ざまあ・チートを含んだ主に男性向け作品はどうすれば面白さを維持できるのだろうか考えてみた。
以前に書いたエッセイの”実際の所ざまあはかなりの諸刃の剣だと思う”の感想にてですが。
「主人公の力を最強にインフレさせすぎてしまい、固有の特徴や弱点による緊張感を持たせられない」
「キリの良いところで終わらせられず、ダラダラ続けてしまう」
「ざまぁ固有の問題というより男性向けなろうチートの大半に共通する問題って思いますね」
という感想があり、なるほど確かにと思ったので、じゃあどうするべきかということを考えたものをつらつらと書いていこうと思います。
まず、ざまあに関して言えば、物語冒頭におけるテーザーに利用し、主人公に対していじめなどに対する、加害者への仕返しは早めに行ったほうがいいのではというのが私の結論ですね。
なおテーザーというのはアメリカのテレビドラマの4幕構成における、第1幕の前に視聴者の興味を引くための前振りで、teaserは”いじわるする人””じらす人”という意味のようです。
映画や劇などは一度それを見始めた場合に、冒頭が少し退屈でも映画館や劇場を出てしまう人はあまりいないでしょうが、テレビドラマの場合は冒頭がつまらない場合は、すぐさまチャンネルを変えられてしまうので、それを防ぐための手法が、冒頭にテーザーを入れるのだそうです。
なろうにおいても、冒頭で読者をひきつけないと即座に読まれなくなるので、そのためにテーザーの手法としてざまあを用いるのは有効でしょう。
勿論、ざまあでなくても、現実世界では社畜やニートだったりする陰キャが、異世界転生や転移などでチートな能力を手に入れて、周りから認められるでもいいのですが。
結局のところ冒頭で不快と感じる感情を、即座に快に転じさせるのは、間違いなく有効な手法だといえます。
それから物語を作る時には全体としてジョセフ・キャンベルの単一神話やアメリカのテレビドラマの4幕構成のように
1・日常生活を送っている主人公が、“事件”に遭遇し非日常に突入する。
この時に物語の主人公が誰なのか、その主人公の目的は何なのか、主人公はどういうことが得意で、そういうことができるのか、物語が展開する舞台や世界観はどのようなものなのかといったものも示す必要はありますね。
2・主人公が知識やスキルや経験、能力などを生かして事件の対処に乗り出し解決する。
3・しかし、主人公が事件を解決したように見えたが、実際には状況は悪化しており、主人公はどん底に突き落とされる。
たとえばドラゴンボールでのフリーザの変身によるパワーアップなどですね。
2と3は読者に主人公の成長を納得させるために試練が与えられると考えても良いかとおもいます。
また、アメリカドラマにおいて、2と3のようなシーン転換にはCMが入るので
「事件は解決したはずなのに、何かがおかしい。
何か見落としていないか?」
のようなクリフハンガーをシーン転換前にちらっと見せておいて冒頭のテーザー同様に、CMの前に視聴者の興味が離れないようにするようなことを応用するのがよいかなとも思います。
4・主人公はやがて真の解決法を見いだし、事態は収束し日常に戻れる。
事件そのものは”主人公の成長”を促すために必要な”通過儀礼”であり、日常から非日常に一時入り込むが、最終的には日常に戻るのが基本です。
そして全体のストーリーの中にさらに入れ子的な構造として、4幕構成を入れ込んでいくことで、段階的に成長を積み重ねていくようなのが本来の物語なのでしょう。
鬼滅の刃にせよ、ドラゴンボールにせよだいたいはこんな感じで話は進んでいったはずなので。
女性向けローファンタジー恋愛っぽい作品では、鬼の花嫁という作品がこのパターンをうまく使ってるように思います。
そしてここできちんとした試練と、それを乗り越える主人公を示さなければ、読者は成長に納得できないのですが、最初に最強チートを得てしまうと、それ以上の成長が得られないのですね。
なんせ試練が試練として機能しないので、読者的には意味がないヘイトシーンだけ見せられることになるので。
その点をうまくクリアしているなろうの作品は”転生したらスライムだった件”なのかなと思います。
また、バトルものにける全体的な物語の最後において、日常(一般社会)に戻るためには指導者がいることも大事かなと思います。
ドラゴンボールの亀仙人は主人公の孫悟空に修行をつける際に
「さて、やっと我が亀仙流武術の修行を始めるわけじゃが、その前に武道というものについて、ちょっとだけ言っておく」
「武術を習得するのは喧嘩に勝つためではなく、ギャルに「あらん、あなた、とっても強いのね~、ウッフーン」と、言われるためでもない!」
「武術を学ぶ事によって心身ともに健康となり、それによって生まれた余裕で人生を面白おかしく、はりきって過ごしてしまおうと言うものじゃ!」
「ただし!不当な力で自分、もしくは正しい人々を脅かそうという敵には、ズゴーンと一発かましたれ!!」
ということを教えつつ、牛乳配達や畑を耕すこと、座学などをやらせることなどで、フリーザを倒した孫悟空が、第2のフリーザになるようなことが起きないようにしていたのだと思います。
まあそれでも孫悟空は父親としては失格だといわれていたりしますが。
鬼滅の刃においても最初の師匠である鱗滝左近次は、禰豆子にたいして
「人間は皆家族であり、家族を守り、家族を傷つける鬼を許すな」
といい、炭次郎に対しては
「妹が人を食った時やることは2つ。
妹を殺す、お前は腹を斬って死ぬ。
鬼になった妹を連れて行くというのはそういうことだ」
と言っており、最後に鬼になった炭次郎が人間に戻れた理由の一つだと私は思っています。
まあ、強い力を持っている状態でも、一般社会に戻る必要があるのかどうかは主人公の目的次第なのでしょうけどね。
ああ、ちなみにずっと前に別のエッセイで書いたことがありますが、物語は大きく6パターンに分けられますが、今回のパターンは、シンデレラのような感動型で、いじめられて悲しんでいる状態から魔女の魔法で舞踏会に出席できて喜ぶが、12時に魔法が切れてみすぼらしい姿に戻り悲しみに包まれるものの、結局ガラスの靴により、王子にシンデレラは見つけられてハッピーエンドというタイプですね。
いずれにせよ、試練や事件による不安、不満、焦り、怒りなどの、不快な感情を主人公を通して読者に体験させた後で、それを早めに解決することで、安心や喜びといった快い感情を持たせることを、読者に自然に受けいれられるようにするのが大事なようですし、そのためにはチートな能力で最初から何でもできるようにはしないで、だんだんと試練に対処できるようにしておいたほうがいいのでしょう。
そういう点では転スラの、捕食と魔王化によるパワーアップは参考になるなと、やはり思いますね。
また、アメリカテレビドラマは1時間で4幕構成になっているので、小説では一つの幕を1万2千文字、4幕で5万文程度にするのが、展開としてよい速度になりそうです。
映画を参考にするにはこの倍でいいのですが、これだとWEBでの連載では展開が遅く感じてしまうような気がします。