堕天使
「──ハッ、ハッ……!」
魔石灯の光も届かないシーフィルの薄暗い裏路地を駆ける一人の少女。
全身を覆う白ローブで容姿は見えず、フードを目深く被っているため表情も分からない。
しかし、荒い息遣いとしきりに後ろを気にする仕草から何かから逃げているのは見て取れた。
(しくじった……!)
ケイオスから涙を取りに行くよう任務を与えられたのは良かった。
ついでとばかりに、涙を手に入れたならメドゥともう一度会わせてやろうと言われたのも行幸だった。
迷宮に潜入するまでも問題はなかった。つい癖で使った権能は問題だった。
どこからともなく、飛んできた天使から逃走。迷宮から出て振り切ったと思えば、町の中まで追ってくる執念ぶりだ。
今も追いかけてくる足音が彼女の鼓動を速める。心臓に悪い、恐怖という感情を下手に知ったせいで足もうまく回らない。
やはり、こいつは邪魔じゃないだろうか。
幾度もぶつかった疑問の壁はいい加減に見飽きた。
今はそんなことを考えている場合ではないと、必死に足を動かす。
なるべく、魔力も使わず走っていたのが功を奏したのか、自身を追いかけていた足音が聞こえなくなってくる。
となれば、状況確認も兼ねて一度落ち着きたい。
辺りを見渡しながら手ごろな隠れ場所を探す。
しかし、この辺りは店はなく石造りの民家ばかり。右も左も中途半端に魔石灯が並んでいるから暗がりも少ない。
深夜で戸も閉まっている家が所狭しと並ぶ場所に、隠れ場所なんてものはなかった。
焦りを募らせる彼女がついに遠のいたと思っていた足音を耳にする。
(……来た!?)
どうするべきか定まらないまま地面を蹴ってとにかく逃げる。
バレてはならない。多勢に無勢は彼女が一番よく知っている。
だからとにかく人目に付きたくないと彼女は大通りを避けていた。
だが、追手もそれは把握しているらしく、大通りを壁に見立て追い込むように足音が散開していく。
徐々に狭まる包囲網。
恐怖も相まって彼女の判断力が荒い動悸と共に低下していく。
考え抜いた末、このままでは捕まると少女が目の前のT字路を大通りの方へと曲がって逃げ出す。
同時に、彼女は背中に生えた羽を動かした。
*
『セレー、逃げてる』
フレアは誰にも聞こえない呟きを漏らす。
老婆に頼まれ見たことのある場所に来たのは良いが、知っている人はいないし、セレンはなんかそれどころじゃなさそうだし、心細さで泣きそうになりながらとりあえずセレンを追いかけていた。
老婆との約束はとにかく干渉しないこと。ちゃんと全部見て帰って来ること。
まだまだ子供なフレアにただただ何もせず傍観するのは荷が重い。
けれど、そうせざるを得なかった。
フレアには難しいが、たーにんぐぽいんと、とやらを観測しないといけないらしい。
老婆もフレアに難しい言葉は理解できないと知っているからこのようなシンプルな約束だけおをして送り出すほかなかったのだ。
『とんだ!』
セレンが夜の港町を飛翔しようと黒翼を広げる。
焦りのあまり、ローブをひっぺはがすと同時に模倣のルーンも解いてしまっていた。
つまり、相手に位置を教えているのと同義だ。
だから、広げたばかりの両翼が光に貫かれるのも当然だった。
『あー!!』
猟銃に撃ち抜かれた鳥のように真っ逆さまに落下。
大通りに近いからか、喧騒の残り香に混じり墜落音が響く。
フレアの動揺も大いに叫ばれたが、彼の悲鳴は誰にも聞こえない。
夜の裏通りにけたたましく響く足音。上空から一部始終を見ているフレアにはその中に助けがないことを十分承知している。
ついにセレンを捉えた包囲網から、一人の天使が歩み出る。
フレアにも見覚えのある男。彼らの統率者たる指揮者だった。
『……アイツ、悪い奴だ』
老婆の言いつけもあり、あの時は黙っていることしか出来なかったフレアだが、ラグロスと同じく怒りを燃やしていたのだ。
だが、今もやっぱり手を出せない。けれど、このまま放置したらどうなるか──助けも来ないまま、セレンは甚振られてしまうに決まってる。
『……んーーー!!! んぬぅ……』
膝を折り倒れる影が一つ。その影を踏みつけ、蹴飛ばす影が一つ。
まがりなりにも愛着というものが湧いているフレアは必死で怒りを抑える。
約束を破れば、ラグロス達は助けられない。
これが第一のルールだった。そして、その約束が不干渉。
このまま放っておいてもロクな結末にはならないが、もっと嫌なことがあるのだから我慢するしかない。
たくさんの葛藤を乗り越え、フレアは静観を決め込んだ。
嬲られるセレンの嗚咽が、声が聞こえる。
どうにかして聞こえないよう、耳を塞ぐみたいに縮こまって我慢した。
『やっぱり無理だぞ! ──ていっ!』
しかし、結局我慢できなかったフレアが飛び出す。
愉しそうに笑いながらセレンを足蹴にする指揮者に向け、無策の突貫をしかけた。
『あ、あれぇ?』
初めからいなかったみたいに、フレアの体は指揮者を通り抜ける。
何故だろうと首を傾げる。彼らがフレアの存在に気付いた節もない。
彼は傍観者だ。干渉などもとより許されていない。
彼は追憶者だ。記憶にあることのみしか閲覧できない。
だけど、まだまだ子供なフレアにそこまでの理解はなかった。
『……ラグー!』
頼れる兄貴分を探しに、フレアが上空へ飛ぶ。
彼のトレードマークである大剣は良い目印だ。神の修練場ではこのまれないデカブツを扱うのは彼くらい。見つけるのは容易かった。
『いたっ!!』
彼は彼で、何かを探して走っている。後ろには衛兵が二人。一見追いかけられているようにも見えたが、どうやらそうでもない。
どちらかといえば、三人揃って何かを探しているような──
『ラグー!!』
彼の行く先に躍り出て、ぶわっと燃え上がる人魂。
彼がその人魂を目視できたなら反応を示しただろう。
出来たなら。
『……ラグー?』
「こっちだ!」
ラグロスのガタイの良い体がフレアを透過する。
彼はフレアの存在に気付くことなく素通りし、すぐそこの曲がり角へ飛び込みながら二人へ手招きをする。
『……なんでだ? なんでオイラに気付かないだよぉ!』
傍観者であることを自覚しない傍観者は半泣きで演者を追う。
なぜなぜなぜ。どうしてどうしてどうして。
自分でも理解できない寂寥感に襲われながら、必死に彼の後姿を追いかける。いつもみたいに彼の魂で間借りすることも出来なかった。
それでも、一つだけ幸運なこともあった。
「お前ら、何してるんだ!」
「……ちっ、邪魔が入ったか。撤収だ!」
ラグロスが天使達の包囲へとたどり着いたのだ。
予想していなかった現地人の介入に、眉を吊り上げた指揮者が彼を睨む。
しかし、その後ろに衛兵が要るのを見つけ舌打ち。
セレンを捕まえたいのはやまやまだったが、彼らに阻まれず撤退するにはここで翼を出すしかない。しかし、しばらく活動する場所で飛び立つところを見られる訳にもいかない。
元々の目的は他に仲間がいないかの尋問だ。もしかすれば彼も彼女が何かしらの手段で手ごまにした輩かもしれない。
ラグロスの顔を焼きつけた指揮者は今は大人しく撤退の命令を出した。
「おい!? 待て!」
衛兵顔負けの集団行動を見せた天使は足並み揃えてシーフィルの暗がりへ消えていく。
待てと言われて待つ奴もいないだろう。そんな嘲笑を残し、指揮者も同じく暗がりへと消えていった。
「……追いますか?」
「……いや、大丈夫だろ。どっちかっつうと……」
衛兵が尋ねるが、ラグロスは首を横に振る。いろいろ気になることは多いが、今は彼女の方が優先だった。
「おい、大丈夫か」
「……なに」
ラグロスが地面に横たわるセレンを助け起こす。
権能の力で体力を奪われていたセレンだったが、だれも信用できない場所で警戒心はちっとも解けていない。一応は恩人であるはずのラグロスにも射貫くような視線で問い返した。
しかし、語気はあんまりにも貧弱で、今にも気を失ってしまいそうな弱弱しさにラグロスが呆れてため息をひとつ。
「……なにって、ボコボコにされてたじゃねぇーか」
「貴方には、関係のないこと……でしょ」
「そーかい。……あー、グレゴリーさんよ、ちょっとウチの宿屋行って、踊り子で起きてるやつに着替えやら応急処置やらの用意頼んでもいいっすか。出来ればチェリーかリットで」
「了解しました。ラグロス君は?」
「この意地っ張りの面倒ってか、確保。流石に放ってはおけねぇっすから」
グレゴリーと呼ばれた老齢の衛兵が柔らかな笑みを浮かべる。
探索者の間で良い意味でも悪い意味でもよく知られる中層探索者。
良い意味とはちょっと呆れるぐらい世話焼きで、悪い意味とは保持スキルの弱さと探索進度が釣り合わないこと。
後者はただの嫉妬。彼を良く知る人間からすれば毎度今のセレンみたくボロボロになっているのだから、心配が募るばかり。
グレゴリーからすれば、いい加減もう少し体を気遣って欲しいものだ。
ルーツェも悲しむだろうに。
「……ふ、そうですか。承りました。──戻るぞ」
「は、はいッ!」
そんな内心の呟きを押し隠し、ふさふさとしたあごひげを撫でた彼が新人衛兵と共に去っていった。
「……立てるか」
「放って、おいて」
「なんでだ」
「……関係ないでしょう」
「じゃあ、俺がすることもお前には関係のないことだろ」
「…………」
セレンが口を噤む。
彼女もなんだかんだ元天使。論破されては強がりも言えなかった。
むぐぐと眉をひそめ頬を膨らませる。
大人っぽい魅力というか、体つきなのに態度は拗ねた子供そのもの。
「──」
先ほどまでは救助活動もあり意識していなかったラグロスだが、思いのほか惹かれる容姿に息を呑む。
良くも悪くも彼好みの女性だった。付け加えれば一目惚れだった。
だが、彼の良心はこれにかこつけることをよしとしなかった。
「なに」
「……なんでもねーよ。ちょいと手荒だが勘弁しろよ」
「なにを──きゃっ」
色々考えた末、本来予定していたおんぶではなく、まるで荷物を運ぶみたいにセレンを肩にかついだ。
おんぶは彼の理性的にちょっと苦しかったのと、良心が阻んだ。
セレンからは見えないが、ラグロスの顔は苦渋の決断をしたかのように歪んでいた。
リットが見れば大笑い間違いなしの絵面だろう。
この場に彼がいなかったことをラグロスは心底神に感謝した。
普段は信じないが、都合の良い時は感謝する性分である。後利益もへったくれもない。
「ちょっと! もう少しましな持ち方──」
「うるせぇ。病人は静かにしてろ」
セレンが抵抗するが、先程の強襲でルーンを描く体力もない。天使としての器の強さと彼女のしょうもない意地だけで暴れている。
だが、所詮は女性の力。普段から大剣をぶんまわすラグロスの前では児戯に等しく、いくら暴れようと落ちる気配はない。
そうして、やいのやいのと騒ぎながら彼らは夜が更けたシーフィルの喧騒へと混ざっていく。
少し、ほんの少し道を違えたが──剣士と堕天使は確かに出会った。