19 1センチ先のキス
その時目の前の椅子が大きく動き、心が私の前にどかっと座った。私はぼんやりと顔を上げ心を見る。
「腹減った」
心は私にそう言って、テーブルの上のオムレツを口にする。私はそんな心に向かってポツリとつぶやく。
「それ、ママが作ったの……」
心は何も言わずにオムレツを食べ続ける。
「おいしい?」
「まずい」
私は黙って心を見つめる。まずいと言いながらも心はオムレツを平らげると、顔を上げて私のことをじっと見た。
私は思わず目をそらしたくなる気持ちをぐっと押さえて、どうしても聞きたかった一言を口に出す。
「心ちゃん……本気で私を殺したいと思ったの?」
その言葉に心は持っていたフォークを、私に突き刺すように差し向けた。
「そうだよ。お前がいなければ、母さんは俺のもんになるって思ってた」
キッチンの窓から風が吹き込み、私と心の髪をかすかに揺らす。
心はフォークで私を指したまま、冷たく笑ってこう言った。
「だから俺はお前を殺そうと考えた。学校帰りに誘い出して、川に向かって背中を押した」
心の手からフォークが落ち、空っぽの皿がからんと響く。
「バカだろ?頭悪いガキだよな?」
私は何も言わずに皿の上のフォークを見つめる。
「たとえお前が死んだって、俺を捨てた母親は戻ってくるはずがないのに……」
私の耳に心のかすれる声が聞こえる。心は乱暴に立ち上がると、私を残し歩き出した。
「心ちゃん!」
そんな心に私が叫ぶ。
「それでも結局、ママはあんたのお母さんになったんじゃない!だからホントは嬉しいんでしょ!?心ちゃんホントは嬉しいんでしょ!?」
私の言葉に心が振り返る。
「バカじゃねーの?今さらあいつらがくっつこうが別れようが、俺にはカンケーないね」
「そんなの嘘だよ!」
私は立ち上がり心のそばへ駆け寄った。
「私は嬉しいもん!お父さんができて嬉しいもん!だから心ちゃんだってきっと……」
「俺とお前を一緒にするな!俺はお前みたいなガキじゃねーんだよ!」
心がそう言って私のことを突き飛ばす。私はテーブルにぶつかり、その拍子にグラスが床に落ちて粉々に砕けた。
「心……」
私は目に涙を浮かべて心を見つめる。心は冷たい目つきで、私のことをにらんでいる。
「心ちゃんだって……ガキのくせに……」
次の瞬間、心が私の腕を思い切りつかんで引き寄せた。殴られる……私はとっさにそう思った。
「海ちゃん!」
バタバタと廊下を走る、お父さんの声が聞こえる。
お父さんはキッチンの床に散らばるガラスの破片を見て、心に怒鳴りつけた。
「心!お前、海ちゃんにまた何かしたのか!?」
「してないよ。何も」
心はそう言って私を見る。私はあわてて涙をこすると床のガラスを拾い始めた。
「何でもないの。私がテーブルにぶつかっただけ」
「な?そう言ってるだろ?」
心はお父さんに笑いかけると、キッチンを出て行った。
お父さんは黙ってそんな心の背中を見送った後、ガラスを拾う私に声をかける。
「大丈夫?今掃除機持って来るからね」
そう言って廊下に出て行くお父さんの足音を聞きながら、私は震える手でそっと自分の唇に触れる。
キス……されるかと思った。
心の唇は、私の1センチ先で止まった。