ラジオの時間です
午後九時になるとタケルはラジオの電源をいれた。
それがここ最近の日課になっている。
ノイズに混じって足音が聞こえる。
ひとりのようだ。
「今日ははずれか」
タケルは呟くとスマホに目を落とす。
電源を切るつもりはない。
なんらかの事情で遅れているだけという可能性も捨てがたい。
リサイクルショップでラジオを買ってからタケルの生活は変わった。
今のアパートに引っ越してきたのは一週間前である。
建築基準法違反が露見したとかで前のアパートを追いだされた。寝耳に水である。耐震強度に問題があったとのこと。壁の厚みは問題なしというほうが驚きであった。
それで、大家が所有する別の物件に引っ越すことになったのである。
実質、寝るためだけの部屋だったから荷物は少ない。
引っ越しは午前中にすんだ。
独身者向けのアパートなのでわずらわしい挨拶はいらない。
そのリサイクルショップを見つけたのは、昼食を無難にチェーン店ですましてから、まっすぐ帰るのも芸がないと近所をぶらついていていた時であった。
個人経営の小さな店である。
店主も相当な年季ものだ。
ガレージみたいな内装で天井が高かった。
そこでタケルは結婚式の引き出物らしい食器とFMラジオを買った。
ラジオは衝動買いである。
なぜ、うっすらと埃を被ったそれに惹かれたかは今となっては不明だ。
タケルはラジオに関心が薄い。ラジオは美容院の待ち時間に軽く耳を傾けるだけである。それに、聞きたければスマホのアプリがある。
特段、デザインが優れていたわけでもない。
魔がさしたとしかいいようがなかった。
アパートにもどると動作確認でラジオの電源をいれた。
クラシックが流れてきた。
小さなスピーカーだけあって音質はいまひとつであった。
とはいえ、せっかく買ったのだから使ってみる。
ラジオだから音楽番組が多い。
音楽のある生活はいいものだ。
強くなければ生きられない、音楽がなければ人生に彩りがない。
じぶんでは、まず、選ぶことのない曲との出会いがある。
おかげで歌のレパートリーが増えた。
演歌に詳しくなった。これは、後々にタケルの強みとなる。
それまでは偏見でアニメソングは避けていたが──つきあいで行った某遊技の金の溶ける苦い記憶がフラッシュバックするからだ──ちゃんと聞けば名曲があることをしった。
不思議なもので、耳に馴染んでくると古めかしい音が味わいに覚えてくる。
芸人のバラエティー番組と違う顔も新鮮であった。
下品極まりないリスナーとのやりとりにタケルは腹を抱えた。
新しい楽しみを見つけたのは三日後である。
クラシックに飽きて他のチャンネルにしようと調整していると──古いラジオなので手動である──雑音とともに生々しいが声が耳朶を打った。
それは、女性の矯声であった。
かすかにだが男の声もする。
濃密な淫気にあてられてタケルは身動きできずにいる。
予想だにしない展開に思考が追いつかない。
いつのまにか正座して拝聴していた。
ラジオ番組が男女の絡みを放送するはずがない。
酔ってはいたが、缶チューハイ一本である。幻聴の線は薄い。つきあっている女性は今のところいないが、趣味の話をするくらいの異性はいる。距離を詰めている最中で現実と妄想の区別が付かなくなるほど逼迫はしていない。
心霊現象?
幽霊の仕業?
まさかね。
タケルは首を横に振る。
連中は夜は峠で運動会のチンピラと同じだ。
破裂音で登場をしらせてくる。
ひとり暮らしのタケルを憐れんで歌ではなくあえぎ声をだすサービス精神があるなら、魂魄この世にとどまりてと怨みごとなどいわず、今頃はニライカナイだか天の高みで白い粉の常習者もかくやの瞳孔開きっぱなしの惚けた面で老人ホームで歌うような歌を合唱しているはずだ。
十分ほどして正気にもどったタケルはラジオの電源をオフにするとスマホを手にした。
手が震えていて操作に手間どったが、謎そのものはすぐに解明した。
幽霊の正体見たり枯れ尾花である。
それは数十メートルから百メートル圏内の生活音であった。
盗聴機である。
FMラジオの周波数を利用するものがあるとのこと。偶然、拾ったというわけだ。今現在、広く流通している盗聴器はもっと高い周波数のVHF、UHFというから年季のはいった品らしい。ここいら一帯は独身者向けのアパートやマンションが多い。もしかすると現在の住民を狙ったものではないのかもしれない。悋気の深い恋人あたりが仕掛けた遺物が─電源タップあたりに擬態したそれが──健気にも役目を終えてなおプライバシーを侵害しているとしたら迷惑千万な話だ。
「今晩、どうだい?」
ひとりたりなくなってね、と同僚がグラスをあおる仕草をする。
「相手は看護師らしいぞ」
「悪いがちょっと」
「おや、看護師は好みじゃなかったか」
「服が持ち帰れなきゃOLと大差ない」
「たしかにペラッペラの衣装なら誰でもいいわな」
同僚が苦笑する。
「最近、つきあいが悪いが彼女でもできたか?」
「どうおもう?」
「質問に質問で返すなと面倒くさがりならいうところだが──いろいろと助けてもらった恩があるしな、いいぜ、つきあってやるよ」
そうさな、と同僚が顎に手を添える。
「幸せいっぱい胸いっぱいには見えねえな。さっさと帰って寝たいって面だ」
「しけた面だとはっきりいわないだけ感謝するよ」
「感謝はランチの時にでも形にしてくれ」
「金欠でちょっとした副業を始めたのさ」
「そいつは、おれでもできそうか?」
「服のとれたボタンを縫いつけるくらいの腕があれば、あるいは」
「後でかわいい女とのツーショットを送って悔しがらせてやる」
「健闘を祈ってる」
タケルは席をたつ。
スーパーに寄って溜まりに溜まった小銭をセルフレジに突っこんで財布をスリムにするとタケルはアパートにもどった。
手間だとばかりにエコバックごと冷蔵庫に缶ビールとつまみをしまうと息せききってラジオをつける。
足音が飛びこんできた。
それは軽快であった。
鼻歌にしては大きな声が聞こえる。
最近になって音楽が身近になったタケルにしるよしもないが、ここ数年、不振続きのテレビのなかで珍しく気を吐いた──映画化してそれもDVD販売や動画配信サービスの助けを借りる前に黒字となった──ドラマの主題歌であった。
「ナースを袖にした価値はあったか」
読みがあたったことにタケルは気をよくする。
なんどか聞いているうちにわかったことがある。
部屋の借り主は女性で意中の男とは道ならぬ恋にあるらしい。
その憑拠に、ことがすむと男は日付が変わる前にそそくさと退散する。
くるのは平日。特に水曜日──つまり、今日が頻度が高くて祝日はなし。
前にも書いたがここら一帯は独身者向けのアパートやマンションである。成金が金にあかせてクラブのホステスや自社の秘書や受付嬢を玩弄する場にはせせこましいから、手練手管で丸めこんだ口であろう。
要するにスケコマシである。
洩れ伝わる男の声は粘ついたものであった。繁華街でよく耳にす女を経済動物扱いする者のそれである。人品の賤しさが滲みでていた。
同性ならあたりさわりのない世間話に終始するか、欺瞞作戦に備えてどうでもいい小ネタを与えて飼い殺しにするかの二者択一である。
タケルは女に少しだけ同情する。
粗雑に扱われることをワイルド──男らしさと錯覚したか。
ありふれた悲劇である。
掌中の珠であれば丁寧に扱っている。マイクロファイバーの手袋が億劫と素手で掴める者はそれを路傍の石と見なしているにすぎない。
タケルは時間を確認する。
「先にひとっ風呂浴びてくるか」
バスタブに栓をして湯をはる。
予定通りだと男がくるのは三十分後である。
始まるのはそれからさらに三十分後だ。
始まる十分前にもどれればいいのだから時間は充分にある。
そこらあたりから睦言が始まる。
タケルは過程を大事にするタイプである。
喘ぎ声が聞きたいだけならFBIの警告から始まる動画を提供するサイトにログインする。なぜか河原に転がる、湿気で波うった雑誌に心ときめく坊やじゃあるまいし、ノイズまじりの低音質なそれに拘泥はしない。
ちなみに他人の生活を覗き見ることへの背徳的な喜びはあっても罪悪感はなかった。
不特定多数に発信している電波を、偶然、拾っただけである。
文字通り、ラジオ感覚であった。
汗を流してさっぱりするとタケルは冷蔵庫を開けた。
エコバックのなかの缶ビールを手にすると部屋にもどる。
金切り声にタケルの眉根が寄る。
じぶんが罵られたような感覚に首が引っこんだ。
それだけ女の発する言葉は鋭く、心を抉るものであった。
状況は一変していた。
ラジオから伝わる雰囲気はこれからおっ始める男女のそれではなかった。
やはりというか、無理が祟ったか。
そして、終わりは唐突であった。
禍鳥のような声がタケルの耳朶を打った。
遅れて肉の潰れる音がした。
なんどもなんども執拗に。
重くて固いものを男めがけて振りおろしているようだ。
盗聴器──おそらく、電源タップに擬したそれの近くで惨劇は繰り広げられているのであろう。男の次第に弱っていく呼吸音が生々しかった。
悲鳴がでそうになるのをタケルはかろうじてこらえる。
犯罪者がゴミだしの時にたまに顔があって会釈する──同じアパートの住民かもしれないのだ。うかつな自己アピールは身を滅ぼす。
スマホに手をかけて──離れた。
盗聴していたなどいえるはずがない。
殺人事件は大事だ。誰もが鵜の目鷹の目で真相を探る。通報のきっかけが盗聴であると露見したら──損失ははかりしれない。
タケルはラジオを消した。
そっと部屋を抜けだした。
無性に人が恋しかった。
残念ながら頼れる友人は電車で一時間の距離である。
ひとりでいるのが耐えられなくて、ネットカフェに避難した。
睡魔など湧くはずもなくオープン席でダラダラと漫画を読む。
今日ばかりは九九が六の段でつかえる連中の、根拠はないが自信に満ちた、ウエハースより薄っぺらい会話がほほえましかった。
もっとも、バカ騒ぎを瞑目する店員には苦虫を噛み潰したが。
不思議としかいいようがない。
あれからネットやニュース番組を注視していたがそれらしい報道はなかった。
当然、パトカーがかまびすしく列をなしてくることもない。
夢でも見ていた気分である。
女がうまく処理したというのか?
わからない。
なにかの本で読んだが死体の隠蔽は大変だ。まず、重い。女の細腕でならなおさらだ。捨てる場所も問題だ。車で辺鄙な場所へ運んだとして埋める場所がない。荒れ地は守口大根の畑とは違う。土が固い。ひと晩で充分な深さの穴を掘るのは、バンダム級のボクサーがヘビー級と戦ってノックアウトする確率に等しい。
適当に土を被せてごまかせば野生動物に荒らされてすぐに露見する。
過去にくだらない理由でクズがクズを殺して高架下に捨てたケースはそれで犯人逮捕となった。死体さえ見つからなければ、いなくなってせいせいするクズである。誰も安否など気にかけず完全犯罪が成立していたかもしれない。
タケルはおそるおそるラジオをつけた。
耳にこびりついて離れない肉を断つ音を聞いた三日前と同時刻である。
もしかすると、盗聴器の存在に気づいたふたりがただ撤去するだけでは腹の虫がおさまらないとひと芝居うった可能性がある。
そうであってほしかった。
淡い期待ははかなく露と消える。
タケルは糸の切れた繰り人形のように崩れ落ちた。
盗聴器は生きていた。
声が聞こえる。
「聞こえてるんでしょう、聞いてるんでしょう、聞こえてるんでしょう、聞こえてるんでしょう、聞いてるんでしょう、聞こえてるんでしょう」
抑揚の乏しい声が壊れたレコードのように繰り返す。
「余計なことはしないで。死体なんかないんだから。おとなしくしてなさい。もし、変なことしたら殺す殺す殺す殺す殺す殺す……」
タケルは忍従の時をすごした。
夜更かしはやめて、家飲みは控えて、なるべく階段は歩くようになった。
調息を──仙道の呼吸法を意識して心の安寧をはかる。
身を守るためだ。
どこに犯人の目があるかわからない。神経内科から処方された睡眠導入剤と半夏厚朴湯のチャンポンが見つかったら──他人の恋路を盗み聞きした報いで心が病んだと見なされる可能性がある。それまでのタケルは病気しらずだ。それが短期間で弱ったとなればベイカー街の探偵ならずとも疑念は深まる。
どうやったのか定かではないが、人ひとりを秘密裏に処分できるのならついでにタケルを殺ることにためらいなどあるまい。
傍証がある。
例の日から一週間ほど経った頃に探偵が訪ねてきた。
向かいのマンションの男性が行方不明になったとのこと。
晴天の霹靂で端緒も掴めずにいるらしい。
だから、一縷の望みを託してタケルに訊いたのだ。
成人男性の失踪それ自体はどうでもいい。
年間の失踪者は三万人をこえる。
順風満帆なように見えていて、なにか大きな闇を抱えており──周囲から見れば些末なことでも当人には耐え難い揉め事であったという線もある──なにかのきっかけにすべてを捨ててやり直したくなるのは往々にしてある。が、しかし、オーディオマニアでいろいろと機材を揃えていた。ある日をさかいに急に顔色が悪く人付き合いを避けるようになったという情報があると話は変わってくる。
情報の入手元は朝食が食べたくなった時に行く、近場の喫茶店の常連客たちである。不快な輩がネットに出没すると正義の鉄槌をくだすべくたちあがり、公開されている情報をもとに荷物でいっぱいのベビーカーを押しながら疑われることなく住所を探すのは、案外、彼女たちのような人物なのかもしれない。
契約更新という大義名分を得ると満を持してタケルは転居した。
見あげた空と同じく晴れやかな気持ちである。
通勤時間が長くなってしまったがそれは苦にならなかった。
違う路線になれば生活圏はガラリと変わる。
犯人と会うこともないだろう。影に怯えることもない。
無論、口外する気は毛頭ない。ダース単位であるささやかだが赤面ものの恥とともに墓場まで持っていく腹だ。
これは怪我の功名だが、同僚の誘いで飲みに行くと女性陣のうけがいい。
節制した生活のおかげで健康である。
することがないのでストレス発散と通販で買ったダンベルを部屋でしゃかりきに、二年間、持ち上げていたので見てくれが向上している。
街が昼の顔から夜の装いになるや早々にきこしめして一日を締めていたタケルにとって、夜の静寂は驚くほど長く、退屈なものであった。
もし、夜空が藍色ではなく本来の色をとりもどしていたら星座にはまっていたかもしれない。孤独は人を強靭にも繊細にもする。もっとも、その時は夜道を歩くのは怖いから小さな窓から天を覗き見る、浪漫とはいいがたい観賞になるが──。
今回も女性うけはよかった。
相手は取引先のOLである。
「おまえがこないとはじまらないんだよ」
同僚が唇をとがらせる。
こいつのどこが誠実そうに見えたんだか、というのは負け惜しみだ。
向こうのたっての希望でセッティングすることになったらしい。
タケルにひと目惚れした女性がいるということ。
「うまくいったら、今度こそ感謝を形にしろよ」
なんども力強く肩を叩く同僚にタケルは顔をしかめた。
──そういう次第でふたりの世界に口を挟む者はいない。
会話は弾んだ。
馬があった。
趣味が一致した。少女漫画は置くとして、それ以外のジャンルは似通っている。漫画が高じて釣りにはまった稀有な経緯も一致した。キャンプもそう。
さっそく、週末に湖畔でキャンプする運びとなった。
ご都合主義のラブコメもかくやの、驚くほどの急展開にタケルは狐につままれた気分である。
ギャンブル依存症のいうところの功徳を積む──アパートの前のゴミを拾ったり、両手が荷物で塞がっている人に代わってエレベーターのボタンを押したりと、目だたないていどに発露した二年ぶんの親切心が実を結んだか(カラスに挨拶すると襲われなくなるように、人当たりをよくしていれば、もし、犯人にバレても躊躇するのではないかという打算である)。
「ちょっと失礼します」
席をたつ彼女をタケルは見送る。
軽い足どりにやや茶色がかったセミロングの髪が揺れる。
好みの髪型である。
ライダースジャケットとプリーツスカートの組み合わせもそう。
無論、容姿も気にいっている。
天上におわす神がタケルの理想にあわせて遣わしたかのような女性であった。
「後でランチでも奢ってやるか」
感謝と慰撫で──。
泣き腫らしたみたいに目の縁が赤い女を果敢に攻める同僚を見てタケルはしみじみと決意する。
恋は盲目とはよくいったものだ。
火中の栗を拾って火傷する悪癖をぶり返している。
女の左の袖から垣間見る大ぶりの絆創膏がなにを意味するものか。
──他人の恋路に構っている暇はない。
タケルは笑みを浮かべる。
彼女がもどってきた。
紅唇が小さく動いている。
隣のテーブルの学生らしき集団が騒々しくて聞きとれなかったが彼女は鼻歌を歌っていた。それは映画化もした人気ドラマの主題歌であった。
ホラーは不条理な話が好きです。
因果関係がはっきりとした話は他人事におもえて感情移入がしにくいんですよね。