収束
ごぼぼ、ぼこぼこ。ぽぽぽ。
泡の音が群れている。
海藻が揺れる深海の底。どこにあるのかも分からない仄かな明りは心もとない。
持ち寄って来たランタンもランプもこんな場所で灯せるはずもなく。
今更ながら何故呼吸ができるのだろうか。
「……変な場所だよな、ここ」
「そういうまじないがあると思った方が良いわ」
「んなこと言われてもなぁ……」
何かと知っているらしいセレンは真実を話すことはない。
多分、話してもらった所で理解できる気もしない。だからそれは仕方がない。
分かっているつもりだが、水流が走っているだとか、雨が毎日のように降っているみたいなおかしな自然とも違う。
超常に襲われるのではなく、自らも超常側に立ってしまった違和感。
ラグロスが気にしているのはそういうものだ。
「だから、こう、ね? この水自体が人体に関係のない物なの」
「だから、分かんねーよ……」
だから、彼なりに答えがないと納得できないし、心の靄が晴れることもない。
セレンもセレンで煮え切らない彼の態度が気に食わず、彼女なりに良い説明を探していた。
「……嫉妬?」
「ひゃっ……チリー。……なんでもない」
心地よさそうな距離間を保つ二人をぼーっと見つめる少女──ルーツェは背後からの刺客に気付かず小さな悲鳴を上げていた。
「あーもーかわいーなー! うりうりー!」
「ちょっと、やめて、ここっ──めいきゅ──」
髪が乱れるのを気にすることなく自身の頬をルーツェに押し付ける。
チリーやアリエルの勧めで用意された肌ケアの類は、基本的に無頓着なルーツェの頬をもちもちにしていた。
なので、おしつけた頬に帰って来る感触も赤子の肌のように柔らかい。
あの弱点が少なすぎるローブっ子に立ち向かうため苦労した甲斐があったというものだ。
「はいはい、チリー。その辺にしときなよ」
「迷宮生物がいないとはいえ、迷宮であることに変わりはないですからね」
何かと個性的な女性陣を諫めるのはどちらかといえば穏やかよりの男性陣だ。
邪魔なものがあればとりあえず大剣で殴りかかってみる猪突猛進野郎を除けば、何かと俯瞰視点で物事を考える面子である。
「それに……相手はやっぱり強敵じゃない?」
「リットもそーゆーこと言わないのっ!」
「現実逃避をしろとも言えないでしょ」
リットが肩を竦める。正直に言えば、彼はラグセレ派である。
理由なんて、彼を救ったのはセレンだからというのが分かりやすいもので。
セレンの容姿といい振る舞いといい、彼の好みに刺さっているのだから。
追い打ちをかけるとすれば──
「分かってる」
「ほんとに?」
「……セレンさんは良い人だもん」
「そういうことじゃなくて、さ」
「……ほかに何があるのさリットぉ」
やはり理解できていないルーツェにリットが力なく首を振る。
はっきりしない物言いはチリーが嫌いなもので、彼女にとって大好きな彼の苦手なところだ。
そういうのも含めて好きなのだから、人間とは罪深いとチリーも時折嘆いている。
「違うって。そもそも君、そういう対象にすら見られてないって話」
「……え」
「えっ!?」
「なんかあったかー?」
「何もないよ、いつものオーバーリアクションだって」
「へーい」
まるで考えたこともなかったと言わんばかりに二人が驚きの声を上げる。
二人の驚嘆にラグロスが反応するが、リットの平静な態度にすぐに興味を失った。
「……ちょっとリット!?」
「なんだい」
「なんだいじゃなくて──!」
「ナイスフォローでしょ」
「……そうなんだけどぉ!」
あながち否定しきれないのはもっと質が悪い。
むかむかむか。
処理に困る怒りが募る。けれど、イライラを溜めた風船はしぼんだままだ。
いつだって、彼女たちはこんな会話をしている。
一介の村人だったころから変わったと言えば、リットもそれなりにふざけることを覚えたことか。
「……対象に見られてないって」
「そのままの意味、ドーさんなら分かるでしょ」
「ここで私に振りますか……」
「だってチリー怖いからね」
「リットのせいでしょー!」
「はいはい」
ルーツェの疑問はリットを通って妻子持ちのドーレルへ投げ出される。
手が空いたリットは双剣の如く振り回されるツインテールの対処に向かった。
ぺしん、ぺしん。さながら拳を打ち付ける練習のようだ。
えいやと叩きつけられる髪をはたき落とすリットはかなり適当そうだが、女の命とも呼べる髪の毛を握らないようそっと流しているのはルーツェ的に高評価だった。
とりあえず、仲睦まじいそうである。
「……で、ドーさんなら分かるの」
「リット君も分かるのですけれど……はい、私が適任というのは事実でしょう」
「……?」
「私は妻が好きです」
「……知ってる」
唐突な愛の告白である。ドーレルが愛妻家であることは二年弱の付き合いがある身としてはよく知っていることだ。
それがどうした。ルーツェが胡乱気な目を向ける。
のろけか、吹っ飛ばすぞ。とメッセージも添えてやった。
「私は娘も好きです」
「…………知ってる」
唐突な愛の告白である。ドーレルが愛娘を溺愛しているのはそれもまたよく知っていることだ。
何が言いたい。ルーツェが刺々しい視線を向ける。
自慢か、ひっぱたくぞ。と掌底を構えてやった。
「……落ち着いてください」
「落ち着いてる」
「……とにかく、私は娘も妻も大好きですが、二人に向ける感情は同じではありません」
「そりゃあ、そうでしょ」
当たり前だ。ドーレルの愛は家族へ向けるもので、ルーツェが弟を愛するのと同じことだ。
意味が分からない。ルーツェの瞳が冷気を帯びた。
けれど。
「…………」
「分かりましたか?」
「でも──違うと思う」
ルーツェは察しの良い人間だった。
人のことを良く観察する人間だった。自分のことは部屋の片付けも出来ないくらい無頓着だけど、他人のことは自分よりも知っているぐらいだ。
だから、ドーレルが言いたいことも明言される前に伝わった。
「どうしてですか」
「だって、ドーレルも、私も家族を愛しているだけだから……」
「血がつながっているから、ということですか? 家族というラベルを張っているからですか?」
「ん……それも、違う」
首を横に振る。諭すように告げてくるドーレルがこの上なく恨めしいが、言ってることは正しい。正しいなら認めなければならない。感情的に否定しようと、そんなものは我儘だ。
彼女は姉であり、我儘を通せる人間ではなかった。我儘を訴えられる側の人間だった。
だから、論理的でなければならなかった。
だけど、人間にも限界がある。彼女の不安や不満、怒りに悲しみ。
負の感情をかき集め、臭い物に蓋をするみたく心の物置へ押し込んでいたはずだった。
論理の破綻が彼女をさび付かせ、今は艶やかな髪さえも脂が付いていた。
そんな彼女を救ってくれたラグロスに、ルーツェは深く信用しているし愛している。
だけど、そんな彼女を救ったラグロスはどう思っているのか。
──年下の家族に手を差し伸べる要領で、彼もルーツェを助けたのだろうか。
だとすれば、ラグロスにとってルーツェという存在は──
「それならそれで、いい」
「すみませんルーツェさん。そこまで思い詰めさせる気はなかったのですが……」
「いいって、言ってる」
「いえ、そういう意味でもなく、チャンスがないとも言ってないのです」
「……どういうこと?」
上げて落としてまた上げて。ジェットコースターみたく乱降下させられるものだから、ルーツェは何もしていないのに何故か疲弊していた。
希望にしろ絶望にしろ大きな感情にはそれだけのエネルギーを使うのだろう。
「──ほら、僕もラグロス側だったから」
宙ぶらりんの疑問はドーレルに変わりリットが答えてくれた。
ラグロス側。その言葉の意味はなんとも難しい。
この場合におけるラグロス側とはどういうことだろうか。
反対側が何かも分からないのに、どっち側もくそもないじゃないか。
むむ、と眉を寄せた無言の抗議を受け、リットが苦笑した。
「口で言わされるのはちょっと恥ずかしいかな」
「あ、じゃああたしが言おうかな!」
「──え、そうなるの」
いつのまにか怒りもすっかり収まったチリーがご機嫌に彼らの過去を語り始める。
ルーツェは彼らのありふれた出会いとありふれた物語と、ありふれていない激情の話に心を躍らされ一喜一憂する。
運命とは収束する。些細な二人の過去。知っていようが知っていまいが、大局に変化はないだろう。だが、ルーツェと呼ばれる一存在の心構えは変えられる。
場所は違えど、彼女は二人の過去を知った。
あの、捻じ曲げられた世界と同様に。