帰ってみれば、こは如何に
「もしもし、私だ。今年の年末は仕事納めの次の日から帰るから。
ここは一人で寒い。家でゆっくりできるのが楽しみだ」
村上浩司は単身赴任先の殺風景な宿舎から自宅の妻の祥子に電話する。
間に合わせのコタツとエアコンしか暖房器具がなく、いつもは暖かい熊本でも冬は冷える。
(電話が終わったら、秘書の小松さんから貰ったお裾分けのおでんをつまみに熱燗で暖まるか。あの人から貰う料理は美味いなあ)
浩司は妻の返事を待ちながら、そんなことを考える。
「ちょっと待ってよ。勝手に決めないで。カレンダーを見るから。
ああそうそう、その日から海外旅行に行くの。
両親と麻里とでハワイに行ってくるわ。
ようやく旅行も行けるようになったし、羽を伸ばしてくる。
あなたは家で寛いでいて。
じゃあそういうことで」
プープーとこちらの返事も待たずに電話を切られる。
あまりにも一方的な電話に浩司は呆れる。
単身赴任も5年目、だんだんと扱いが酷くなる。
最初は時々来訪して家事をしてくれたり、家に帰るとご馳走を作って待っていてくれた。
しかし、年々扱いが酷くなり、昨年末は帰宅早々「いつまでいるの?」と尋ねられ、休みの最後まで居ると言うと、娘の麻里に舌打ちされた上、途中から母娘だけで温泉旅行に行ってしまい、浩司は一人取り残された。
自分の居場所が無くなってきたことは感じていたが、今年は最初から自分を置いて旅行に行くとは。ここまであからさまに無視されると乾いた笑いが出る。
(亭主元気で留守がいいと聞くが、これでは家族と思っているかもか疑うな。ATMもメンテをしないと故障するのを知らないのか。
俺ももう数年で退職。そろそろ本社に帰るかという話もきたが考えものだ。
これまで一緒に家庭を築き、子育てしてきた妻と老後もともに仲良く添い遂げようと思っていたが、これは無理だな)
浩司は、キッチンから温めたおでんと熱燗をコタツに運び、それを口に入れながら考える。
そしてコタツの横においていた封筒を手に取り、ゆっくりと目を通していく。
その顔つきは、職場で見せる鋭い目つきをしている。
派閥争いに負けて、九州支社の社長に格上げの形で左遷されたが、九州でほとんど無名だった会社を売り込み、更に熊本を拠点に韓国、中国、東南アジアに販路を広げ今年は利益のほとんどを稼ぎだすなど、まだ能力は衰えていない。
本社に戻る話も、彼を追い落とした重役陣が、九州支社で独立王国を作った彼を恐れて本社の閑職に連れ戻したいという意向だ。
彼はさてさてと考えながら、封筒の中の書類や写真を熟読する。何度も目を通し熟知した内容だが、それを確認して自分の取るべき行動をよくよく考える。
「引退して夫婦で世界旅行や温泉三昧もいいかと思ったが…
まだ好々爺になるには早いということか。
俺を舐めた奴らには目にもの見せてやらないとな」
浩司は腹が満ちて、身体も温めると何箇所かに電話をする。
「村上だ。勧められていたあの件だがそれに乗ろうと思う。
どう進めるか相談したい」
「村上です。
頂いた報告書を拝見しまし、驚きました。
それで考えましたが、あなたと手をくむことにします。
では、弁護士も共同で。
こちらこそよろしくお願いします」
一通りの連絡が済み、浩司がこたつで寝転がり、見るともなく古びたテレビを眺めながら、思い出す。
若い頃に仲間と起業して会社を立ち上げてからガムシャラに働き、やりがいを持って会社を急成長させた。
祥子とは、営業活動で書類を落としたときに彼女が届けてくれたのが切っ掛けで付き合い始め、結婚した。
若い頃は会社も危なくて給料も安く、貧しかったが家族でお金を使わずにあちこち出かけて楽しかった。
日常生活でも妻は工夫して美味しいご飯を作ってくれ、俺も机や椅子などを手作りで作って、その不格好なものを笑いながら使ってくれていた。
二人の子育てにも頑張り、無事に大学を出して就職させた。
しかし、会社も大きくなって俺の地位も上がり、金と時間に余裕が出た頃から妻も娘も変わり始めた。
「貧苦は共にできても、富裕は共にできないか。
まさにうちの夫婦だな」
そんなことを考えて黄昏れていると、電話が掛かってきた。
取ると、馴染みの小料理屋のママからだ。
「村上さんが来ないと盛り上がらないわ。
美味しい家庭料理を作って待っているから」
電話からは知り合いの単身赴任や独身などの寂しいオヤジどもの笑い声や、コーちゃん待ってるぞという声が聞こえる。
「一人で落ち込んでいるより、ママや悪友と呑んでいる方がましか」
電話を切って浩司は、思い出せないほど前に妻に買ってもらった、繕いのあるジャンパーを着込んで出て行く。
さて、年末休みに東京の自宅に帰ってきた浩司は、家の中に入り散らかし放しの状態を見て、やっぱりなと呟く。
せめて大掃除がされていて、おせちや年越しそばの用意などがあれば考え直すつもりもあったが、ダイニングの食卓の上に書かれていたメモを見てその考えは無くなった。
『年末年始は時間があるでしょうから、大掃除をお願いします。
特に、キッチン、トイレ、バスルームなどの水回りは念入りにしてください。
その他に……』
メモには妻の字で細かい指示が並ぶ。
次には娘からだ。
『私の部屋も掃除しておいて。
私物に触ったらコロス。
私の車の洗車とメンテもやっておいて』
「馬鹿か。
俺が住んでないのに何で俺に掃除をさせる。
まあいい。掃除をしたくないならもう掃除の必要もないようにしてやろう」
浩司は不動産屋に電話をして呼ぶと、あれこれと指示をした。
その後、色々な人に会って話し、多忙な年末年始を過ごすと、熊本に帰っていった。
さて、年始の休みもとうに過ぎた中、飛行機から老夫婦と中年女性と若いOL風の女性の4人が降りてきた。
「ハワイは良かったね。
でもお金まで出して貰って良かったのかい」
老婦人が心配そうに言う。
「あの人のボーナス凄いけど、朴念仁でお金の使い方を知らないの。
この旅行でボーナスを全部使ってあげたわ。
使い道もないから使ってあげた方がいいでしょう」
満足そうな顔をして妻の祥子が宣う。
「そうよ。
お父さんなんか無趣味でつまらない人なんだから。
お母さんもよく結婚してあげたわ。
お金ぐらい好きに使わせてもらっても当たり前よ」
娘の麻里も尻馬に乗る。
彼女は勤めているが、自宅に同居し食費も出さず、給料はすべて小遣いという優雅な生活をしている。
オマケに、それでも足らないのか、よく母と買い物に行って、高価な服やアクセサリーを買ってもらっている。
「じゃあ荷物も多いし、タクシーで帰りましょう」
空港のカフェで一休みした後、レジに行きながら祥子が言う。
ピーピー、クレジットカードが残高不足を示す。
「あれ、不足なんかしたことがなかったのに」
dayPAYもチャージできない。
「おかしいわね。システムエラーかしら」
首をひねる祥子だが、現金が出てこない。
「何をしている」
老父が現金で払った。
「金が払えないのではタクシーは無理だな。
電車で帰ろう。
祥子、無駄遣いが過ぎるぞ。
浩司君に申し訳ないだろう」
老父が叱責し、渋々電車で帰ることになった。
「なんでタクシー使えないのよ!
ハァハァ、ようやく懐かしの我が家か。
お父さんにしては珍しく、あの家は良いところを買ったよね」
麻里が大荷物を持ち息を切らせながら、家に近づいたところで言う。
この家は会社が成功してから、浩司が苦労をかけた妻のためにと、一等地の広い土地を買い、名の通った建築家に妻や子の希望を聞いてもらって建てた豪壮な邸宅である。
もっとも浩司はそれから単身赴任となり、ほとんど住んではいないが、母娘はこの家を大いに気に入り、親戚や友人を呼んでは自慢していた。
「あれっ」
一番前を歩く祥子が変な声を上げる。
その自慢の家にトラックが止まり荷物を入れている。
「クソ親父、私らの機嫌取ろうと何か買ったのかな。
センスないからお金だけ出せばいいのに、勝手なことをしないで欲しいわね」
麻里が文句を言うが、家具の一つとかではなく、家財道具を搬入しているようだ。
「ちょっと、人の家に何をやっているんですか」
祥子は荷物の搬入を指示している男に喰ってかかる。
「何って、この家を買ったから引っ越しているんだけど」
男は怪訝そうに言う。
「買ったって、ここに村上とあるでしょう…」
と言いかけて表札を見ると、田中という表札になっている。
あれっと祥子と麻里が顔を見合わせている間に、男は、そう言えばクレーマーが来たら電話してくれと言われてたなと呟きながらどこかに電話をした。
「今から事情を説明するそうなので、そちらに聞いてください。
私はもうお金も払い込んているので妙なイチャモンはやめてください」
男は迷惑そうに言うと、引っ越しの続きを再開した。
呆然と立ち尽くす祥子の携帯が鳴った。
「もしもし、お袋か。大輔だ。
帰ってくるのは今日だったけ。
色々と話をしなきゃならんから今からそっちに行くよ」
長男の大輔だ。
彼は父親を尊敬して、同じ会社に入って働いている。
もう独立しているし、父親の悪口を言うと怒り出すので、近頃は会っていない。
「ちょっと待ってよ。
何で家が売られているのよ。
お父さんはどこ?」
「とにかくそっちに行って話すから。
そうそうカードなんか全部止めたから使うなよ。
ああ面倒くさいなぁ」
長男からの電話が切られる。
かけ直すが、もう出てくれない。
仕方がないと大荷物を置いて待っていると、程なく車がやって来た。
言われるがままに乗り込むと、暫く誰も口を開かずに無言のまま大輔が運転する。窓の景色は上流階級の豪邸地域からどんどん離れて下町のゴチャゴチャしたところを通っていく。
「どこへ行くのよ!」
祥子の心の中は疑問と不安と怒りで一杯だ。
「お待たせ。
爺ちゃんと婆ちゃんはどうする?
ここからは家族の問題だし、楽しい話じゃないからもう帰ったら」
大輔はそう言いながら、下町の単身赴任者や若い夫婦用の安っぽい賃貸マンションに車を着ける。
「そういう訳にはいかん。
儂らも聞かせてくれ」
祖父は頑なにそう言って聞かない。
大輔は仕方なさそうにその中の一室に案内する。
いかにもありきたりのマンションに、これまで使っていた立派な家具が配置されているが、いかにも似合わない。
「ここに入らなかったものは貸倉庫に入れてある」
大輔が淡々と言うが、祥子と麻里は柳眉を逆立てて、早く説明しなさいよと怒鳴る。
「わかったよ。
そもそもお袋は、なんで親父を旅行からハブしたの。
親父の金で行って、親父は連れて行かない。
意味わかんねえ」
「それは…」
祥子は答えられない。俯いて黙り込む。
「じゃあ言ってやるよ。
アンタ、旅行先で不倫相手と会っていただろう」
「えー」
祖父母が驚くが、そう言えば旅行中に友達が来ているので会ってくると、度々単独行動していた事を思い出す。
「そりゃ不倫相手と逢引していたら親父は連れていけないよな。
麻里、お前、高い服と引き換えに知っていて黙っていたよな」
妹の麻里は黙り込んで目を合わさない。
流石に悪いこととは思っているようだ。
「嘘よ、なんでそんなこと言うの」
身体を震わせながら言う祥子に、大輔は写真と書類を渡す。
「全部興信所の報告書が来てる。
向こうの奥さんが感づいて親父に連絡してきたそうだ。
高校時代の恋人だってか。感動の再会か知らんが、付き合うなら離婚してからにしろよ。
親父が汗水流して稼いだ金で不倫相手に貢ぐな。
相手のオッサンは自称トレーダーとかユーチューバーという名のクズの無職だろう。カッコだけつけて何人も女を引っ掛けていて、奥さんも愛想が尽きて離婚するそうだぜ。
お袋もそんな相手にハワイ旅行の金まで出してやって、そりゃ楽しかっただろうよ」
吐き捨てるように言う息子に祥子は何も言えない。
バシッ、祖父が立ち上がり、祥子の頬を張る。
そして涙を流し「何という恥さらしな。浩司くんは儂らに本当に良くしてくれたのに、どう謝ればいい」と怒鳴りつける。
「爺ちゃん、時間ないしここでは止めてくれ。
これでわかっただろう。後の話は簡単だ。
親父はもうこっちには帰ってこない。
左遷してくれた会社も辞めて、熊本で会社を立ち上げて、そこに永住するそうだ。
家も親父の金で建てて、親父の名義。未練もないから売ったってさ。
俺も賛成したよ。
数え切れないほど不倫相手を連れ込んでいた家、俺も足を踏み入れたくない」
怒る価値もないということか無表情に続ける大輔。
「何を勝手なことをしてるの!
アタシの家でもあるんだよ」
麻里が気色ばんで言うが、大輔は取り合わない。
「お前、もう働いているんだろう。
家を出て自分で暮せよ。あれは親父の家だ。
いつまで親のスネを齧ってるんだ。
長期休みに親父が帰ると、露骨に嫌な顔して早く出ていけと言ってたらしいな。
オマケに、親父の退職金出たら、麻里の友達を使って親父を誘惑し、浮気の証拠作って、金を毟って熟年離婚するんだってな。
お袋の不倫相手が愛人のホステスに、これで大金が入ると言ってたそうだ。
最低だな」
「それは冗談よ。
あの人が単身赴任から帰ってくれば大事にして労ってあげるつもりだったわ。
今回のハワイ旅行も、もうすぐ戻るから最後の息抜きのつもりだったのよ」
「そうよ。
悪口だって親子のじゃれ合いよ。
そんな本気で取らなくてもいいじゃない」
母娘は口々に自己弁護する。
大輔はそれを聞いて、腹が立ったのか顔を紅潮されて立ち上がる。
「他の男といちゃついて身体を許した女の言うことを誰が信じるか。
麻里、お前のやったことも限度を超えていると思うぞ。
親父は顔も見たくないそうなので、俺が代わりに言っておく。
お袋、離婚届に判を押して提出しておいてくれ。
嫌なら裁判だが、嫌というくらい不倫や家事放棄の証拠があるぞ。
今離婚を承諾すれば、それと引き換えに財産分与の金がそちらの口座に振り込まれる。
もっとも慰謝料分とハワイ旅行とか自分の贅沢分は引かれているけどな。
そうそう、俺も親父と一緒に退職して、親父の会社で働くことにした。
お袋や麻里はつまらない人と馬鹿にしていたが、親父の仕事ぶりは凄いぞ。
俺だけでなく、若手の有望な奴らが尊敬して、あちこちから集まってきている。
親父を冷遇した会社の経営陣は真っ青だ。
つまらない男と馬鹿にするアンタ達は知らんだろうが、親父の様子を見に行ったら、遊び仲間がたくさんいて生き生きしていたし、秘書のお姉さんや美熟女の小料理屋のママが狙っているようだったぞ」
そう言うと大輔は出て行こうとするが、何か思い出したのかこちらを向いて付け加える。
「お袋、クズの奥さんがアンタに慰謝料要求するそうだぞ。
クズも行くところもなく頼ってくるようだから、そんなに好きなら何人か女付きだが再婚して養ってやれよ。
それと麻里、お前の彼氏の明くんも親父の会社に転職するぞ。
あいつ、親父のこと尊敬してたし、お前の態度を話したら、怒って別れると言ってたよ。
また連絡が来るだろう。
あと、これは家族だったという記念品。
親父がこの休みに写真を整理して作ってくれた。
妻と娘はこのアルバムの後に事故死したと思うと言ってたぞ。
俺も同感だ。
じゃあ知らないところで元気に生きてくれ」
トートバッグからアルバムを2冊出すと、本当に大輔は立ち去った。
祥子と麻里はあまりの急展開に止めることもできない。
二人の携帯が同時に鳴る。
表示されたのは、大輔が予告していた相手で、内容もそのとおりだった。
長い電話がケンカ別れとなり、気がつくと祖父母はボーとしながら、大輔が残していったアルバムのページをめくっていた。
浩司と祥子が付き合ってすぐの頃から、結婚して、子供が生まれて幼かった頃。
貧相なアパートの前で、安い服を着ながらも、本当に幸せそうな顔をして笑っている。
浩司が祥子と手を繋いでポーズを決め、大輔とキャッチボールし、幼い麻里を肩車している写真を見ると、思い出さなかった昔の懐かしい思い出が蘇る。
(最初は少ない給料でもあの人に感謝してたのが、ある時から大金が入ってくるようになって今まで手が届かないと思っていたものを手に入れて、遊びを知らない夫がダサく思えてきて、馬鹿にして、カッコいい恋人を作って)
今思い出すと信じられないことをしてきた。
そのアルバムの写真は十年近く前で止まっている。
浩司の仕事が成功し、豊かになって家を建てた頃からか。
最後の写真は新築の家の前で家族で並んでいる。でも着ている高価な服と対照的に笑っているのは浩司だけだ。
妻や娘の沢山の注文に応えて無事に家を建てられたとホッとしている。
祥子も麻里も何が気に入らないのかブスッとし、大輔は関心なさげな顔つき。
このあと、村上家の家族写真はなくなり、遂に家族崩壊に至った。
「あなた、ごめんなさい」
「お父さん……」
アルバムを見て、縁切りされ、もう家族と呼べないことに実感が湧くと、祥子と麻里は泣き始めた。
なんだかんだと困ったときに助けてくれる存在はもういない。
泣き声の中、気づくと声がする。
祖母がか細い声で何かを歌っていた。
「昔々浦島は、助けた亀に連れられて〜
帰ってみれば、こは如何に、
元居た家も村も無く、
路に行きあう人々は
誰も知らない者ばかり
〜
中からぱっと白煙
たちまち太郎はお爺さん」
ハワイから帰国して、家もなくなり、家族も失い、この話が広がれば親戚や友人もいなくなるだろう祥子にこの歌は効いた。
そして、この数時間の精神的ショックで一気に老けた気がする。
涙も止まり、残るのは後悔ばかり。
(浦島太郎もこんな気持ちだったのかしら)
祥子はそんなことをふと思った。