死にたい……と考えてしまう私の鏡。
私の覚悟は弱く、小さく、薄っぺらいものでした。
この文面が読まれていると言う事は、私は死に飢えていることでしょう。
私は、一日を生活することが苦痛となっていました。少しでも生きていることを忘れるために本を買い漁り、資格の勉強する為のオンライン授業にも参加しました。しかし、苦痛から逃げれませんでした。私の頭の中の声は、どうやったら苦しまずに死ねるのか?と言う会議がされています。
私の体が悲鳴をあげているのだろう……そう感じました。全身が痛く、毎日のように朝方嘔吐をして、薬を飲んで仕事に向かう。なにをやっているのか。精神的にも、身体的にも耐えなければいけません。なぜ耐えなければいけないの? 死を望んでも、死が恐ろしいから。
私は、なぜ死にたいのか? と言う理由がすでにないことに気づきました。前までは、プライベートだったり、仕事だったりの理由があったかもしれません。ですが、いつからかそんな理由も忘れました。ただ、呆然と、単純に、一日を過ごすことが私にとって最大の苦痛になっているから。病気が発覚したから? 関係ない。一人だから? 関係ない。
朝目が覚めて、鏡を見て歯磨きをして、嘔吐する。仕事をして帰宅して、シャワーを浴びている姿の私が写る鏡を見て、まだ生きていることを実感する。息苦しい苦痛を紛らわす為に、タバコとライターを持って外に出て、自動販売機で缶コーヒーを購入して1時間以上時間を無駄にする。一本タバコを吸っては、ピンク色の嘔吐を繰り返し、赤黒い吐血が出てしまったことを確認して家に戻る。
テキーラで複数の薬を飲んで床に就く。このまま目が覚めないようにと祈りながら。しかし、私の体はまだそれを許してはくれない。たった小一時間で目が覚めてしまう。目が覚めたことで、全身の痛みがあることを認識してしまい、もう一度夢の中に入る事を許されず、まだ生きていることを実感する。
私の体は何を求めているのか? いつの日か、24時間痛みに耐える日々がきました。背中の痛みと、みぞうちの痛みが波のように強く弱くを繰り返し襲っています。痛みが消えません。消えないから、好きな珈琲を飲んで耐えます。
この痛みが、私を死に導いてくれるかもしれないと考えると、苦痛だった一日に希望が見えました。耐え難い痛みが襲う日があれば、今日かもしれないと喜んでみたりしました。
生きていてよかった……と感じることができないから。
せめて、死んでよかったと思いたい。
死んでよかったと思えるようにするには? やっぱり、その答えが見つかるまで生きなければなりません。【生きていてよかった】がないなんて悔しいから、寂しいから。
せめて、死んでよかったと思えるゴールを探す為に、生きてください。