄想的になってるきらいがあるが、それはばっちゃんの孫だから仕方がない)うん、これに勝つものはないだろうとタカを括っていた。
ところがだ、上には上がいるもので、それを成し遂げたのは誰あろう、例の塾での友であり、わたしの代わりとして理科クラブに押し込んだ村橋さんだ。夏休み中、一日も欠かさずラヂオの4時から20分間の放送がある気象情報なるものを事細かに天気図に写し取り、それに関する自分なりの翌日や今後の天気について考えを述べている物だった。
うーん、1日も休まずにねえ。彼女、几帳面だから、こんな退屈そうな事が出来たんだろうな、私にはこれは出来ない、その日の天気だってロクに確かめもしないで出かけて、雨に会って「あー、母さんの言った通りに傘、持ってくりゃ良かった」なんて云う事良くあるもんな。
後に村橋さんが語った所によると「大抵の日はあまり変化が無くて退屈だけど、ほらここからここまでは台風が生まれて段々発達して、立派な台風になり、それがどこを移動して行くかとか、、熱帯低気圧になってどんな風に北の方へ消えて行くのを追いかけて行くのはとても面白いと言っては何だけど、ドキドキしどうしだったわ。この頃の台風は大型で昔の台風とは比較できないような強い風が吹くからとても心配だもの」と云う事だったらしい。
もう一つ、気になるものもがある。唾液の年齢、身長、体重、男女の違いによる消化の研究だ。あのヨウドが澱粉に反応して紫色になったものが、消化されて行くに従って段々色が薄くなり、最後は無色になるその時間を調べたものだが、年齢もだがその太り具合によっても随分差があると言う事が一目で理解出来てとても面白く、又理解出来るものだ。こりゃあ、私的には推しに近いものだ。
勿論みんな力作で汗と努力の塊だもの、わたしが審査員なら全部に金、銀、努力賞を上げたいと思う、本当に本当にだよ。でもそうはならないのが世の習い、選んで決めるのが審査員なのだ。
何と村橋さんの「夏休みの毎日天気図とその予後の私的意見」が栄えあるまがたま市中学生自由研究金賞を勝ち取ったのだ。わたしが日焼けを物ともせず、虫刺されも厭わず、春山公園での珠玉の「薬草植物図鑑」は銀賞に終わった。それからわたしが推していた「唾液の消化効力その個体差について」はその他の努力賞になり、それはないぜと心の内で叫んだ。
理科の益川先生は村橋さんが金賞を取ったので、鼻高々で大喜びと云うのが傍目にも直ぐ解った。一方わたしの方は美術の先生に「島田さん、植物図鑑の絵、凄く良く画けてるよ。絵だけをテーマにして描き、美術の方に提出したら、金賞取れたのに。君が演劇部で残念だよ、全く」と言われた。
確か去年の夏休みに名栗川の絵を提出し、この時も銀賞だった。「わたし金賞に縁遠くて、ハハハ」と笑って済まし「この次も劇の舞台や小物の美術の方、どうぞ宜しくお願いいたします」と付け足した。
でも、金賞を取り損ねたのは、人は全く気にも止めてはいないだろうが、わたし的には少々ショックだった。村橋さんに負けたことも、いやその方がずっとずっとショックだった。私の内にライバル心の炎がともった。初めて誰にも負けたくないと云う熱いものが生まれたのだ。
これからは詩とか和歌なんかに長時間かけるのは控えて、も少し所謂人の言う勉強に精出してみようと固く誓った。その誓った先からお声がかかる。お声の主は誰あろう山岡女史だ。
うぬぬぬ、そうわたしは山岡女史の囚われ人だった。
「自由研究、銀賞おめでとう。ま、金賞取り損ねて残念でもあるわね。個人的には先生はあなたの方がずっと好きよ。でも私は教育委員でも何でもないから幾ら好きでも口出しする権利はこれぽっちもないけど」珍しく女史がわたしの提出物を褒めてるというか、好きだと言った。
「ありがとうございます。私、これからは村橋さんに負けないように努力したいと思います、と今心に誓った所です」
山岡女史の顔が少し曇る。「で、では、止めちゃうの、演劇部?」
「いえ、辞めません。初志貫徹、これがわたしのモットーです。うん?初めはそうだったんだっけ・・初めは、そうだ、ここのクラブから抜け出たかったんだった」
「でも未だ入る前だったんじゃない、それ」
「そう、それを無理やり入部させたんだ、先生が」
「で、でも、あなたは今ここの大黒柱よ。あなたが居なくてはこのクラブは成り立たないわ」
「それはないと思います。私が居なくてもみんな立派にクラブを支えてやって行きます」
「じゃあ、やっぱり辞めるの、ここを?本当に」
「いえ、辞めません。ここに居ても勉強は出来ます。ここに居ても村橋さんには決して負けません。いえ他の人達にも。うーん、でも体操は負け負けだとは思います、実技が・・へへへ」
安堵の色が女史の顔に戻る。
「そう、そうよ、あなたなら体操は駄目かも知れないけど、それに字が汚いのを除けば他のものなら誰にも負けないわ、もう少しの努力があれば。で、さっそくなんだけど今度の劇、何にしようかなと思って」
「はー、それは先生の役割です。まさか、去年シンデレラをやったから今度は白雪姫を何てんじゃないですよねえ。1学期はピノキオと桃太郎でしたし、今回はも少し大人っぽいものにしませんか?」
「ハムレットとか忠臣蔵とか?」
「えー、なんでそんなものに飛ぶんですか、ま一口で言えば、両方とも敵討ち物でハムちゃんは敵討ちの虚しさを描き、忠臣物は敵討ちを美化したものですが、これはどちらかと云うと文化の違い、から来てるのかと」「
「分かった、分かった。あなたの敵討ちの講義はそれまで。ここにオーヘンリーの短編集、彼は短編物しか書かなかったからねえ、その本があるけど、知ってる、最後の一葉?」
「はー、勿論有名な作品ですから」
「どう、それなら子供っぽくないでしょう。この本相当古いから、今は全然使わないような字や言葉が出てきて読みづらいかも知れないけど、宮沢賢治の時みたいにあれこれ読んで、取り混ぜて劇に出来ないかしら?」
「最後の一葉だけではいけないのでしょうか?」
「うーん、まああなたが読んでその方が良かったらそうして頂戴。でも多分あなたの事だから、きっと物足りなく思うとわたしは考えるわ。だからその時はこの数々の短編から拾い上げて劇の中に取り入れて欲しいのよ」
「はい分かりました、やってみます。どうせ先生はわたしの事だから自分の解釈通りに脚色するだろうと思っていらしゃるんだと思います。それならいっそのこと、オーヘンリーさんの短編を織り交ぜて作ってもらった方が面白いものが出来るんじゃないかとお考えなんですね。うーん、やれるかどうかは不明ですが、わたしなりに頑張ってみます」
女史の手から私の手に渡されたその本は、薄い文庫本で回りが茶色に変色していた。パラパラめくると、いかにも古めかしい漢字やひらがな使いのオンパレードだった。読めるかな?と少々不安になるが、元々の楽観主義の体質が顔を出し、何とかなるさとその古臭い本を自分のバックにしまい込んだ。
隙間時間にその古ぼけた本を読む。鼻っから読めない字が出てくる。うーん、これ何て読むんだろう。あれこれ言葉を入れてみる。どれもぴったり来ない。次に「何、何読んでるの?随分古そうな本」と言って覗き込む学友に聞いてみる「あなた、この漢字、何て読むか知ってる?」「どれどれ」と一応友は皆本を覗き込む。帰って来る返事は一つ。「何これ、全然解んない」
母に聞いても解らないのでイザナギのばっちゃんに電話してみた。
「私にも解らないわ。でも丁度息子が居るから聞いてみるわ」
ばっちゃんの息子、つまり私の母の弟、わたしの叔父さんだ。電話嫌いで(スマホは大好きだが)めったに電話に出ないから、あまり話をした事がない。
「初めは大して重要な言葉だと思わないで読んでいったんだけど、次の話しにもその次も、ずっとその言葉が出てくるのよねえ。だからこれは作者の強い思いがあって、詰まり彼のバックボーンのような言葉だと思うの。父に聞けば良いんだけれど、今日父は教授と重要な話があるとかで夜遅くしか帰って来ないの。この言葉の意味が解らなくては先に進めない、一秒でも早く知りたくて電話したの、おじちゃん解る?」
叔父さん少し笑う。
「どう云った漢字?」
「ええッと、上の字はヒモ,あの長い紐と云う字で下の字はわたしの嫌いな体育の育の字よ」
「「ハハハ、叔父さんも体育は苦手だけれどさ、それはニューヨークって読むんだよ。でも日本語って難しいよね。オーヘンリーでも読んでるのかな?」
「どうして分かるの?ニューヨークって言葉だけで」
「中学生ぐらいが読んでいてニューヨークが作家のバックボーンと云えば、まあ直ぐに思い浮かぶのは彼の名前だろうな」
「で、でも、この本読めないような字が一杯よ、とても中学生が気安く読めるものではないわ」
「それは本が印刷されたのが、ずーと前のものだからさ。この頃出版されたものだったら、多分ニューヨークはちゃんとカタカナになってると思うよ。その本君のお父さんの物なの?」
「ううん、わたしの国語の、あ、演劇部の顧問の先生から借りた物なの」
「ふーん、ずいぶん古い本を貸したもんだなあ」
電話のやり取りはこんなものだった。そうか、山岡女史はこの古い本を渡すことで、わたしを悩まし苦しめてきっと陰で笑っているだろうな。でも、真理ちゃんはこんなことでは全然負けないものね、へっちゃらへっちゃら、わたしは楽観主義者だもん。でもさあ、最後の一葉は感動的だけど、楽観主義者の真理様には「お巡りと讃美歌」と云うのがぴったりだ。世の中なんとかなるとだろう、でも中々ならない、怠け者だが大悪事的な事は出来ない、そんな小心者の目指す、吃驚仰天のささやかな天国は転がり込みそうで転がって来ないおかしさがきっと観客の心を掴むに違いない。
所で隣の武志君はどうした。あのバスケット、いや、テニスの試合の応援以来殆どあっていないし、話もしてないのだ。彼は受験勉強の猛勉強(?)中だし、わたしは植物図鑑を仕上げるのに忙しかったから,殆ど思い出すこともなく夏休みを過ごしていた。塾?それも休みの間は日中に行われるから、はっきり言って、彼のボデイガードは必要なかったし、行く時間もバラバラだった。
だが今日は夏休みが終わって久々の夜の塾が始まる日、私は武志君を待つ。呼び鈴を押す。少し声が変わってしまったけど調子は昔の儘の武志君が現れた。
「よっ久しぶり。全然お呼びでなかったから、お前、春山公園でくたばってるんじゃないかと沢口と噂してたんだぜ」
「た、武志君、あなた、す、少し背が、背が伸びたんじゃないの」
「まあな。6,7センチくらいかな」
「そう、あっちゃんも10センチ以上伸びたって」
「敦が?そうか、随分伸びたな、あいつ。もっともっと伸びるだろうな、未だ中2だもん」
「男の子は中学生の時、背が伸びるのね。羨ましいなあ、私なんか1センチも伸びてないよ、父はあんなに背が高いのに」
「背が高ければ良いとは限らないってお前言ってたんじゃないか?それに今のお前には背が高くなる必要は全くない、そうじゃないか」
「で、でも、見下される感じは余り良い気分のものではないんだなあ」
「それはそうだろうけど、お前を誰も見下したりなんかしないよ。お前は何時も堂々としてるし、中身もそれに伴ってるし、俺がお前だったら、それだけで十分だと思うよ」
「あ、ありがとうと一応お礼を述べるべきなんだろうね。あ、それから見た目もなんか少し大人びて来ているよ、武志君。もう武志君なんて気安く声かけられない気分だな」
「ハハハ、だったらどう呼ぶんだよ、まさか誰かみたいに武志様何て言うんじゃないだろう?」
「それは可笑しいよ、藤井君と言うべきなんだろうけど、お隣でそう言って呼び出すのって変だわよね、うん、仕方がない今まで通りに武志君で好いや」
武志君に抱いた今までに感じたことのない違和感はそれで解消した訳ではないが、その日の出会いのギクシャクはそれで一応片付いたと、私は思った。
ここにもう一人片付かない人物がいる。そう、さっき話題に上ったあっちゃんだ。彼はもうあっちゃんから卒業だ。卒業して敦君と呼ぶべきか、谷口君と呼ぶべきかだ。悩むよりも本人に先ずは聞いてみよう。
部室で彼を捕まえる。
「ねえ、あっちゃん、わたし、もうあなたをあっちゃんなんて呼ばないことにしたの」
彼は驚いて目をしばたいた。
「どうして、僕、何か悪いことした?」
「ううん別に。そうじゃなくて、あなたも背が伸びてもう立派な中学生なんだから、あっちゃんなんて呼ばれて嫌だろうと思ったの。今まであっちゃんなんて呼んでて御免なさい」
彼が私の目をじっと見ている。
「全然厭じゃないよ、もう他の誰からもそう呼ばれていないし、真理ちゃんだけが昔と変わらずそう呼んでくれる事がとても嬉しいと思っていたんだ。そうだね、僕たちもう中学生だもんね、僕は構わなくても他の人からみたら可笑しいのかもね。で、今度は何て僕の事呼ぶの?」
「あっちゃんはそう呼ばれることが厭じゃなくて良かったわ。そこであなたに決めて欲しいの、次に何と呼ばれたいのか」
「ぼ、僕に。僕が決めるの。真理ちゃんが決めてよ」
「色々考えたんだけど決められなかったの。そこで本人が一番呼ばれたいように読んで上げようと思ってね。谷口君でも良いし敦君でも、ちょっとかしこまって谷口さん、それから・・少し照れるけど敦さん何て呼び方もある」
「じゃあ、武志君と同じ敦君で良いよ。そしたら僕、も少し武志君みたいになれるかも」
「武志君みたいに?何が同じ見たいになれるの」
「ほら、来年武志君は卒業して行くだろう。夜塾帰る時さ、僕が一緒に帰って上げれるかなあって思ってたりして」
「そ、そうね、来年彼は卒業して行くのね…その時はお願いね、敦君。あっ、呼べたわ、敦君て」
「寂しい」
「何が?」
「武志君が居なくなるの」
「今まで深く考えたこと無かったのよ。変わっていくのね、私達も周りの環境も、考えようが考えまいがドンドン変わって行くんだわ、背の高さとか容貌とかそんなものも変わって行くけど、それよりももっと重要なことが変わって行ってしまうんだわ」
わたしは敦君が尋ねた「武志君が居なくなるのが寂しいのか?」との質問には答えなかった。何時かきっと武志君が本当にいなくなる日が来る事を考えたくなかったからだ。
2学期は忙しい。去年中止された運動会、体育祭が復活してしまったらしいし、部活も他校との強化試合や秋の総合試合もある。勿論今年も詩のコンクールがあると思う。今年は去年のように山岡女史の勝手にはさせないぞ、と秘かに仕返しの案を練る。
うんにゃあ、ここに変な詩が鉛筆で書いてあるぞ。そう、あの古い古い文庫本の中ほどに、紛れもなくいたって現代の文字で詩が書かれているのだ。それもどうも恋の歌、どちらかと云うと失恋の歌らしい。
勿論、早く台本を仕上げねばならないのだが、その詩がわたしの心をうごめかす。
これを書いたのは山岡先生なのか、それともこの本の前の持ち主なのか?これは大問題だ、あの私、全然恋には関心ありませんのと無関係然とした山岡女史にも秘められた過去があったなんて、これは大いに彼女を見直さなければならないなどと、いくらわたしでも心動かされる。
外は雨、冷たい雨 ただあなたに会いたくて
濡れそぼる歩道の上に 一人飛び出し
あなたを探す 当てもないのに
好きだったのに そして今も好きなのに
何故か背を向けた私達
通り過ぎる傘の中に
ふとあの人の面影が浮かんでは消えて行く
雨降りしきる街角よ
こりゃあ、昔の恋だね。スマホも携帯もないころの恋だ。好きなのに背を向けた、でも今も好き、きっと相手も好きに違いない。だったら直ぐにでも連絡取り合って仲直りすれば済む話じゃん。で、母に聞いてみた。母は少し考えていた。母の顔は少し悲しそうだった。うぬぬぬ、もしや母上にも秘められた恋があったのか?それとも・・・
「そうねえ、それは昔の、歌謡曲全盛期の頃の歌の文句なのかも知れないわねえ。本に書いてあったんでしょう、本を読みながら、テレビかラヂオを聞いていた時この文句に触発されて思わず書いてしまったと云うのが真相ではないかとお母さんは考えるわ。それにたとえスマホや携帯があったとしても、別れなくてはならない事もあるし、事情によっては連絡出来ない事もあるでしょうからね。でも確かにもっと携帯が普及していれば、破局を迎えなくても良かった恋も沢山あったと思うわ」
「お母さんの周りにもそんなことあった?」 少しカマかけて聞いてみた。
「あったかもねえ、でもそれが人生よ,巡り会わせが悪かったの、それだけの話。神様のお許しが出なかったのね、きっと。だけどその後お父さんみたいな素敵な人と巡り合えるかも知れないじゃないの」
「でも巡り合えない人も沢山いるわ」
「神様は時に冷たいのよ。わたしが神様ならみんな幸せにして上げたいけどね、私は神様じゃないから」
母が誰を幸せにして上げたいのかは皆目分からなかった。
山岡女史から台本への督促がかかる。
「ねえ台本のあらすじ、大体まとまった?」
「うーん、はい大体まとまりましたとお答えしたい所ですが、中々でして。途中何だか恥ずかしいような
いえ、立派な恋の歌が挿入されてまして、そこで引っかかってしまいました」
「え、恋の歌が?オーヘンリーのにそんなのがあったかしら。まあ、無いこともないけど、恥ずかしくなるような恋の歌があるなんて」
「多分、それはオーヘンリーの書いたものではないと思います。名探偵島田真理が推理しますに、それはこの本の持ち主が書かれたものと思われます」
「え、この本の持ち主が。その詩を書いたのが私って言うの。一体どんな詩なの?」
「えーと、ほら有りました、ここの所に、鉛筆で」
「どらどら」
「そう言う所を見ると、この本、古本屋で買われたんですか、それとも誰か知ってる人に借りたか、譲ってもらったんですか?これ随分昔の本ですよね、読めない字というか今では使わない当て字みたいのが沢山ありました。ちょっとしたパズルみたいですよ。お陰で台本にするの手間取っちゃってるんです」
「うーんこれは、わたしには身に覚えがないわ。随分前に友達に借りた物だけど…そうか、あの人の事を思って書いたものなのね。過ぎたことはどうすることも出来ないわ、これは何かの、そう歌の一節として処理しましょう、あなたも私も。さあ、大問題は片付いたわ、これで台本が遅くなる理由の一つは無くなったわけだから、パズル楽しみつつ早く台本仕上げてね
なんだかすっきりしない話だ、旨く女史に誤魔化されたみたいな気もするが、気を取り直してシナリオを仕上げて行く事にしよう。
題はそうねえ「ニューヨーク物語」としようか。
時代は・・これは1930年前後の話しだろうな、初版の時を考えれば。
ナレーター
時は昔、いやそれほど昔ではないが、私たちが生まれる百年位前の話しだ。場所はニューヨーク。そこで暮らす人々の話しである。
舞台は夜の街、店が並んでいる(真ん中にパン屋)街灯がその横に立っている。右手より外套を着た男が懐中時計を見ながら、辺りをキョロキョロ見まわしパン屋よりやや左手に立ち止まる。
男
確かこの辺りだったんだがなあ、ビッグ・ジョウの店は
又、右手よりお回りが警棒をくるくると回しながら現れる。男はポリスを見て少し慌てた様子を見せる。
ポリスは彼に近づく。
男
やー今晩は、大丈夫ですよ,お巡りさん。ただ友達を待ってるんです、20年前の約束なんで。ちょっと可笑しな話でしょう?でも、噓偽りではありません。20年ばかり前この店の所にビッグ・ジョウと言う料理屋があったんですよ
ポリス
そう、5年前まであった。5年前に取り壊し、別の店になったんだ
男
あたしはそこの店で、ジミー・ウエルスと飯を食ったんですよ。あたしの一番の仲良しでね、世界中で一番立派な奴でして、その男もあたしもこのニューヨークで育ったんですよ。まるで兄弟同様でね、あたしは18,ジミーは20でした。その翌朝あたしは一儲けするために西部に出発する事になっていました。zジミーの奴は何てたってニューヨークを離れないって言うんですよ。世の中にニューヨーク位良い所はないと思っているんですよ。そこでね、あたし達は約束したんですよ、その晩ね、今月今夜のこの時間からかっきり20年したら、又ここで会おう、どんな身分になっていようと、どんな遠いとこに居ようと来なくちゃならないって。20年必死に稼いでおかなくちゃなんねえ、どんな目に合おうとも、そう心に決めたんですよ
ポリス
ほう、こりゃなかなか面白い。だが再開までに20年とは少し長いようだな。別れてからその友達から便りはなかったのかい
男
ええ、有りましたよ。暫くは文通してましたよ。だが12年程経つとお互いに消息が分からなくなってしまったんですよ。そうでしょう、西部と言う所は広いし、仕事は色々ある。大変な仕事もね。あたしはせっせと稼ぎましたよ、ええ。ジミーはきっとここへやって来ますよ。死んだんなら別だが。何故って奴は何時もこの上なく真正直な奴でしたからね。忘れるような事はありません。あたしは千キロ以上も旅をしてやって来たんですよ、今夜この入り口に立ってようとおもってます。昔の相棒さえ現れればそれだけの手間をかけた値打ちがありますよ
男、又懐中時計を取り出して時間を確かめる
男
10時3分前だ。あれは10時ちょうどでしたよ、あたしらがこの料理屋の入り口で別れたのは
ポリス
西部に出かけて一儲けしたろうな?
男
当ったり前ですよ。この時計もネクタイピンも本物のダイヤです。ま、ジミーもあたしの半分位は設けたでしょうが、奴はどっちかってえと仕事がのろい方でしたから、良い奴ですがね。あたしはとても抜け目のない奴らと競争しなくちゃならなかったんですよ。西部では一時だって油断しちゃいられませんよ
ポリス
私は出かける
ポリスは警棒をくるくる回しながら2,3歩歩き出す
ポリス
お前の友達が間違いなくやって来ると良いな。時間は一分も猶予しないのかな?
男
まあ30分位は待ってみますよ。生きてる限りジミーはそれまでにはやって来ますよ。さようならお巡りさん
ポリス
雨が降って来たよ、冷たい雨だ。お前さんも風邪をひかないようにな、おやすみ
ポリス左手に去る。襟足を立て、ポッケットに手を突っ込んだ通行人が3人ばかり通って行く。左手よりもう一人コートで半分顔を隠した背の高い男が現れる
大男
お前ボップか?
大男、男の所に駆け寄り、しっかり両手を握る
男
お前、ジミー・ウエルスか
大男
良かった、正真正銘のボップだ。生きていたらきっとここで会えると思っていたよ。だが20年は長い、昔の料理屋は無くなったよ、ボップ。あの料理屋が有ったら、又そこで二人で飯が食えるんだが・・西部の景気はどうだったかい?
ボップ
大したもんだよ、欲しいものは何でもお好み次第だよ。でも、お前も変わったなあジミー、俺が覚えているよりお前、10センチほどでかくなってるぞ
大男
二十歳過ぎてから背が伸びたんだよ
ボップ
ニューヨークでうまくやってるか、ジミー?
大男
まあな、俺は市役所に勤めている。ところでボップ、立ち話しもなんだから俺の知ってる家に行って、ゆっくり昔話をしようか
ボップ
そうしようか、この冷たい雨ですっかり冷えてしまった
大男
そりゃ済まなかったな、寒かったろう。さあ腕を組んで歩こうか
二人腕を組んで歩きだす。街灯の下に来た時二人はしげしげと顔を見つめる。ボップは足を止め手を振り放す
ボップ
お前はジミーじゃない!あのオデコの、俺がケガさせてずーと跡が残ったままになってた傷が、あの傷が全然見当たらないじゃないか
大男
20年の間には善人も悪人にもなるさ。お前はこの10分間、俺に拘束されていたんだ騙しのボップ。シカゴから多分こっちの方に来るだろうと連絡があったんだ。大人しく来るか?そいつは聞き分けが良い。ところで署に行く前にここに頼まれた手紙がある。この明かりの下で読むが良い。外勤のウエルス君からの手紙だ
ボップそれを受け取り、街灯の下で広げる
ジミーの声
懐かしいボップ、俺は時間通りに約束の場所に行った。だが、薄明かりの中でもお前がシカゴで指名手配されている、あの男だと分かったんだ。しかしどうしても俺には手が出なかった。そこで一回りしてその刑事に仕事を頼んだって訳なんだ。ジミーより
舞台暗転
昼間のさっきの舞台
パン屋の店先、エプロン姿の女が3人。
女1
ネエ、マーサ、あなたこの頃前よりおしゃれしてない?
女2
そうそうこの頃何となくあやしいわよ、マーサ
マーサ
え、そうかしら。おしゃれと言ってもブラウスをスカートに合わせて、ちょっと明るめの物に変えただけだし、髪も化粧も全然以前のままよ
女1
店の中も少し変えたんじゃないの?
マーサ
前から持っていた絵を飾ってみたの
女2
それが可笑しい所なのよ。前は絵どころか花一つ飾っていなかったじゃない
マーサ
どうも絵描きさんみたいな人がやって来るのよ、朝。それも古パンを何時も2個しか買わないのよ。絵描きさんかどうか確かめたくってね
女1
それでどうだったの
マーサ
絵にはたちまち反応したわ、あの絵の宮殿の遠近法は間違っているとか、前の湖はかなり良いとかね
女2
やっぱり絵描きなのね、その人。
女1
古パン2個しか買えない貧乏絵描きなんだ
マーサ
何時もつぎはぎの物しか来てないけど、でも清潔にはしてるみたいよ
女2
そこに同情心もあって好きになったって話か。
女1
今度何とかして出来立てのパンを食べさせてあげたいものよねえ
女2
せめてバターをたっぷりつけて食べさせて上げたいわ
マーサ
で今日、思い切って実行したの
女1
今日の朝?
女2
どんな風に
マーサ
朝、何時ものように古パンを2個くれと言って彼が来たの。その時、消防車がガラガラ外を走る音がしたのよ
女達
ああそう言えば朝火事があったわ
マーサ
彼は一旦外に出て行ったの。チャンス到来、この時しかないと思って、古パンを半分に切って、丁度さっき牛乳屋が置いて行ったバターがあったから、それをパンの中にぎゅうぎゅうに詰め込んでそれを元道理にぴったり合わせ、それを紙で包んで置いたの。彼はそのあと帰って来て何だか何時もより上機嫌で話し込んだ後帰って行ったわ
女1
そうだったの。じゃあ、今日はバターたっぷりのお昼御飯が食べられったって訳ね
女2
今頃、きっと彼、あなたの優しい心使いに感謝してるわ
左手より男2人血相変えて走って来て、1人がマーサに掴みかかりもう一人がそれを止めようとする
男1
この馬鹿野郎、大バカ者のドアホーめ!
男2
やめろ、乱暴はよせ、やめろ!早くあっちへ行こう
男1
いや行かん、話さんうちは。
男はマーサを突き放しマーサはよろけて店のドアにぶつかる
男1
あんたはわたしを台無しにした。何もかも滅茶苦茶だ。このおせっかいばばあ
男2
それで気が済んだろう、もう沢山だよ
男2は男1の襟首をつかんでそこから少し引き離した
男2
話して置いた方が良いですよね、おかみさん。あの男はブルンべルゲルと言って、建築の設計図を描く男なんです。僕も同じ事務所に勤めています。彼はこの3月というもの、新しい市役所の設計図をせっせと書いていたんです、懸賞が懸かっていたもので。昨日インク入れが済んだのです。知ってるでしょうが、設計図を描くものは初め鉛筆で描くんです。それが済むと鉛筆の跡を古パンの屑で消すんです。その方が消しゴムより上手く行くんです。ブルンベルゲルは今までそのパンを買ってました。ところが今日…分かるでしょうおかみさん、あのバターじゃ‥‥で、ブルンベルゲルの設計図はもう役に立たなくなっちゃたんですよ。あのパンじゃ汽車弁のサンドイッチにするしかありません
男たちは右手に歩いて行って消えようとする瞬間
女1
待ちなさいよ、あんた達。ブルン何とかさんの悔しい気持は良-く分かるけど、気の毒とは思うけど、でも罵られたマーサ、ここのおかみの心はどうなるのよ
女2
そうよ、あんたがひもじい思いをして毎日絵を描いている、そんなあなたにせめてバターを食べさせて上げたいというマーサの優しい心を踏みにじって行くのね、あんた達!
二人の男、立ち止まる
マーサ
もう良いのよ、本当に悪いことしたわね。3月のあなたの苦労を私は自分の妄想のため、あなたを勝手に貧乏な絵描きにして、バターを入れたパンをどんなに喜ぶかと思って、台無しにしてしまったの。わたしは馬鹿で阿呆でお節介ばばあと罵られて当然なのよ。今度もし他のパン屋で古パン買う時は、消しゴム代わりと一言言って買って下さいね
暗転
ナレーター
暮れも押し迫り、寒くなったニューヨークの夜。公園のベンチを毎日のベッドにしている一人のホームレスが居ました。彼の名はソービーと云いましたが、あまりの寒さにもう公園のベンチのベッドは不向きでしたので、3月ほどの別荘、別名刑務所暮らしを秘かに夢見ておりました
左手に立派で大きなレストラン、真ん中にはバーが2,3軒。右手には小さな料理店、奥には教会の十字架が見える。やや左手の方にソービーが立っている
ソービー
うう、寒い。昨日は新聞紙を3枚ばかり上着の中に入れその上に足の上と膝にもかけて ベンチの上にも敷いて寝たんだが、とてもとても我慢できなかった。慈善施設に行けばあったかい食べ物と寝床がある。でもでも、俺様はその慈善と云うのが気に入らない。何だか心の中の膝を折り曲げてその扶助を受け取るような気持ちだし、第一その施設に入るには、俺の嫌いな風呂に入らければいけない。お負けに、こっそり身の上を調べられるんだ。それよか、あの刑務所と云う名の別荘がずーと良い。3月ばかりで良い、冷たい風も吹かないし食べ物は安心して手に入る、それに気心知れた奴らと付き合える。何か少し悪いことをして、大人しく巡査に捕まりさえすればそれで十分だ
着飾った男女が2組、左の料理店に入って行く
ソービー
そうだ、ここが良い。俺はこのチョッキから上は自信があるんだ。髭は剃ってあるし上着は見苦しくない、このネクタイはこの間の感謝祭で婦人宣教師にもらったものだ。この料理屋の食卓に怪しまれずに辿り着ければ、もう半分成功したも同じだ。食卓の上に除く俺様を見てボーイは少しも気づくまい。マガモのテリーヌ、白ワインにカマンベールチーズ、それにブラックコーヒー。そんなとこかな?この位ならこの店に多額な損害を与えまいて
ソービーが料理店に入って行く。前掛けをしたその店のボーイ長と一緒に出てくる
ボーイ長
ここは擦り切れたズボンや汚れたドタ靴では入れませんよ、お客さん。出直して来て下さい、さようなら
ゾービーは頭を搔きながらその店先を離れ、そこの周りを考えながらぶらぶらしている。一人の男がいぶかしげに彼を見ながら行き違う。
ソービー
そうだ、あの窓ガラスを割ろう
ゾービーは足元の小石を拾って1つ目のバーの窓ガラス目がけて投げる。ガラスの割れる音が響く。一瞬通りかかった男も足を止める。巡査と他の人も3,4人集まって来る。巡査を見て立ち止まった男はそのまま行き過ぎる
巡査
これをやった奴は何処に逃げたんだ
ゾービー
俺に関係あるとは思いませんか、お巡りさん
巡査
あっあいつだ、今逃げて行った奴だ、待てえー
巡査、警棒を振り回しながら後を追う。見物人も去って行く
ソービー
あーあ、これで2度の失敗。腹も減って来たな。あ、こっちの店は小さいからこの靴でも咎められないかもな?まずは入ってみよう
ゾービー右手の料理屋へ入って行く。
そこに右手よりコート来た女性が現れる。頭には帽子
デラ
やっとあの人の,ジムのお父さんからもらったあのピカピカの金時計に相応しい金の鎖が手に入ったわ。これでやっと彼はあの素敵な金時計を堂々と人の前に出せるんだわ。ジムはきっとわたしの髪が短く切られているのを見て驚くでしょうよ。でもどうしてもわたしはあの人にクリスマスプレゼントを、あの時計にぴったりの金の鎖を手に入れなくちゃいけなかったんだもの。わたしの髪を売ればそのお金が出来ると知った時どんなに嬉しかったことか。それに髪は何年かすれば元通り伸びるわ
デラ左手に去る。又右手よりコートを着た男性が現れる
ジム
ああ、美しい僕のデラ。中でも美しいあの長い金髪に、その豊かに結い上げたあの髪に挿す櫛をついに手の入れた。君がとても欲しがっていたのを前から僕は知っていたんだ。時計は無くなってしまったけど、どうせ紐でつるした時計なんか人前に出せないんだし、それよりもその光輝く金髪を一層引き立てる櫛の方が良いに決まっている。さあ、早く帰ってデラの喜ぶ顔を見よう
ジムも左手に去る。料理屋のドアが開き、二人がかりでゾービーを外へ放り出す
男1
何が早くお回りを呼べだと。お前なんかにお巡り何かいらん
男2
そんな面倒なことするよりも、こうして外へ放り投げればそれで済む
男1
だが今度家の前を通ったらタダじゃ済まないぞ
男2
お前の顔はしっかり覚えたからな
ゾービーは立ち上がりズボンの埃をはたく。傘を持った1人の男が右手より現れ、その傘を真ん中にある明るい雑貨屋の前の店先に立てかけ、中へ入る。
ゾービー
ああ、駄目だ、誰も俺をお巡りに引き渡そうとしない。そうだ、あの傘を盗もう。店の中から俺の姿は丸見えだし、お巡りは近くにいるから今度は大成功だ
ゾービーはゆっくり近づいて大げさに傘を持ち上げ傘をじろりと眺めてから持ち去ろうとする。さっきの男が慌てて店から出てくる
傘の男
おい、待て、それは俺の傘だ
ゾービー
へ、そうですか?じゃあお巡りを呼んだら良いでしょう、俺が盗んだんだ、お前さんの傘をね。何故お巡りを呼ばないんだ、あそこの角に一人いるじゃないか
左手より巡査が近づいて来て二人をじろじろ見ている
傘の男
言うまでもないですが、その、何ですな・・こう云った間違いは良くあることで・・もしそれがあなたのでしたらどうか許して下さい・・今朝ある料理屋で拾ったんでして・・それがあなたの物だと分かればそりゃあもう‥いやあ、いえ‥いやあどうも
ゾービー
も、勿論これは俺のに間違いない
頭を掻き掻き傘男は左手に去る。巡査は右手に去って行く
ゾービー
何と云う事だ、巡査は俺の事を何をしても法に触れない王様とでも思っているのか
その時後ろから讃美歌を惹くオルガンの音が流れて来る
ゾービー
思えばもう直ぐクリスマスだ。月はあんなに皓皓と冴えわたってる。何だかおふくろや友達を思い出す。庭に咲いていたバラの花や希望に燃えていたあの頃。何時から俺はこんな泥沼に落ち込んでしまったのか!・・・そうだこの泥沼から這い出よう、真人間に立ち返ろう。そう前に仕事があるから働かないかと毛皮輸入商が勧めてくれたっけ。明日行ってその仕事をやろう
右手より窓ガラスを割った時の巡査がやって来る
巡査
お前、まだここに居たのか。追いかけた男はお前が石を拾って投げたと言っていた。お前も確か自分が犯人みたいなことを言っている。どうだ、来るか?
巡査とゾービーが連れ立って左手に去って行く
暗転
舞台を2つに壁とドアで仕切る。左手の所にも入り口のドア。右側の部屋にはベッドがあり女性が寝ている。その横には大きなガラス窓があり、カーテンもあるが今は空いている。窓の外には赤いツタの葉が何枚か見える。医者と女性がベッドの傍に立っている。2つの部屋にはそれぞれイーゼルが置いてあり、キャンバスも大小5,6枚ずつ置いてある
ナーレーター
ここはニューヨークの片隅、貧しい売れない画家達が片寄せあって暮らす、所謂画家村。そんなアパートの3階にスウとジョンジーの気の合う二人がアトリエを構えておりました。12月に入ってこの所この界隈で流行っている肺炎にジョンジーが罹ってしまったのです
右手の部屋から左手の部屋へ医師と女性は出てくる。
医師
ウーム、彼女、大分悪いな。と言うより重症だ。治る見込みは十に一つと言ったところかな。。その一つと言うのは生きたいと云う望む気持ちだ。葬儀屋の支度の事を考えているようじゃ、幾ら薬をやっても役には立たない。彼女には何か心を打ち込むような、希望を持てるようなものはないのかな?
スウ
彼女は・・・そうだわ、何時かナポリ湾を描きたいと言っていました
医師
絵だって、そんな下らないものを
スウ
下らなくはありません
医師
そんなことよりもっと値打ちのあるようなものはないのかねえ、例えば男とか
スウ
男ですって、そんな男なんか・・・いいえ、先生、有りません。そんなものは何もありません
医師
では衰弱する一方だな。私の腕で出来る限りの医術を施してみよう。が、あの子が葬式の車の列を数えるようになったら、薬の効力は半減するだろうし、あの子がこの冬のコートの流行を聞くようになったら
治る見込みは五つに一つになると断言できるだろう。では、私はこれで
医師は左手のドアから出て行く。その後スウは泣き崩れる.一しきり泣いた後顔を上げ、キャンバスを手に持ち、口笛を吹きながら勢いよく隣の部屋に入って行く。隣の部屋ではジョンジーが寝ていたので口笛は止める。イーゼルにキャンバスを立て、ペン画を描き始める
ジョンジー(か細い声で)
12・・・・11・・・・10・・・9・・・8・・・7・・六つ
スウ
一体何を数えている、え、何なのよ
ジョンジー
段々落ち方が早くなってるわ。3日前には百枚くらい残っていて、数えるのに大変だったわ。でも今はとても楽だわ。あっ又落ちた。もう5つしか残っていないわ
スウ
ねえ、何が5つなの?スウにも教えてよ
ジョンジー
ツタの葉よ、あの壁に張り付いているツタの葉よ。最後の一つが落ちたら私も行かなくちゃいけないわ
三日前から分かっていたの。先生も言ってたでしょう
スウ
そんなこと聞いてないわ。あなたの病気とツタの葉にどんな関係があると云うの?あなたはあのツタが何時も大好きだったじゃないの、それなのに何て馬鹿な事を言うの。先生が今朝おしゃったのは、もう直ぐに良くなる・・治る見込みは・・先生何て言ってたっけかな・・早々、治る見込みは一つに十だって言ってらしたわよ!ニューヨークで電車に乗ったって、新築のビルディングの傍を歩いていたって、誰だって死ぬときは死ぬのよ。さ、スープを飲んでごらんなさいよ。私、絵を描かなくちゃいけないのよ、あの編集部へ売りつけるの。そしたら病人にはポートワイン、食いしん坊の私にはポークチョップが買えるわ
ジョンジー
もうワインは沢山。あ、又落ちた。それにスープも要らない。これであと4枚。暗くなる前に最後の1枚が落ちれば良い、そしたら私も行くんだわ
スウ
ねえ、ジョンジー、私、絵を描いてるの。描き終えるまで目を閉じて、窓の外を見ないと約束してくれる?明日までに絵を渡さなくっちゃいけないの。カーテン閉めても良い?
ジョンジー
あっちの部屋で描けないの
スウ
あなたの傍に居たいの。それにあのツタの葉みたいなつまらない物を見て欲しくないの
ジョンジー
描き終わったら教えてよ。・・・最後の1枚が落ちるのを見たいんだから。私、待ちくたびれたわ、この体に絡みついてる色んな気持ちを捨て去って、どんどん落ちて行きたいの。丁度あの可哀そうな疲れた葉っぱのように
暫くあって、ジョンジーの寝息が聞こえる
スウ
やっとこれは描き終えたわ。そうそうこれから下のベールマンを呼んで、これから描く年寄りのモデルに成ってもらわなくちゃならないわ。彼女が寝てる間に行って来なくちゃ
スウは2つのドアを出て消える
ナレーター
ベールマンは同じアパートに住む年老いた落ちこぼれの画家でした。傑作を描く描くと言いながら、この数年間描いていた物は広告か商売用のへたくそな絵ぐらいの物でした。そして彼はここに住むモデル代に事欠く若い画家たちの為にモデルとなって僅かな収入を得ていたのです
スウとベールマンが左手のドアから入って来る。右手の部屋にも入り、カーテンを少し開けて見て又すぐ元に戻す。2人左の部屋へ行く
ベールマン
下らねえ、ツタの葉が落ちて自分も死ぬなんて、そんなバカな話がこの世の中にあるなんて今まで聞いたことがない。ほんとに可哀そうなジョンジーだなあ
スウ
とてっも悪いの、弱ってるのよ。熱が高いもんだから神経が過敏になって妙な事ばかり考えるのよ
ベールマンはそこにあるバケツをひっくり返しそれに腰掛ける。スウはキャンバスに向かう
ベールマン
本当にここはジョンジーみたいな病人が寝てるとこじゃないよ。俺は何時か傑作を描く。そしたらみんなでここを出よう。ああそうだとも
暗転
風の音が暫く大きく鳴り響ている。やがてそれが収まり、明るくなる。左手の部屋にあるベッドからスウが大きくあくびをして起き出す
スウ
2,3時間は寝たと思うけど。あれからジョンジーはどうしてるかしら、少しは気分が良くなっていると嬉しいのだけど
スウ、右手の部屋へ行く
スウ
ジョンジー、おはよう。どう気分は?
ジョンジー
カーテンを開けて頂戴、お願い。ツタの葉がどうなったか見てみたいのよ
スウ、しぶしぶ開ける。目の前にツタの葉が1枚へばり付いている。二人とも驚く
ジョンジー
残っている!最後の一枚が。夜中にきっと落ちると思ったわ、あんなに風が吹いていたんですもの。でも今日は落ちるわ。そしたら私も一緒に死ぬんだわ
スウ
とんでもない、私の事も考えてよ、あなたが居なくなったら私はどうなるの?あなたが居なくなったら
私はこのニューヨークで独りぼっち、このニューヨークでたった一人で生きて行かなくちゃならないのよ
暗転
スウが又ベッドから起き上がり、右手の部屋へ入って行く
スウ
おはよう、気分はどう、ジョンジー
ジョンジー
早くカーテンを開けて、どうなってるか早く見たいのよ
スウはまたしぶしぶカーテンを開ける
ジョンジー
まだあったわ・・
スウ
ちょっとスープを温めるわ
スウはストーブでスープを温める用意をする。その間ジョンジーはじっと窓を見つめる
ジョンジー
スウ、私いけない子だったわねえ。あの1枚が何かの力であそこに残っていることで、私が悪かったてことが分かったわ。死を願うなんて罪悪だわ。さ、スープを少し頂だい。それからミルクにワインを入れて。それに手鏡を取ってくれる。枕を2,3個あてがってあたしを起こしてね。私、あなたがお料理するのをみてるわ
スウが言われたようににこやかにしてやる
ジョンジー
スウ、私、何時かナポリ湾が書けそうだわ
スウ
ジョンジー、きっと描けるわ、あなたの好きなナポリが
暗転
ナレーター
その前日に来た医師はジョンジーの病状が5分5分に回復したと告げ、下のベールマンさんが酷い肺炎になっていて、直ぐに入院させると伝えましが、その翌日彼は入院むなしくなくなったと伝え、その後医師はスウにジョンジーはもう大丈夫だと太鼓判を押してくれました
医師が左のドアを閉めて出て行く。ジョンジーはベッドに起き上がり編み物をしている。スウが左手のドアから入り部屋を突っ切り、右手の部屋へ入って来て、ジョンジーを枕事抱く
スウ
ねえジョンジー、わたし、あなたに話すことが有るの。ベールマンさんが今朝、病院で肺炎のため亡くなったの。患ってたった2日でね。最初の朝、門番の人があの人の部屋へ行ったら、どうも手が付けられないほど苦しがっていたんですって。靴や服はびしょぬれで手は氷のように冷たくなって‥未だ明かりがついたランタンと散らばった筆や絵の具を説いたパレットがあり、ドアの所には梯子があったんですって。
ジョンジーはスウの顔を見る
スウ
ごらんなさいよ、あのツタの葉を。風が吹いてもびくっともしないのを。あれは最後の1枚が落ちた後、ベールマンさんがそこに描いた、彼の最後の大大傑作だったのよ
二人して窓を見つめる
暗転
クリスマスソングが流れる
どうだ、こんなもんかな?少々長いかな、3年生の最後の舞台だもの、出血大サービスと云う所かなあ、それに冬休み前だし、これくらい許されるかな。武志君に聞いてみようかとも思ったけれど、折角の受験モードをブチ壊しちゃ申し訳ない、ここは敦君や篠原女史に聞くべきだ。
相談を受けた2人ともとても嬉しそうだ。うん、これから演劇の事は二人に相談するとしようかな。
「削るとしたら最初の奴かな‥出て来るのは3人だけだし、なんだか物悲しい話だよね」と敦君
「でもさ、、オーヘンリーらしい皮肉が効いてるし、3年の男子を送り出すのにはぴったりだと思う。うーん、今度の劇は男だらけって感じだわね、仕方ないか、原作が男なんだから。私的にはパン屋の話が好きだけど」と篠原女史は付け足す。
「本ではパン屋と男二人しか出てこないんだけど、パン屋の味方も欲しいと思って友人二人を加えてみたの」とわたしが説明する。
でも二人に相談しても、らちがあかない、早く早くとお尻をひっぱたく山岡女史に任せるのが一番だ。
山岡女史、渡された原稿用紙をぺらぺらめくる。
「まあ、少し長いとは思うけど・・・まあ良いんじゃない。あなたも長いと思ってるんでしょう。でもどれも外す訳には行かなかったのね」
「ええ、ニューヨーク物語ですから」
「色んな人が暮らすニューヨーク、ここに出て来る人はそれぞれに相手の事を考えるあったかい心を持っている、たとえ悪人であっても、心の底にあったかい何かに溢れているのよねえ」
「それは作者自身の心なんでしょうねえ、私、オーヘンリー改めて好きになりました」
「でも、配役が大変ねえ、殆どが男なんだもの」
「私も悩みました。仕方がないので3番目の巡査二人とレストランのボーイは1年女子にやってもらい、賢者の贈り物の夫婦を3年女子と2年女子二人でやることにすれば何とかなります」
「つまり1幕目は3年男子、まあ松山君がボップで、体の大きい町田君が後から来る刑事で友人の方が上原君と言う所かしら」
「パン屋は小栗さん、女1,2を梨本、井原さん。設計士の二人を2年の南都、岸辺君。問題の3番目ですが
ソービーはこれは是非あ、いえ、谷口君でお願いします」
「私も谷口君のソービーが見たいわ。それから?」
「レストランのボーイ長と巡査2人は女性でも問題ないと思います。ここは1年女子3名にお願いします。忘れていましたが傘でもめる男性がいますが、これは3年の町田君、再登場でお願いします。賢者の夫婦ですが3年女子の畠山さんと2年の篠原さんにやってもらいたいです」
「まあ誰が何をやるかはその中で決めてもらいましょう。何なら走って決めても良いわね」
「最後の一葉ですが、ジョンジーはこれも是非北山さんにやらせて欲しいのですが・・」
「勿論そうしましょう。彼女も本格的な役がもらえてきっと大喜びだわ」
「それからスウですが」
「それはあなたしかいないわ」
「で、でも、それでは文句が出そうです」
「誰が文句を言うのよ?私がそう決めたと言うわ、だからあなたがおやりなさい。最後に葉っぱを眺めるシーン、あなた以外に誰も出来やしないわ。後医師とベールマンはもう1回松山君と上原君に登場してもらいましょう。でも、2年の女子が二人残っちゃうわね、どうするの?」
「後ナレーターがありますので、交代しながらやってもらいます。それに一幕目と三幕目には通行人とか登場しますが、それは手が空いてる人がやり繰りして乗り切りましょうか」
「ああ、とても大変ね、でもきっとみんな感動してくれるわ.例の高校の先生達も来てくれることになってるから、張り切ってやりましょう」
ふむふむ、道理で先生、張り切っていると思った。
早速その日のうちに配役は決まった。北山さんは勿論舞い込んできた大役に大喜びしていたし、篠原女史は賢者の贈り物の美しきデラに3年を畠山さんを言いくるめて強奪したのだった。他もそれほどもめることなく無事に収まった。
そうこうしている間に残念ながら運動会なるものが復活し、執り行われる事になった。どちらかと云うと、毎日致し方なくても運動してるせいか、徒競走も大分早くなっていたし、他の競技はそれほど苦手とはしてないので(ちょっと工夫すれば、それなりに上位に食い込めるのだ)ここはぐっと我慢の日々をやり過ごす。勿論美香や千鶴、睦美の各女子は元々体操人間だから毎日を嬉々として送っているようだ。
しかし当日、一番輝いていたのは沢口君だ。徒競走、組体操、障害物はお茶の子さいさい、最後のリレーは何人もの男子をゴボウ抜きして優勝のテープを切った。周りの女の子はキャーキャー騒ぐし、男子はあきらめのため息と驚嘆の眼差しを向ける。我が隣の武志君はどうだったかと言うと、まあそこそこ無難な成績を残した。やれやれこうして学校にとっては1年越しの一大イベントは終わった。
その帰り、武志君や沢口君、それに仲良し組と一緒になった。
「お前、ちょっと見ない間に運動、旨くなったんじゃないか」武志君が言う。
「あの位出来れば上等だよ、運動嫌い返上だね」沢口君までが言葉を添える。
「毎日毎日走らされてるし、腹筋もやっているから少しは人間だから成長するわ。だからって運動が好きになるかというと、そういう事にはならないだな」
「精神は成長しない?」篠原女史。どっと笑いが上がる。
「失礼ねえ、それを言うなら気持ちと言ってちょうだい」私が篠原さんを睨む。
「それにしても、今日の沢口さん、素晴らしかったわね、沢口さんて何をやらせても超一流だわ」
篠原女史の言葉にみんな頷く。
「わたしねえ、今日、誰かに見つめられてるような気がして周りを注意してたのよ」千鶴ちゃんの突如の言葉に、みんなぎょっとして注目する。
「何時、一体どんな奴」「もし変な男だったら俺たちに合図してくれたら直ぐはせ参じたのによう」
敦君と健太様が気色ばむ。
「それが‥どうも女の人だった見たい。私が気付いたので彼女、どこかに行っちゃたの」
「それってもしかしたら、千鶴ちゃんの本当のお母さんだったんじゃない?」美香が叫ぶ。
「そうよねえ、私もそう思うわ。誰かに情報をもらってこっそり見にいらしてたのよ」私も同調する。
「コロナ下だから、そんなに見物人は多くなかったから・・私も見たかもしれないけど、覚えてないわ」
睦美が残念そうに呟く。
「睦美は物覚えが悪いから、当然無理無理!」健太様が茶化す。
「お母さん、やっぱり千鶴ちゃんの事気にかかってるのよ、これでもうすぐ始まる秋の競技大会,増々千鶴ちゃん、張り切って頑張る事、間違いなしね」美香が言う。
「そう、各校対抗の。俺達3年の最後の競技大会なんだ」武志君が答える。
「じゃあ、沢口さんの雄姿、もう見られないのね」篠原女史が残念そうに呟く。
「勿論俺様と藤井の雄姿も見られなくなるぞ」と健太様が付け足す。
「高校はきっとバラバラになるけどそこで頑張るよ」沢口君。
「私、高校生になった沢口さんを応援に行くわ」
「ありがとう、島田さんも一緒に来てくれたら嬉しいな」
「お、俺も真理に応援に来てもらいたいぞ」沢口君に続いて健太も叫ぶ。
「私を忘れちゃいませんか?」睦美がむくれる。
「睦美は言わなくても来てくれるに決まってるだろう」健太、睦美を慰めるの図。
その夜、確かに素晴らしかった沢口君の今日のさまざまのシーンを思い浮かべたり、千鶴の本当のお母さんの気持ちや、秘かに彼女に見守って欲しいと願う千鶴の事を考えたりして寝てしまった。
その競技大会で勿論バスケットもテニスも卓球も優勝した。
沢口君や健太の活躍は勿論だが、千鶴の活躍は目覚ましく、中2ながら県下一と称えられていた。そしてその活躍は広く世間に知れ渡り、ついにオリンピックの強化選手にとの声がかかった。
千鶴は悩んでいた。普通なら普通の子供だったら、迷わずその声に飛びつくだろう。でも千鶴は親に対して、育ててもらった恩がある。店はコロナ下でも大繁盛だ。弟たちはまだ手がかかるし、いたずらはし放題「私が行ってしまったら、一体どうなるのかしら」そんな千鶴に代わって卓球の顧問の先生が店にやって来た。先生は店を覗き、悪戯坊主そのものと言った弟達を眺めた。「良くこんな環境で卓球、旨くなったもんだ」と彼は思った。
そして又「この環境から切り離し、卓球一筋に打ち込めば、彼女はもっともっと強くなる、厭、今までとは全然違う、別人のような村上選手が生まれるだろう」と強く思った。
彼は決心した。どうしても自分が彼らを説得しなくてはならない,彼女の為だけではない、そう日本の為はたまた、卓球界の将来の為にやらなくちゃいけないんだ。彼はそこで立ち働く母親らしい女性に声をかけた。
劇の方は台本読みも終わり、いよいよ本稽古に入った。でも例によって中間試験が迫って来ていた。
ここに一人、試験に向けてメラメラ闘志を燃やしているうら若き女がいる。
「今度こそ、あなたに勝つわ」村橋さんだ。
「今度こそと言ってるけど、私が勝ったのは2年に成ってからの1学期だけよ。それに夏休みの自由研究だって、金賞取ったのはあなたの方じゃないの」と私は切り返す。
「その1学期間が悔しいのよ。何しろあなたはその一方では、演劇の台本を描き、その劇の主役もとてつもなく上手くやって見せた。あの劇の中のあなただけをとっても私は完全に負けているわ。何しろスカウトしに、有名校が2校も見に来てるんだもの。それに自由研究の方だってあなたの字がも少し上手だったら、あなたの方が金賞に選ばれていたかも知れないと、私は思うの。もし絵だけだったら私の方はあらよく頑張ったわねえで顧みられることもなかったかも知れないわ」
ウーム、痛い所を付く。そうか、字が汚いと言う事は作品自体の価値まで下げてしまうのだ。大体何が書いてあるのか分からないではないか。いや待てよ、達筆すぎて読めないと云う事もある。私の方は何とか汚いのを我慢すれば読めるのだから、達筆より良いのではないかな?
「でも勝ち取ったのはあなただわ、改めておめでとうを言わせてもらうわ。まあお互いに夏休み良く頑張りました、本当に。で何の話しだっけ・・そうそう、今度の中間テストの話しね、まあ私はそこそこに頑張るわ。わたしってお祖母ちゃん似で粗忽物だから、早合点して問題を解いてしまって後から後悔しきりなの、そこを何とかしなくちゃいけないわねえ、うん頑張る」
「へええ、あなたお祖母ちゃん似なの、お祖母ちゃんて何する人」
「ただの薬屋さん」
「あ、薬剤師なのね」
「そう、昔は研究者だったけど、色々あって今は薬屋さんなの」
「だから余計益川先生があなたを理科部に入れたがってるのかあ」
「そして母が絵描きなもんだから、図画の先生が美術部に入れとうるさいの」
「でも本人は演劇の道をまっしぐら、という訳か」
「ハハハ、と言えればカッコ良いけど、友達に引っ張られたのと、山岡先生の強引さに負けたのよ」
「ふーん、良く分かんないけどあなたがあっちこっちで引っ張りだこだと言うのは良く分かったわ」
引っ張りだこって、大叔父さんから天草のお土産とか言ってもらったことあったような気がする。あれは海を泳ぐタコだったなあ。
そんなこんなで中間テストが終わった。私の成績はあれほど早合点を無くすと誓ったにもかかわらず、
やはりあちこち見落としがあったり、意味を取り違えたりして今一2位に甘んじた。肝心の村橋さんは
ほんとうに残念だったけれど私に次ぐ3位となった。彼女の悔しがること悔しがること、と思いきや、
表面上は波風立たぬ湖の如しだ。平然として私の前に現れ、何時ものように話し、笑い勉強している。
私はその前まで彼女に会うのを少しためらった。でもその平然とした態度を見て、おおっと感心し、少しばかり尊敬の念を抱いた。
「私ね、やっぱり敵わないわ。諦めようかなて思うの、あなたに勝つの」
「えっ、どうして諦めるの?私みたいなものに負けてどうするのよ、二人で一番の男子を追い抜きましょうよ。あなたはもっともっと頑張れるわ、だって夏休み、毎日、毎日、1日も欠かさずあのくそ面白くない天気予報を聞いて、記録を取り、コメントも書き続けたんだもん。そんなあなたがたった私如き一人に負けて、諦めたなんてどうして言うのよ。私が見つけたライバルなのよ、あなたはわたしのライバルなのこれきしの事でライバル、降りちゃうなんて、それはないと思う」
彼女はじっとわたしを見つめた。
「わたしがあなたのライバルであって良いの?私は本当に普通の能力しか持ち合わせていない、只ちょっとだけ両親からお尻をひっぱたかれて努力している女の子に過ぎないのよ」
「お尻をひっぱたかれて努力できるのは、それは素晴らしい能力よ。もっともっとひっぱたかれて、もっともっと努力すれば、きっと驚くようなあなたが待っているわ。努力に勝てるものはこの世には存在しないわ。あなたは私がやっと巡り合えた人生のライバルなのよ」
「本当に、本当に私で良いの」
「あなた以外に一体誰がいると言うの。今度こそ2人してあのにっくき1番の男子を抜き去りましょう」
そんな訳で夜も遅い時間、塾の片隅で、ひっそりとこの女性2名による秘密のライバル同盟が結ばれたのだった。
中間テストが終われば稽古はいよいよ本格的になる。と言っても舞台が出来てる訳でもないし、衣装が出来てる訳でもない。只心構えがラストスパートに向かって走って行くぞと云う気持ちがあるからだ。特に3年生には最後の舞台になるわけだから、一層気合が入る。その上その演劇の出来次第では、今度また見に来ると言う高校にパスできると言われているから張り切らざるを得ない。
1幕目はその3年男子の最大の見せ場だし、その為に書かれたようなもんだ。そうだ!ここで前の浦島太郎のように歌を歌ってもらおう。歌は・・そうニューヨーク、ニューヨークしかない。
そこで早速山岡女史に提案し,女史は松山君に相談した。
「はい、僕も是非歌いたいと思っていました。僕もあれから色々考えたんです。僕の両親は音楽家を志していた過去があるもので、僕に小さい時からそりゃ厳しくピアノを習わせ、稽古もするようにしつけようとしましたが、僕はどうしてもそれに馴染めず、逃げてばかりでした。だから中学に入ったら、サッサと演劇部に入ってしまい、仕方なく僕を音楽家にするのを諦めて呉れました。でも、この間の桃太郎の時、歌を歌わせてもらい、ああ僕は人の前で歌うのがとても好きなんだなあと、気が付いたのです。今からでは少し遅いかも知れませんが、僕は声楽家みたいのを目指したいと思うようになりました。音楽の大桐先生にも相談したんですが、ピアノも弾けると言うので、そういった方面の高校に推薦してあげようと約束してもらいました」
「そうだったの、あの時来てた今中高校の先生があなたの声量をとても褒めていらして、出来たら内の高校に来て欲しい,ミュウジカルみたいなものも出来るからと声がかかっていたのよ、今中高の先生、がっかりするわね」
「そうでしたか、ミュージカルも心惹かれますね。も少し考えてみますが、大桐先生の方を第一候補にしても良いですか」
「勿論よ。それはそうと歌は何処で歌うことにする?登場の所で歌う?浦島太郎の時みたいに」
「私は捕まってジミーの手紙を読んでから、「わが友ジミーの為にこの歌を贈ろう!」と言って歌うのは如何でしょうか。ボップはニューヨークを捨てて出て行った身ですから」
「そうね、それが良いわね。捨てた方がニューヨーク、ニューヨーク何て登場シーンで歌うのもおかしな話だわね。ニューヨークに残った友の為に歌う方が自然だし、感動的でもあるわ」
そんなわけで松山君の問題は一応片付いた。
「上原君と町田君はそれぞれ違った個性というか、風貌が違っていますから、それを十分踏まえた上で役を演じてもらって下さい。傘を盗まれた男は大男で顔も壊そう、それをアッ、いえ谷口君が平然と渡り合う、その可笑しさ、分かってもらえるかな、見てるみんなに。でも二人とも芸達者だから、大丈夫ですよね。それから上原君の医者ですが、原作では老人になっていますが、ここは彼に相応しく、いかにも切れ者の医者として演じて欲しいと思います」
上原君と町田君は互いに顔を見やってから、納得したのか素直に頷いた。
次はパン屋の方だが、ここは彼女らが良いように演じてもらおう。3年女子の最後の舞台だもの、思いっきりやって欲しい。後残りの3年女子一人はくせ者の篠原女史と組んでと言うか実際はバラバラに出て来るが、一応夫婦の夫の役を押し付けられた大人しい性格の子だ。でもやってる姿は生き生きとして、実に上手い。もしかしたら彼女が一番最初にスカウトされるかも知れない。
そんな中で松山君とは違った意味でその存在感が抜きん出てるのが敦君だ。何をしてもお巡りさんに捕まえてもらえない、情けない小悪人をユーモラスに愛嬌たっぷりに演じている。彼を見ていると、武志君に彼こそ瓢箪から駒だねと言われてしまうに違いない。
「彼、良い役者になるわ」と山岡女史も満足げに見ている。
そして待ちに待った北山さんだ。今まで殆どナレーターに甘んじて来た彼女だが、今回は立派な主人公の一人を演じるのだ。でも考えてみたら、この主人公初めから終わりまでベッドの上じゃあないか?
「御免なさい、折角の主人公役なのに病人役で。ほんとは賢者の贈り物の妻の役でも良かったのよねえ。
車いすで演じても、少しも違和感ないわ」
「ううん、私、最後の一葉が大好きだから、こっちで良いの。こっちの方が役をやる遣り甲斐があるわ,幾らでも工夫する余地が残されているもの。そうでしょう、島田さん?」
「そうよ、良く気づいたわねえ北山さん。セリフは少ないけど、その一つ一つに彼女の様態や、気持ちが込められているの。是非頑張ってそれをみんなに分かるように演じて頂戴」
「わたし、出来るか出来ないかは分からないけど、わたしなりに工夫してみる。もし気づいた所や、こうした方が良いと思う所が有ったら教えてね」
北山さんは謙虚で素直で、それでいて努力家だから、もっともっと良い役を考えて上げたくなる。今回はこの役で頑張ってもらおう。
この舞台はニューヨークで時代も少し前の話しだが、大体の衣装は今の時代の物を工夫すれば間に合うだろうが、ちょこちょこ出て来る巡査の衣装はどうするのか?山岡女史に聞いてみよう。
「ああ、巡査の衣装ね。今までの衣装の中にはないわよねえ」
「又貸衣装屋さんから貸ります?」
「ふうーん、それでもいいけど、あの見学に来る高校にあるかどうか聞いてみようかな」
「あると良いですね、何しろ戦前の、しかもニューヨークの制服ですから」
「それは・・無理だわ。要するに巡査と分かれば良いんだから、それらしいのを見つけて借りるのよ」
「はあ、分かれば良いんですね‥普通サイズの男性用と女性用のが2着、3着入用です。出来たらレストランのボーイ長の制服も、これも女性サイズでお願いします」
「巡査とボーイ長の制服ねえ、それも女性用が入用か」山岡女史の目が宙を見つめる。
何か良いアイデアが浮かぶことを真理は祈っているよ、先生。
背景はこれは又美術部の力を借りるしかない。そろそろ頼まないと間に合わないので、お巡りさんの制服の事で頭がいっぱいの所悪いが山岡先生のお尻をひっぱたくしかない。今回も山岡女史は平身低頭してと言うか、拝み倒してオーケイの返事をもぎ取った。
やれやれこれで一安心。あと効果音などは自分たちでやるから心配ない。それからベッドは椅子や板で何とかする事にして、イーゼルは美術部から借りることにした。貧乏劇団はとっても大変。
そうだ、忘れていたけど、詩のコンクールはどうなったかと言うと、なんと今年は久々の運動会などで手間取って、今年は中止となってしまったのだ。フーム、去年の定型詩が私の代表作だなんてとても心外、
このままで済ませてなるものかと、一応山岡女史に尋ねてみた。
「え、詩のコンクール?あれ、今年はないことに決定したのよ、残念でした。ほら、私、演劇関係以外,てんで力ないのよ。今年はさっさと諦めて頂戴」とけんもほろろ。気にもしてないご様子。
今年はちゃんとした物をエントリーして、去年の雪辱を果たすぞと燃えていたこの心の炎を、如何にして消し去らんぞ。
でも喜ぶべきニュースもある。千鶴ちゃんの一件だ。千鶴ちゃんの心の内は勿論、卓球に打ち込みたい一心だ。だが目の前のお店の現状を見れば、とてもそう言うことが許されない。それは実際に彼女の店に行った顧問の先生にも良く分かった、これはとても彼女の卓球の為、どうか彼女に十分な練習の時間を与えてくれ、オリンピック強化合宿に参加させてくれとは言えないと諦めかけた。ところがだ、先生の心を知ってか知らずでか、その両親からこのような話を聞こうとは思ってもいなかった。
「あのう、あの子が誰に似たのか分かりませんが、卓球が上手いとはお客さんの情報で良く知っています。でも、見ての通り我が家は商売第一、あの子が手伝ってくれてどれほど助かっていることか。まだ下の子たちは小さいので助けになる所か、返って足を引っ張る存在です。今回のオリンピックの話し、六に稽古も出来ない状態で、良くもまあそこまで頑張れたなあと親ながら感心するばかりです」
「きっと私達が寝た後に一人でトレーニングしていたに違いありません。あの子はわたしの実子でないことで、わがままを言うこともなく我慢に我慢を重ねて来たんです」
「そこで私達は決心したんです。あの子が安心して卓球が出来るように、この際パートタイマーを雇うことにしました。これであの子も強化合宿とやらにも気兼ねなく参加できると思います」
「私達もこの通知をもらった時、本当に嬉しかったんです。どうぞ今後とも宜しくお願いいたします。あの子は遠慮して、この事には一切返事はしてないと思います。今夜にでも良く言って聞かせます。あの子が物になるかならないかは分かりませんが、あの子は我が家の誇りです、どんな時でも私達は一番の応援団でおります」
こうやってめでたく千鶴はお店の手伝いから解放されて、卓球一筋に打ち込めるようになったのだった。
「良かったね千鶴ちゃん、これでオリンピック強化合宿にも参加して、メキメキ頭角を現して、そのうち日本代表に選ばれるかもね」浮かれた私は早速武志君に塾に通う道で話してみた。
「うん、まあそうだね」武志君の気のない返事。
「どうしたの、全然元気ないじゃないの、何かあったの?」
「いや、別に、何もないよ」
何もないわけがない、でも武志君はそれ以上話さないし話したくもないようだ。そこで翌日、藤井夫人が我が家に来た時聞いてみた。
「武志が元気がない?ああそれはね、あの沢口君がバスケの強豪校にスカウトされたからよ。自分も彼の後を追ってその高校を受験するか、バスケは弱いけど普通の高校を受験して、大学に備えるべきか、悩んでいるからなのよ」
「なあんだ、そんなことで悩んでいるのか。うーんみんな大変なんだねえ」
「真理ちゃんはどうするの?何か演劇部の大会で優勝候補の2つの高校から、1学期ごろからお誘いの手紙や見学に押しかけているとか聞いたわよ」
「ああ、それは断ったの、私、高校では劇やらないの」
「えっ、断ったあ、劇を続けないですって!あんなに才能あるのに、お母さん、知ってるの」
「さあ、でも分かってると思う、私がばっちゃんの志を継ぐつもりだって事」
「ばっちゃんの志て何?」
「目が見えない人の為、目が見えるようにする最新化学の研究。ばっちゃんはね、生まれ変わってその研究をする積りらしいけど、現世で私がやれば良い事でしょう」
「そ、そうね。それであの演劇の才能を捨てるわけね。道理であなたが塾の英才コースを受けてるのか良く分かったわ。うーんでも、その一方で、あなたもあなたのばっちゃんとか言う人も、私には良くその考え方が理解が出来ないわ」
私はかすかに笑った。そうかも知れない、でも私はあのばっちゃんが目の不自由な人を見るにつけ、苦しんでいる事も、研究出来ないでここまで生きて来た事を後悔していることも十分承知している。
もしかしたら、私の母でさえ理解していないのではないのだろうか。増してや隣の、ばっちゃんに会ったこともない藤井夫人に分かろう訳がない。いやむしろ、「わあ真理ちゃんもあなたのそのばっちゃんも、凄いのねえ。わたし、二人とも応援するわ」と言われた方がびっくりだ。
まあそんなことより武志君の元気がないと言うか、思い悩んでいる原因が分かった。要するに彼は沢口君が好きなのだ。別れたくないから悩むのだ。原因はバスケではない、もし彼がバスケが好きならば、他の高校に行っても良いし、沢口君の後を追っても良い、自分に出来る限りの情熱をバスケに注げば良いのだもの。
「ねえ、あなた、沢口君と別れたくないの」次の塾の帰りに聞いてみた。
「え、何だって?」
「沢口君と別れたくないのって聞いたのよ」
「沢口と別れるって‥ああ、高校の話しか。俺達、能力が違うんだよ、何時までも一緒に居られる訳がない。ここはにっこり笑って彼奴とは別の道を歩くしかないと決めたよ。まあ、一応高校入ってもバスケのクラブは続けるけど、あいつとは別々の高校に成るだろうなあ」
彼は彼なりに明るい声で言ってる積りだろうが、矢張り今一元気が感じられなかった。
「もし、私と武志君が別れる時が来たら、沢口君の時位に悩んでくれるかな」
前を行ってた武志君の自転車が止まる。もう少しで私の自転車が彼の自転車にぶつかるとこだった。
「危ないじゃないの、どうしたの。いきなり止めたりして」
「お、お前が変なこと言いだすからじゃないか」
「あなたのお父さんが転勤して遠くの所に行くとしたらどうするの?」
「親父か・・でももう高校だろう、俺はそのまま居残るよ。うん、多分お袋も」
「あと3年間は大丈夫って事か。3年もしたら武志君も私ももう殆ど大人だなあ」
又私達は無言のまま自転車を再出発させた。
その夜、東村君に武志君と沢口君が多分別々の高校に行くことになって、武志君が少し気落ちしてる事や
千鶴ちゃんが両親の承諾を得て、卓球の練習にもオリンッピクの強化合宿にも気兼ねなく参加できることをつづった。
秋は深まって来た。稽古は佳境を迎えていた。3年生の演劇は男女を問わず素晴らしいと言えるものとなった。勿論それには山岡女史の並々ならぬ叱咤激励があったればこそだ。うーん、ここいらあたりで山岡女史改め山岡先生と呼んでも良いんじゃないかなとも、考えてしまう私、もしかして彼女は私の同志と呼べる人種かも知れない。
でも何と言っても敦君の芸の細かさや間の取り方には参ってしまう。彼の身動き一つでニューヨークの冬の寒さが伝わって来るし、巡査に捕まりたいのに捕まらない歯がゆさや、いら立ちがその滑稽さの中にも垣間見えるし、讃美歌のオルガンの音色(稽古だから実際には聞こえていない)に雷に打たれたような状態から心を入れ替えるシーンなどはまさに迫真の演技なのだ。
「さすがね、彼がここまで上達したのはあなたを思う心があればこそだわ」と女史は言う。
「えーそんなあ、彼は単なる幼馴染の一人にすぎません。ここに入部したのも、他の幼馴染が自分の身代わりとして、無理やりに押し込まれただけですよ」
「あなたを守るためになの,このクラブが恐怖のだか地獄の筋肉強化演劇部の噂があったから」
「そう、それを教えなかった隣の・・」
「ああ、藤井君ね」
「そうです。それでその責任を感じて押し込んだのが谷口君。わたしとしては反対に彼の方を守らなくちゃいけないと思ったほどで。でもあんなに人前で話すことも儘ならなかった彼が、1学期の終わりには見事にイソップの鶴の役をやり遂げました」
「多分それもあなたへの思いがあったればこそだと思うわ」
山岡女史は盛んに断定するがそうだろうか、確かに彼は私をある意味尊敬してるが、それ以上に感じたことはない。
「あ、先生、あの本、もう用が済みましたのでお返しします。あの詩の作者の人にもよろしくお伝えください。出来たらお会いしたいとも。でもこんな子供なんかじゃ向こうが迷惑かな」
山岡女史は含み笑いをして、古臭い本を受け取った。
「伝えるだけは伝えるわ。でも彼女はそんな詩を書いたのさえ、すっかり忘れ去っているし、大体この本をわたしに貸した事さえ忘れ去っているわよ、きっと」
「人は時とともに変わって行くものなんですね、その人も変わってしまわれたかもしれませんが、必ずや彼女の中にその詩の思いは残っていると思いまっすよ、だって詩は心のはけ口、強く思うからこそ、詩は生まれて来るんだもの」
「フフフ、まあそうかもね。でも人生には忘れ去りたいことが山ほどあるのよ。くるっと丸めて人生のごみ箱の中に放り込みたいと思うのよ、例えそれが恋であってもね」
「そうですか、私にはまだ分かりません。でもその時の思いや情熱は詩と共に蘇ってきます、そしたらきっとその時の自分を愛おしく感じて抱きしめて上げたいと思うでしょうね」
「抱きしめて上げたいか・・私が代わりに抱きしめて上げようかな、彼女を」先生はじっと空を見つめていた。
「あなたと北山さんも息があってぴったりの感じよ。北山さんがあれほど上手いとは思わなかったわ」
「そうですよね、彼女、本当に劇やるのが好きなんです。もっと早く彼女を普通の役やらせてあげるべきでした。車椅子だって構わないではありませんか、どんどんもっと普通の役で出るべきだとわたしは思います」
「そうねえ・・私の考えが古いのかも知れない、観客がどう思うかに囚われ過ぎているのよ。反省反省」
「車いすに乗ったシンデレラでも白雪姫でも全然問題ありませんし、返って面白いものが出来上がりますよ・・・次何やるのかは分かりませんが」
「考え方次第よね、冒険してみるか‥そう人生、冒険大事だわ。やりましょう、3学期は2年生が主役ですもの、北山さんに大活躍してもらわなくちゃいけないんだわ」
私達、もう直ぐ3年に成るんだ。そして卒業して行かなくちゃならない。何時までも、このままでいたいと思い願おうとも時は平等に過ぎてゆき、私達を追い立てる。皆がそうやって大人になり、年老いてこの世から消えてゆくんだ。
「本当に島田さんは演劇を辞めてしまうの?」と突如山岡女史が尋ねる。
「多分・・辞めると思います。誰に強制されたわけでも、言われたわけではありませんが、人はやらなくてはならない天命みたいなものがあると思うんです。それは演劇ではなく化学の方だと今の私には感じるのです。演劇を偶然ではありますがやらせてもらって、それは楽しい日々、本当に楽しかった。あ、わたしまだ2年生です、あと1年、楽しく頑張ります。山岡先生あと1年少々、宜しくお願いいたします」
「そうね、まだ2年生か、まだまだ時間はあるわ」
「はい時間はないようでありますね、ほんとに」
二学期も中間テストが終わった頃、1年生男女2名ずつが新しく入部して来たが、彼らは見習いとして今度の劇では通行人や野次馬としてやってもらうほか、効果音などの担当も受け持ってもらうことに決定した。お陰で演劇部の将来は安泰と言ってよいだろう。
所で健太様はどうしているのか?睦美にこっそり聞いてみた。
「キャプテン?ああ勿論実績あるから推薦入学よ、強豪校ではないけども、これから我が校も強豪校にしたい、テニスにも力を入れたいと言う高校があって、そこに決めたらしいわ。強豪校だとレギュラーになるのも大変だし、その他細々と上下関係も厳しいから、今の高校の方が当りと言う所よ」
「そう、それは良かったわ。当然あなたも彼の後を追いかけるのよね」
「まあ、その積りだけど、増々練習に励まなくちゃならないわ」
「あなたなら大丈夫、きっと来年は我が校のピカ一になれるわ、今年だって目覚ましい活躍だったもの」
「ハハハ、ありがとう。千鶴ちゃんほどじゃないけど、まあ私なりに良い線行ってると思うの」
沢口君にも廊下ですれ違った時に少し話し込んだ。
「あ、高校、決まったんだって、おめでとう。武志君はあなたと別れたくなくって、随分悩んでいたみたいだけど、この所諦めて落ち着いたみたいよ。健太・・君はテニスの強豪校ではなく、これからテニスにも力を入れたい高校を選んだみたいだけど、人それぞれだよね」
「うん、武志と別れるのは僕も寂しいよ。それに強豪校はライバルだらけで今まで以上に頑張らなくてはレギュラーにさえなれないから、厳しい世界が待っているから、目出たいのかそうでないのか良く分からないよ。でもさ、バスケット好きだから頑張るよ。君が応援してくれるならもっともっと頑張るし、力にも成るけどね」
「勿論、応援してるわ、何の役にも立たないけど。それに沢口君があの有名な高校で活躍していると思ったら、とっても嬉しいし、誇りに思うわ」
「ありがとう、これで迷いも吹っ切れたよ。よーし頑張るぞ、ライバルを蹴散らして必ずレギュラーになり、大活躍するぞ。うん、沢口清和、西南高校で必ずレギュラーになり、大活躍することをここに誓います。君は応援、来てくれるよね」
「うわ、凄い人、と言うかみんな見てるわよ。でも応援必ず行くわね、ここは一先ず退散するしかない、後は場所を変えて話そうか」
周りの女性軍の嫉妬の目のつぶてに慌てて私は沢口君に別れを告げた。
その後、廊下で村橋さんにぶつっかった。
「何を慌ててるのよ、何かあったの」
「ご、ご免なさい。いや別になにもないわよ。そーね、金鉱を偶然見つけたのだけど、それがみんなにばれて『独り占めは許さんぞー』と石を投げられ逃げ出して来たところなのよ」
「え、何、金鉱ですって。この校舎の何処にそんな物転がっているのよ、私にも教えて頂戴、そしたらもう、勉強するのも程々にして、後は優雅に暮らしていけるわ」
「優雅に暮らしていけるわ、ですって。ふうーん、それも良いかもね、なーんてわたしは嫌なこった。金鉱は金鉱、私は私。金鉱の上で寝ているなんて真っ平御免だわ。あなたもそんな甘ちょろい考えを捨てて、明日の為に突っ走れよ、わたしのライバルさん」
「あなたってわたしの両親みたいなこと言うのね、只わたしの両親は、その金鉱に巡り合わせるために、
ひたすら勉強しろ勉強しろって言ってるんだけど」
「じゃあ、ご両親に言って上げなさいよ『わたしは金鉱を掘り当てる為勉強してるんじゃない、この世の少しでも役に立ちたいから勉強してるんだ』って」
「あー、わたし、少しばかりあなたと考えてる事違うんだな…どちらかと言うと、そうね、両親の考え方に似てるかも知れない。でその金鉱は今どこ?」
「金鉱はそこの廊下の曲がった所にいたけど、今は何処に行ったか分からないわ」
「金鉱行くえ不明とな。それではまあ二人とも一心不乱に学ぶしかないか、あなたは金鉱にあまり興味はないようだし、金鉱はあなた以外には興味ないようだから。今度こそあなたを負かして見せるわ、それにはこの学校で一番を目指すしかないんだもの」
「その意気、その意気。頑張ってちょ」
みんなの演技も増々板に付いて来たころ、女史は男子用と女の子でも着られる小さめの巡査の帽子や制服を求めて、栄南高や今中高を訪ね歩き、どうやらそれらしきものを手に入れたようだ。警棒やピストルも勿論込みである。さすがわれらの山岡女史だ。
一応、その役の者たちが身に着けてみた。大体体には合ってるようだ。それに馬子にも衣装、なんと皆立派な巡査に見える。彼ら、とても嬉しそうだ。せいぜい演技も頑張ってくれたまえ。
背景のニューヨークの背景もこっそり講堂の後ろに描かれ、レストランやパン屋などは別室で仕上げられていた。その他の衣装は自分たちの持ち込みや、今までの衣装などに衣服部によって仕立て直されたり、手を加えられたりして、それらしく出来上がって行った。と言う事はもう直ぐ期末試験が始まるのだ。わたしも村橋さんに約束したように、あの、東村君が居なくなって以来ずーと一番を走っている男子、物部浩一君に勝たねばならない。今まで余りというか殆ど順位など気にしてもいなかったわたしだが、約束した以上どうしても敵の首を取らざるを得ない。敵は今まで何処にいたか?彼は同じ塾の同じクラスの我々の目の前に鎮座していたのだ。彼は彼でわたし等に、特にわたしにライバル心を燃え立たせているようだった。鋭い目つきが合うごとに痛烈に痛い。英語が得意でなっかた頃は私が英語の読みで引っかかる度に冷笑を浴びせた。その彼の楽しみが段々無くなって行くと、余計に私を睨むことが多くなったと思うのは妄想か、いや妄想と思いたい。ここは可哀想だが、どうしてもその一番の座を明け渡してもらわねばならない。彼は特に英語と数学に強い。次に社会が得意だ。私は数学、国語、理科が得意だが、この頃は東村君のお陰で英語もまあまあになって来たし、社会は好きではないが、やればどうも出来るらしい。食わず嫌いと言う所なのだ。
そこにもう一人男子の2番手が居る。馬場昇君だ。馬場君も数学と英語、作文や詩の方は余り上手いとは言えないが国語のテストは抜群に上位にいる。理科や社会も程々だ。ちなみに夏休みに唾液の比較実験を実施したのは、この彼だった。もしかしたらその着想の良さから言うと、村橋さんやわたしよりずーと理科向きに出来ていると考えられるのだが・・・
つまり、この4人が我が校の成績の上位を争っているわけだ。だから今、塾の我がクラスの雰囲気は極めて悪い。休み時間も全員渡されたテキストにしがみ付き、顔も上げない。私は元々テキストだろうが、漫画の本だろうが、印刷されて内容があるものなら何でもござれだから、それに没頭するのは当たり前だけど他のみんなも右に倣えだ。勿論、テキストではなく漫画の本だったらどうなんだろう。
首を取るには、帰ってからの勉強も大事だ。生まれて初めて1時過ぎまで勉強をやりだした。
「真理ちゃん、この頃少し無理してるんじゃないの」と日頃勉強に口を出さない母が娘の異常さに気づいて声をかける。
「そうね、でも普通の子達はこの位は無理の内には入らないんだって、特に試験前は」
「まあ、そうかも。私も勉強じゃないけど、良ーく友達と長電話して母に文句を言われたものよ。何しろ昔は携帯やスマホが無くって、普通の電話だから物凄く電話代かかっていたらしいわ」
「わたしは勉強しなくちゃならないし、電話代もかからないの」
「まあ今まで夜遅くまで勉強してなかったから、急に勉強に身を入れて体を壊さないようにね。今だって十分成績は良い方なんだから」
「約束したんだ、女同士の約束。男子の一番物部浩一君の首を取るって。だから今まで以上に勉強しなくちゃならないの」
「そう、友達との約束、大切よねえ。じゃあお母さんも応援しなくちゃ、お夜食食べる?」
「ありがたいけど体に悪そうだから止めとくわ」
「じゃあ濃いお茶でも入れて来てあげるわ」
「それが一番ね、お願いしまーす」
そんな日々が続く。劇の方もみんな白熱を帯びて、こちらも手を抜けない。これがきっと充実した日々と言うものに違いない。うん、確かに充実してる、と私も思う。
「真理ちゃん、この頃顔色、すっごく輝いてるね、又恋でもした?」と美香ちゃんがからかう。
「残念でした、恋もしてないし、しそうにもないわ。只友達との約束を果たすため、すこうしばかり、夜更かししてるかなあ。変わった点はそのくらい」
「なあに、友達との約束って、それを実行するには夜更かしが必要なの?」
「大天才でない限り、これは絶対必要条件なのよ」
「ふうん、一体誰と約束したのよ、そんな変な約束をした相手は。男、女、どっち?」
「もち、女に決まってるわよ、男は今の所敵なの」
「真理ちゃんが夜更かしをせざる得ない約束をした相手と云うのは。うーん解らない、武志君に聞いても分からないよね」
「武志君?全然関係ないから理解不可能だと思う」
その後塾に行く途中、その武志君に尋ねられた。
「お前、この頃夜更かししてるんだって。美香が心配してたぞ、なんか変な女に脅かされてるんじゃないかって」
「これはこれは。美香ちゃんさ、初め顔色が良いと褒めてくれてたんだよ。それが変な女に脅かされてると言う話に代わってしまったのか。もしかしたら脅かしてるの、反対に私かも知れない、言い出しっぺはわたしなんだから」
「何を脅かしてるんだ、演技の事か、それとも・・まさか勉強の事とかじゃないだろうね」
「ヘヘヘ、そのまさかなんだ。私たち、私ともう一人の女友達。ずーと試験の学年成績、男たちに負け続けているんだ。だから、この辺りで私達が男子を追い抜いて、女子がトップを取ってやろうじゃないかと思ってさ、女友達に檄を飛ばしたの。わたしを追い越すのを目標にするんじゃなくて、トップの男子を追い抜くのを目標にしたらって。ついでに二人でトップを飾り、男子のトップの世に終わりを告げさせようと云う目標を立てたのよ。だから私も言い出しっぺの責任を感じて、みんながすなる夜の勉強を始めたと言う訳。劇の方も今油が乗って来た所だから、そっちも奮闘しなくちゃならないから、私の日常、今までになく充実しきってるの。で、ここで美香が言う所の顔色が良いにつながっているんだ」
「何だ、少し心配したよ、美香もね。まあ頑張れよ、その女友達は分かんないけど、お前が本気を出せば
敵う奴はいないと思うよ、誰であれ」
段々日は短くなり、気温も下がる。木々の葉っぱもみんな散って、北風がうなりをあげて噴き出すと、冬が来たことを実感する。
目の前にこの私の成果が示される物、期末試験と演劇披露の二つが迫って来ている。
山岡女史の何時もの(1学期には聞く事が無かったが)演劇部員として恥ずかしくない成績を取ると云う
試験に対する心構えが述べられて、暫し演劇部は解散となった。
そして試験は始まり、試験は終わりを告げる。
その後、塾であった村橋さんに声を掛けられた。
「ね、どうだった?今度の試験、今までになく難しかったわよね、そう感じなかった?」
「まあ、段々勉強の内容も難しくなって行くんだから仕方ないわ。でも、あなたのお陰でここの所、夜遅くまで勉強してたから、そんなにまごつかないで助かったわ。もし、今度の成績が良かったら、全部あなたのお陰よ」
「ええっ、何がわたしのお陰なのよ、わたしあなたに夜遅くまで勉強しなさいって言ってないわよ」
「あなたと私で男を負かそうと約束したじゃないの。約束をしたからには守らなくてはいけない。その為には夜遅くになっても一応勉強しなくてはならない。だから私は初めて夜遅くまで勉強したのよ、だから
もしこれで成績アップしたら、みーんなあなたのお陰なの」
「へー、そう言う論法なのね。初めて夜遅くまで勉強したか…これは誰も勝てないわ、きっと」
物部君も馬場君も聞かない振りしながら、聞き耳を立てているのは間違いない。男子二人はじろりと私を見やり、かすかに笑った。
でも成績ばかりを気にしてる訳には行かない、私には大事な演劇の世界があるのだ。
最後の一葉のラストシーン、只セリフなしでじっと描かれた葉っぱを見つめる。山岡女史によればこれによって、この劇の良しあしが決まると云うのだ。そんな責任を負わされているのだから、本当は試験の成績バトルに加わっている場合ではないのだ。
スウがジョンジーと二人で見る、となっている。ここが問題だ、
色々やってみた。ジョンジーの肩にそっと触れて見るのは決定したが、それからの間の取り方や、顔の角度やひねり、小さなため息、試すことは山ほどあった。
でも小細工は不要だ、何も要らない。只彼が描いたツタの葉を、じっと見つめる、それだけで十分ではなかろうか。その時微かに口元が開いていたとしても、固く結ばれていても、それはその時の気分に任せれば良いのではないか。山岡女史にその結論に至った事を述べた。
「自然が一番ですから」
「うーん、そうね‥でも、うーんそれはそうだけれど、うーん‥でも、そうね・・」
山岡女史には中々決断が付かない。
「じゃあ、それを踏まえてもう1度、そこの所を演じてごらんなさい、見てみましょう」と言う訳で、北山さんと二人で最後のシーンを演じてみる事になった。
「私もこの方が自然でやり易いと言うか、感情移入出来ます。変に小細工されると、こちらもそれに合わせなくてはなりません。今度の方が島田さんの手の力や体の寄せ方でその感情が伝わってきます」
北山さんも同調する。
「うん、そうね。自然の成り行きに任せるのが一番か」
ついに山岡女史もわたしの案に賛成の意を表したのだった。
さてお待ちかねの総合試験得点成績の発表の日がやって来た。実の所、その事はすっかり私の頭から抜け落ちていて、東村君に出す英文の手紙のことで休み時間を使っていたのだった。
「ねええ、ねえ、島田さん。島田さんてば」篠原女史の声で英文は断ち切れた。
「え、何?何かあったの」私は頭を上げた。
「いやねえ、とぼけて。試験よ、試験。今見て来たわよあなたの成績」
「あなたの成績でなく?」
「そ、そりゃあ自分のも見て来たわよ」
「そう、それでどうだったの、山岡先生のご機嫌を損なわないで済んだの」
「そ、それどころじゃないわよ、一番についに一番になったのよ」
「ええっ、あなたが一番になったのか。それはそれはおめでとうございます。ちょっと思ってたのと違うけど、あなたが一番になったと云う事は、あの男子の物部君を女子が追い抜いた事に変わりはないわ。ありがとう篠原さん、こんな所に伏兵がいただなんて、彼も吃驚しただろうな、フッフッフッ」
「違う違う、私じゃない。一番になったのはあなたよ、あ・な・た・なの」
「なーんだ、あなたじゃないの。折角面白い展開になるぞとワクワクしてたのに。残念無念」
「何が残念無念よ、それに私がいきなり一番になる訳がない、天地がひっくり返ったってある訳がないわよ。ここは島田真理様が頑張って、ねえ、今回、凄く頑張ったんでしょう?」
「うん、わたしにしては凄く頑張ったわよ」
「その島田真理様が物部氏をついに追い詰め、東村氏無き後の座を奪い返したのね。これは一刻も早く藤井殿に報告して、東村氏に即手紙をしたためてもらわねば」
「大げさね、例え相手が物部君じゃなく、東村君だったとしても、その座を女子の手に奪い取らなくてはならなかったのよ。そうでしょう、何時までも男性に一位の座を占領されてたんじゃ、この世の中、男女同権に陰りが射すと云うものでしょう」
「ふーん、ま、あなたを見てるととても影が射してるとは感じないけれど、あなたの目で見れば、きっと陰射してるのねえ」
「で、村橋さんは?」
「え、村橋さん?えーと、ああ、前はあなたより順位が上だった人ね。彼女は・・3番か4番だったと思うわ。御免、良く見てないの、だってあなたが一番で嬉しくって舞い上がっちゃったから他の事は良く見てないのよ」
「私事でそんなに喜んでもらって、ありがとうと言わせてもらうわ。でも、わたし、村橋さんの順位を知る必要があるの。彼女と約束したんだ、二人で男性諸君を退けましょうって」
「あなたと村橋さんって‥ああ、塾特別コースの塾友なのか」
「そう、私達は盟友なの。彼女には私の代わりに理科クラブにも入ってもらってるし」
「理科クラブねえ、そう言えば夏休みの自由研究であなたを抜いて金賞取ったわ。あなたの薬草の絵も凄く良かったのに銀賞だなんて酷いわよねえとみんなで話してたんだ」
「ハハハ、重ねてありがとう、じゃあ、村橋さんの結果をみてこようかな」
廊下に出て少し行くとみんなが群がっている所にそれはあった。わたしが近づくと、周りの人達が気が付いて、丸でモーゼが海を二つに開いて道を作ったようにわたしの為に道が開かれた。
「凄いね、ダントツだよ島村さん」
「ほんと、これで女子も男子に負けないって証明出来たわ」と言う声が道の両側からかかる。でも目的は自分の成績を見る為じゃない。村橋さんの成績が知りたいだけ。
有った、彼女はやはり3番だった。彼女と私の間には彼の名が、物部君の名がデンとそそり立っていた。
「うーん残念」と思わず言葉を発してしまった。
「え、島田さん、あなたが一番なのよ」私の発言を聞き咎めて、学友が声をかける。
「あ、御免なさい、別の人の事なの」そう言って、慌ててそこから立ち去った。
2年生のクラスがある所にいると周りがうるさいので昼休みが終わるまで、外に行くしかないと下へ降りた。外へ出るとバスケの練習をしている男子が目に入った。その中にはもう武志君はいなかったが、一際背の高い沢口君は直ぐ目についた。
彼も気が付いて練習を止めて、彼女の傍へやって来た。
「やあ、試験の成績、ついに一番になったんだって」
「どうして沢口君が知ってるのよ」
「ハハハ、2年生が居るからね。ダントツで一番だって教えてくれたよ」
「武志君はもう練習来ないの」
「ああ、それより入試の勉強が忙しいからね。彼に用だったの?」
「ううん、ちょっと五月蝿いんで外の空気を吸いに来たの」
「そうだろうね、女子が一番になるのって珍しいからね。でも僕には少しも珍しくないよ、君が直に一番になるのって分かっていたからさ」
「ありがとう、何かホッとするなあ」
「今、気付いたんだけどさ、君の名前は真理って言うんだろう」
「そうだけど、それがどうかしたの?」
「ほら、マリーキュリー、女性で初めてノーベル賞を受賞したマリーだよ、あの物理学者の」
「そう言えば真理とマリー、似てるわねえ。でも父は哲学畑の人間だから単にシンリを追求するという意味で付けたんだと思うな。ま物理だって化学だってシンリを追求するのに変わりはないけど、そこまでは考えていなかったんじゃない」
「でもさ、天国から日本にもわたしがいるって見てるかも知れないよ」
「嬉しいことを言ってくれるのね、その言葉を心に刻んで、みんなが騒いでも冷静にこれからも頑張るわ
マリーさんが生きていた時代は女性の物理学者なんて本当に働く所もなく、人の偏見の中で苦労に苦労を強いられた時代、彼女はそこを泳いで泳いで,お負けに研究していた物の為に放射能に侵されて死んでしまったんだわ。この現代でさえ、女性が研究者として生きることはまだまだ大変な事だと内の祖母が言ってたけど、わたし、沢口君の言葉があるからきっとこれから先も、頑張ってくじけないで進んでいけると思う。御免なさいね、バスケの練習中だったのに邪魔しちゃって。私、もう行くわ、ありがとうね」
私は立ち上がり校舎の中へ、沢口君は練習しているみんなの元へ帰って行った。
一応家に帰ってから母に聞いてみた。
母は笑って「単にかわいいから真理にしたのよ。お父さんにもお母さんにも、あなたに物事の真理を追究して欲しいとか、マリーキュリーみたいになって欲しいとか、そんな下心は全くありません」ときっぱり否定された。うーん、何か寂しい。せめて頭の中をキュリー夫人の面影が少しは過ったわ、とでも冗談交じりに言って欲しかったな。
そこで父にも一応尋ねてみた。
「ウーン、マリーキュリーねえ。全然思い浮かばなっかったなあ、今まで一度も。大体あの人は余り幸運とは言えない人生を歩んだ人だから、そんな事を願って親ともあろうものが名前を付ける訳がない。親というものは何時の世も子供の安楽を願っているものなんだ。まそれがその子の考える幸せとはずれている事が多いけどさ」
「そう、私とマリーさんは全然関係ないのね、少しは彼女のように聡明であれと思わなかったんだ」
「でも真理、真理はマリーさんの事と関係なく、聡明だと思うよ、十分過ぎるくらい」
そうそう、その日、塾へ行く日だったので何時ものように武志君と自転車で向かった。
「お前、ついに一番になったんだって」
「地獄耳なのね、相変わらず」
「聞きたくもないのに周りから流れ込んでくるのさ。俺、お前のボーイフレンドて思われているからな」
「そうね、わたしもよ。でも武志君の成績順位は今まで一度も流れてこなかったな」
「あ、当たり前だ、誰が俺の成績なんか気に掛けるものか」
「わたしは気に掛けてるよ」
「お、お前、俺の順位知ってるのか?」
「ううん、全くもって知りませーん。でも気にはなるわ、お隣だし、一応ボーイフレンドと思われてんだから。あ、美香なら知ってるかもね。今度聞いてみよう」
「よ、止せ。隣だから余計にまずい、お前が一番で、隣の俺が2・・お袋から何と言われるか」
塾に付いた。今日初めて村橋さんや物部さんと顔を合わせる。
「塾の先生たちがね、あなたを特別クラスに入れてて良かったと言ってたわよ」
村橋さんが顔を合わせるなりそう口を開いた。
「あー、今回はあなたとの約束があったから頑張ったのよ。次はどうなるかは分からないわ」
「私との約束?男子を抜いて女がトップを取ると云う約束だっけ。あの冗談みたいな約束、あなたは守ったのね。まあわたしの脳裏にもぼんやりだけど有ったわよ。でもわたしの能力ではこれがギリギリ、勘弁して頂戴。でもさ、あの物部君のしょげ方は尋常ではなかったわ。あの紙が張り出された時、彼は真っ先に見に行ったのよ。私はそれから少し遅れて。彼は一瞬、電流が走ったみたいに震え、それから動かなかったわ。私が見に来たのに気づいてやっと口を開いたの『島田が一番だ』そう言ったので見てみたら、物凄い点数差であなたがトップだった。そこで『島田さん、ダントツじゃないの、あなたとわたしとても敵わないわねえ』と言ったら、又ジーッと点数表を見つめていたけど、きっと心の中では泣いていたわね」
その時、遠くにいたはずの物部君が突如目の前に現れた。
「俺は泣いてなんかいなかったぞ、只どうすればこいつに勝てるのか、案を練ってただけだ」
「アン、アンネエ。シロアン、キミアン、普通のアン?で良いアン練り上げられた」
「うん、まあな。でもここで言うと折角の秘策が秘策で亡くなるから言えないな。言えるのはアンはウルトラ秘密アンと言う事さ」
「ふうん、ウルトラ秘密アンねえ。じゃあ私達はスーパーウルトラハニーアンを練り上げなきゃあねえ島田さん」
「とても美味しそうだから食べてみたくなるけど、今は劇の開演が迫っているからダイエットに悪そう、ここはお預けと云う事にしとこうかな」
「うーん、そう来たか、私、今度も見に行くわ。ねえ、物部君、あなたも見に来たら?台本から主役まで
完璧にこなす敵の姿を良ーく脳裏に焼き付けてから、寝言は言うべきよ」
村橋さんの辛辣な言葉に物部君は少しうろたえ、それからじっとわたしを見つめた。
「先ずは敵の観察からか、分かったよ、行くよ、絶対に。君の正体を絶対に掴んでやる」
正体か。わたしの正体は一体何なんだろう、私自体が良く分かっていない、本当にやりたいものは何なのだろう。本当に演劇を捨て化学と云う世界に飛び込んで行って、後悔しないのか。ばっちゃんが「ちょい役で好いから、ばっちゃんも真理ちゃんの劇に出たいなあ」言った言葉は、演劇への夢を葬った若い自分へのレクイエムだったのかもしれない。
「私の正体が分かったら、私にも教えて。私自身も知りたいの」
物部君も村橋さんもこれを冗談としか受け取らず、少し笑いを浮かべて自分の席に戻った。
次の日大詰めの講堂の練習を終え、やや遅く帰ったら、母からもらい物(大伯父さんから送られてきた蒲鉾)のお裾分けを持って行って頂だいと言われてお隣のドアを鳴らす。
「何だ、お前か」武志君が出て来た。
「おばさんに蒲鉾持って行けって言われたのよ」
「分かった、まあ上がれよ」
藤井夫人が現れる。
「まあ、真理ちゃん、明日でもお母さんに直接もらっても良かったのに」
「多分、冷蔵庫が一杯で邪魔だから早く渡したかったからじゃないですか」
「ハハハ、真理ちゃんには誰も敵わないわね。ああ、今日ね朝お宅に寄ったのよ。そしたらあなたのお母さん、あなたの成績、学年トップになったって全然知らなかったそうよ。真理ちゃん、伝えなかったのお母さんに、とても喜んだでしょうに」
「ええ、まあ。今まで聞かれたこともないし、心配されたこともないから」
「それはそうねえ、真理ちゃんみたいな子だったら何も心配することもないか」
「母ってそんな心配するする暇があったら、絵を描いてる方がずっと増しと云う性格ですから」
「へええ、まあまあ、それはそれは、と云う言葉しか出てこないわねあ。あなたのお母さんが変わっているのか、それをそのまま受け取る真理ちゃんが変わっているのか、どっちもどっちと云う所か」
「母もそれから父も自分の人生は自分で選んで歩いて行くもの、口をはさんだり、手お出したりするものではない、勿論行き詰まったり、助けが欲しい時はそれなりの手は貸すけどと云う考えなんです。子供の人生の為に自分の人生を犠牲にするなんて考えは存在しない」
「ま、あなたのお母さんを見てるとそれが伝わって来るわ。でも私からは真理ちゃんにおめでとうと言わせて、お母さんからではないけれど」
「ありがとう、おばさん。おばさんが喜んでくれるなら、真理、これからも頑張る。真理、おばさんの笑顔を思うとモチベーションが上がると思う」
こうして私の学年トップ事件は概ね幕は閉じた。
それと同時に、もう一つの幕が開く。今回からビデオ撮りは武志君から同学年のバスケの男子が引き受けてくれる事になったから、3年に成っても安心していられる。
新しく入った一年の子も音声効果の出し方に工夫してるらしく、1幕目の寒々とした風の音が話に合わせて強く成ったり、弱まったりとぴったりとマッチしている。
オーヘンリーの皮肉のきいた話に引き込まれて行った頭の中に、最後、突如高らかに「ニューヨーク、ニューヨーク」の松山君の歌が響き渡る。本当に松山君の声は艶やかで、声量があり聞く者の心を鷲掴みにしないではおかないものがある。将来が楽しみと言ったところだ。
次はパン屋のちょっぴり物悲し話だが、中三の女子がこれが最後と、初めは明るく元気いっぱいに、恋バナらしいおしゃべりにはしゃぎ、その一方で去って行く男たちに悪態をつく場面やパン屋の店主の男にかける言葉には、ちょっぴりほろりとさせられる。その女たちに戸惑う男たちの自分の事しか考えていなかったと云う思いも十分伝わって来る。
さて次は山岡女史と私が待ち望んでいた敦君のゾービーの登場だ。
風の音は余計寒々と唸っているように聞こえたし、照明も丁度良い。
そこに現れた敦君。彼はもう立派なゾービーだ。上はちょと見、紳士然とし、下はよれよれのズボン姿にドタ靴のいでたち、それらに負けない不運と幸運の狭間を、行き来する男の滑稽だが悲哀に満ちたエピソードを爆笑の中、演じきった。大体間が素晴らしい。セリフのない時の表情がみんなを引き付ける。その彼の演技の進行中に突如現れる、デラとジムの夫婦。女性二人が聖者の贈り物を演じるのだ。篠原女史はその敦君の演技をものともしないと云うか、意に介しない、全く無視して快活にやり遂げた。何しろやっと射止めた若い美女の役だもの、彼女に抑えめの演技で何て、とてもとても通じはすまい。
次に出て来る夫役の3年生の女子は敦君と篠原女史の板挟みに成ってはいたが、そこは3年生、それなりにそつなくまとめて見せた。
この3年生の演技が入ったお陰か、その後、敦君はお店の二人に無事(?)に放り投げられ、効果音によるハモンドオルガンの奏でる讃美歌のメロデイーの中、自分の半生を振り返って悔い改めようとする所など、皆がここで終わって欲しいと思うほどに真に迫っていた。
次はいよいよ私の出番。最後の一葉だ。
北山さんの初めての準主役、北山さんのワクワクする気持ち、張り切って行こうとする心意気。それは良ーく分かる。分かるけども、それは今日死ぬか、明日は死ぬのかと言う相反する人間を演じてもらわねばならない。ここは是非、死にかかった病人を真に迫って演じてもらおう。
だが、心配無用、篠原女史とは彼女は全く違っている。北山さんは本当に病気になっているじゃない方思うほどに病人らしく演じているし、回復して行く時も徐々に徐々にという工夫が見られる。声のか細さ、かすれ具合も言うことなしだ。
描きかけの絵やモデルのベールマンを描くのも実際にわたしが描いた。何しろわたしは画家の娘だし、門前の小僧だから、それはお手の物。
松山君もこれが中学での最後の舞台、最後の役と心に感じているのか、それともベールマンが乗り移ったのか、世に絵らしきものを発表することもない貧しい老画家の最後にちらりと見せる心意気が素晴らしかった。さて、肝心のわたしだが北山さん演じるジョンジーを励まそうと北山さんといる時は元気に快活に少しオーバーかな思えるほど演じ、他の時、医者やベールマンと一緒だったり、一人になった時などは友を思い、心配するスウの気持ちを演じた。今回ばかりはさすがの健太様も掛け声はない。あってたまるか
だ。これからいよいよクライマックスシーンに入る。ベールマンの死を知らせ、目の前にあるツタの葉こそ彼が残した最大の画業だったと知らせて、ジョンジーの肩に手を添えてじっと見つめる最後のシーン、これでこの劇の良しあしが決まると先生は言った。あくまでも自然に、自然が一番とここまで毎日心に言い聞かせて来た。でも自然とは何か、この溢れるベールマンへの思い、感謝とその絵の素晴らしさを伝えたい。私は思わず涙し、絞り出す様な声で「ありがとう」と言ってしまった。北山さんもそれに反応して体を固くして、心の中で泣いているのが伝わってきた。
とその時、「ブラボー」と言う声が上がり、また別の所から「ブラボー」と声が上がる。それからその声が方々から上がると、それは次第に拍手に変わって行った。舞台は暗転した。
会場が静まると松山君が舞台衣装のままで現れ、それに続いて演劇部全員が立ち揃った。
「えー、ご観賞ありがとうございました。明後日はクリスマス、1日早いのですが、この劇には聖夜の歌が一番似合うと思います。先ほどお配りしたプログラムの中に歌が書いてありますので大桐先生によるピアノ演奏に合わせて、みんなで歌ってこの劇を終わらせて頂きます。どうぞ宜しくお願いいたします」
大桐先生のピアノ演奏が流れ、松山君の合図とともに皆の聖夜,きよしこの夜の歌が学校中に大きく響き渡った。
私はあの最初の掛け声は誰だったかと、その中で考えた。沢口君だったのかそれとも武志君だったのか。いや何時掛け声をしようかと手ぐすね引いて待っていた健太様だったのか。それは丁度いいタイミングだった。あの掛け声が無かったら、もしかしたらこの劇の良さは半減していたかも知れない。今度ばかりは、例えその声の主が健太様であっても、大いに感謝しよう。
「あああれは沢口に言われて俺がかけたんだ。今までビデオを撮ってただろう、だから一度も声かけられなかったから、次は受験でいないかもしれないし、卒業していないかもしれないから、最後に一度くらい声かけようと思っていたんだ。でもなんか声を掛けられる雰囲気じゃないし、諦めていたんだ。最後になってなんか、やっと声かけられると思ってやってみたんだ。迷惑だったかなあ」
なんとその日の夜に隣の武志君が白状した。
「ううん、本当にあれ程良いタイミングの掛けはなかったわ、さすがわたしの武志君だわ」
「その後続いたのは健太だけどね、分かった」
「別の方向から聞こえて来たから。多分学年は違っていると思ったけれど‥あれは健太だったのか。彼は何時も掛け声描けるけど、劇の最中に入れられたら、シリアスな劇だから台無しになるとひやひやしてたんだ。でも今回だけは最後まで辛抱していてくれて助かったわ。でも、わたしの事より敦君、凄く演技が上手くなったと思わない?」
「敦があんなに縁起の才能が有っただなんて知らなかったよ、お前の次位上手いと思ったし、友達として誇らしく感じたよ」
「彼はきっとその演技を買われて演劇コンクールの優勝候補の二つのライバル校どちらかに行くと思うし、行って欲しい」
「去年の春には考えもしなかったよなあ。あれを俺の代わりに演劇部に放り込んで大正解だったって事か。瓢箪から駒って、この事だよなあ」
「わたし、入部の時、敦君が真っ青な顔して震えてるの見て、わたしが敦君を守らなくては、と思っていたわよ。それが今ではあなたの後を引き継いで、わたしの塾の送り迎えをして上げるだなんてねえ」
「え、それ初めて聞いたよ。彼奴ももう立派な中学生と云うか大人になったんだな」
武志君の声が何故か少し寂しげに聞こえた。
もう今年も終わり、お正月がやって来る。篠原女史にせっつかれ、去年と同じように大晦日の夜
仲間みんなでイザナギ神社に出かける事が決定した。
「今、去年以上にコロナは流行っているけど規制はしてないし、今後する予定もないらしい」
「一部の報道によればマスクも必要ないとか、ワクチンをやる方が重症化したり、死亡する人が多いとか言われてるけど、どうなるのかしら」
「うーん、マスクは今の所はずせないと思うな、俺達みたいにおしゃべりしてる人間にはさあ」
「そうねえ、ワクチンについてはどう思う?副作用の酷い人が結構多いし、そうでない人でも腕が腫れ上がったり、熱が出たり。私の知ってる人なんか、その後物の味が分からなくなった人もいるわ」
一頻りコロナ談議に花が咲く。
「ねえ、沢口さん、沢口さんは高校、あのバスケの強豪校、西南高校に推薦入学なんでしょ。西南高校に演劇部有るかな、有ったら私もそこ受験するわ、そして勿論バスケットボールを応援するの」
来た来た、篠原女史の沢口攻勢。
「応援するだけだったら別に演劇部じゃなくてもいいんじゃない?」睦美の冷め切った意見。
「駄目駄目、わたし、絶対に女優になりたいんだから演劇部が無くちゃ駄目なの」
「じゃあ他の高校だって良いんじゃないの、そこの高校のバスケ部は怒るかも知れないけど、中学が同じよしみで応援してると言えば、大目に見てくれるわよ」美香の意見。
「でも同じ高校で方やバスケのスター選手、方や演劇部の」ここで篠原女史一回咳払い「方や演劇部の花形部員って素敵な取り合わせと思わない?」
「そうね、花形部員が篠原さんじゃなければ、とても素敵だと思うわよ」
手厳しい千鶴の発言に皆どッと笑う。
「もう、高校に言ったらも少しまともな役やりたいわ」篠原女史、わたしをじろりと見やる。
「御免なさい、そうね中3に成ったら、も少しまともな役回って来ると思うけど」謝る。
「いや、どんな役だって必死でやれば、光るものは光るよ。真理は今までどんな役立って一層懸命に演じて来たんだ。男の旅人やカエルの王子だって、ぴっかぴっかに光っていたよ。だから皆、真理の演技に注目するんだ」
なんとなんとこれは健太様のご意見だ、健太がこんな意見を言うなんて今まで考えてもいなかった。健太も又、大人の扉を開き始めたらしい。
「僕もそう思うよ、どんな役が回って来てもその劇には必要な役なんだから、必死でやればそれは見る者の心を打つよ。谷口君の演技もとても素晴らしかった、今回だけでなくずーとどれも素晴らしかった。僕は何時も感心して見ていたんだ、なあ藤井」
「ああ、敦の演技はピカ一だよ、演劇部に無理やり放り込んだ俺も鼻が高いよ、ハハハ」
当の敦君ははにかんで下を向いてる。
「もうお正月が過ぎれば、3年のあなた方は別々の高校に行く準備期間に入るのね」私が切り出す・
「うん、推薦と言っても、そんな奴がわんさか入って来るから、そいつらに負けないように今から特訓しとかなければ置き去りにされるからな。正月早々練習あるのみ」健太が言う。
「右に同じ!」沢口君。
「私もすぐ特別強化合宿が始まるから二日しか家に居られないの」千鶴も続く。
「俺は受験の為塾がある」武志君がぽつりと呟く。
「体に気を付けて頑張ってね」美香が優しく武志君に声をかける。
「みんなそれぞれに忙しいのね、私達はみんながその場所で未来を見つめ、光り輝いてくれることを願うだけね。いえ光り輝かなくても良いの、その場所で必死に努力し、がむしゃらでも良いから頑張って進んで欲しいと願うだけ、いずれ私も通って行く道だけど」私の言葉が風の音にかき消されそうだ。
「風が強く成って来たね、寒くない?」沢口君が聞いた。
「少し寒いかな、でも大丈夫。みんないるし、もう直ぐ神社につくわ」
「そうよ沢口さんが居たら全然平気」篠原女史。
「私も平気、バレーは中々良い成績上げられないけど、体だけは丈夫になるわ」美香も元気だ。
「この位の寒さで音を上げてたら、スポーツやってられないわ、そうでしょキャプテン」睦美の声。
「ああ、そうだけど、真理と篠原は演劇部だからな、風邪ひいて声が出なくなったら大変だ」昔の健太様からは想像もつかない思いやりのあるセリフ。
「わー、木下さんて優しいのね!」篠原女史感動して声を上げた。
「そ、それ程でも」健太が照れて頭を掻く。
「毎年、元旦は晴れて穏やかな日が多いけど、明日の元旦も良い日だったらありがたいわよねえ」
「塾も直ぐ始まっちゃうから絶対晴れてくれないと困るよ。3日からは真面目に勉強するからさ」
「武志はクラブの推薦は受けないんだって」健太が声を入れる。
「ああ、俺の能力じゃ推薦入学してもさ、先見えてるじゃないか。それより自分の行きたいとこ受験した方が良いと思ってさ」
「色々武志君も悩んだのよね」美香がフォローする。
「あ、あのう、僕、武志君が塾通わなくなったら、真理ちゃんと一緒に塾、行っても良いですか?」
突如の敦君の声に皆吃驚して、一番後ろから歩いていた彼の方を振り返った。
「ああ、そのことは真理から聞いているよ、宜しくな」武志君が笑顔で答える。
「これで藤井も安心して塾の送迎、卒業できるって訳だ」沢口君が笑いながら続ける。
「お、お前が武志の代わりに真理のお供をするって。ふうん、あの弱虫の敦がねえ・・・まあ、お前も成長したもんな、あの地獄の筋肉増強演劇部に入って、ほんとに頑張ったよ。体だけじゃない声も大きく出るようになったし、演技も抜群に旨くなったよ。初めの頃は何時お前がぶっ倒れるんじゃないかと運動場走るお前を見てて心配したもんだ」健太が唸るように言い放つ。
「敦君は弱虫ではないわ、少し慎重すぎで、思慮深いだけよ。それにとても遠慮深いの。いざとなったら何でもやり遂げる、そんな人よ」
これはこれは千鶴ちゃん。千鶴の言葉に今度は敦君が照れる番だ。それに前から感じていたことだが、この二人とても相性が良い、波長が合ってるようだ。
人が段々密になって行く。もう直ぐ、もう直ぐ神社に辿り着くんだ、我々一行も!
続く お楽しみに