感情の是非
夕闇から澄み切った青へ。色鮮やかなグラデーションを作り上げる空。
ふよふよと宙を踊る白い風船の群れ、誰かが手放したにしては数が多すぎて。
そのくせ、地上には風船だったモノらしい赤い残骸が転がっていた。
風船たちの出所は夜の裂け目。永劫と疑うほど昼を返そうとしない夜がしびれを切らしたのか、宙で弾けた分だけ新しい風船が入ってきて空を泳ぐ。
そんなやつらも空しく弾けて赤い残骸で野原を汚す。
淡い中性色が暖かいを超えて鮮烈な熱を訴える紅へ染められる。
当たり前だった野原は別に好きでもなかったが、ここに紅は似合わない。
ちょっと肌寒さを思わせる緑の野原だからこそ仮初の太陽が暖かいのだ。
完全に暖かくないから人肌の温もりが貴重だと思えるのだ。
風船を砕き続ける誰かも同じことを考えているらしく、ゆらゆらと触手のように蠢く無数の対空砲から紫光が走り、風船に穴を開けている。
対空砲の数は風船より少ないけれど、一瞬誰も居ない空白地帯を作れるぐらいには十分。
殲滅速度と出現速度を乗せた天秤はどちらも釣り合っていることを示していた。
互いを食らいつくそうと燃え盛る命の炎は両者ともにその輝きを弱めていく。
ぐら、ぐら、と微動を繰り返す命の天秤。
対空砲を支えていた砲座も同じように揺れて、崩れ落ちる。
空を占有する風船とそれを許さない対空砲の戦いは僅差で風船側が制してしまった。
靄が晴れる。
微睡みから覚める。呆けた頭が急速に活動を再開し、思考能力を取り戻した。
ただの傍観者となり果てていた少女の体が命を吹き返す。
がばと体を起こし、ベッド飛び起きる。
少女にとって安らぎの場所だった緑の野原。
別に動物がいる訳でもなく、限られた種類の植物たちが暮らすだけの片隅世界。
それが今や誰かの血肉で赤の沼と化している。
翼とローブの白。どろりとした血液の赤。下地となった野原の緑。
彩色豊かな三色はセレンに非現実を訴える。
漂う鉄交じりの生臭い匂い。下手に感情を与えられた少女の体を猛烈な吐き気が襲った。
「──……おぇ」
飛び散った血でメッキがはがれてしまったみたいな色あせた金のベッド。
セレンを守るために張り巡られた結界の内部、白いシーツは血で汚れていないが少女の嘔吐物で塗れてしまう。
五年という期間はセレンが天使から人間に堕ちるのに十分すぎた。
人間に近づいた機能がセレンに我慢を許さず、嘔吐を強いる。
ローブが汚れるのを気にせず口元を拭う。
彼女の頭は血みどろの赤よりも紅く染まった怒りで埋め尽くされていた。
模倣の練習をしていたなんて話も消し飛ばして、ローブをはぎ取り黒翼を晒す。
何のために寝ていろと言われた理由も忘れて、体内で燻らせていた魔力を燃やした。
──何故傍観に徹していたのだろう。
自問するが、答えは出なかった。
それでも、自分がメドゥに乗せられたのだろうという直感はある。
根拠はないから断言はできないけれど、気遣いを受けた苛立ちだけが昇っていた。
「死んで」
躊躇ない剥き出しの殺意。それは彼女の体から黒炎となって溢れ出す。
知らず知らずのうちに執着していた緑の野原も終着ごと焼き尽くし、紅い沼も白い死体も誰彼構わず焼き尽くす。
ただの炎ではないそれはただ引火するのではなく、存在ごと食べつくすみたいに不届き物の死体を灰に変えては次なる得物を求めて沼を這う。
無差別な焼却だったが、理性を押しとどめるみたいに僅かな意思が残っている。
それを示すのが、周囲から守るようにメドゥの巨体を囲う黒炎のドームだ。
ネズミ一匹許さないと野原を這いまわり、焼き尽くし、埋め尽くす黒炎が何故か守るように動いていた。
「墜ちて?」
地上を埋め尽くした黒炎が死を食らうのではなく、生を食らうために空中へと進出し始める。
無機質な動きしか出来ない天使が黒炎を恐れて空中で後退りをする。
感情を持たない奴らに突撃が無意味だと教える黒炎。だが、逃走を許すとも言っていない。
「燃えてッ」
腕を振るう。ギロチンの如く、彼らの頭を堕とそうとすべく。
黒炎が伸びる。鞭の如く、彼らの足を堕とそうとすべく。
紅い池に引きずり込もうと、黒炎は天使を捉える。
一瞬で体が灰に変えられ、捕まった天使たちが小さなうめき声をあげていた。
だが、彼らは兵士。そんな状況でも術者に向かってルーンを描き反撃しようとする。
だが、宙に指を走らせる行為さえ許さない炎が一瞬で天使を灰に変えて、沼で沈む天使たちの仲間入りを果たした。
「死んでよッ!」
黒炎が吹きあがる。
彼女の怒りは火山の噴火の如く収まる気配がない。その意思を受けた魔力が黒炎へと行き渡り、さらなる烈火を引き起こした。
ここまでなっては天使側に勝ち目はない。
元より残っている数は三桁届かず。四桁に乗っていた兵力はもう一割にすら届いていなかったのだ。
いくら再生産出来る体とはいえ、ここまでくれば大敗にも等しい。
死体の持ち帰りも、魂ごと燃やしつくす黒炎の前には不可能。
であれば、天使たちの取る行動は速やかな撤退と情報の共有。
だが、その判断は遅かった。
なまじ組織から逃げ出した個体を見つけたせいで、より強い戦意を滾らせた天使に撤退行動は許されていなかった。
それでも、少しでも可能性があるならと天使たちが一斉に背を向け逃走を開始する。
二割の天使が堕天使の足止めに向かう戦略的行動だ。
だが、今のセレンに権能は効きにくい。
堕ちたとはいえ彼女だって元天使。まだ秩序に背くような行動を明確に起こしていないせいで、転換点にもなっていない。
同格の彼女に権能の力は輝かず、背中を魅せなかった者達は一瞬で灰に変えられた。
彼らが稼いだ時間は一秒にも満たなかっただろう。
むしろ、中途半端に別れたせいでその死体が導火線となって次なる天使へと襲い掛かる。
逃げるならば一斉に動くべきだった。
中途半端に統率が採れてしまう集団故に、晒してしまった弱点。
指揮者のような上位個体がいれば話は変わっただろうが、本来ならばこれで事足りていた。
事実、目標であった転換点の排除は済んだ。
その付属品如きに任務を妨害されるなど夢にも思わなかったのだ。
今度こそただの殲滅作業。
絶望を煽るように、黒炎が夜の裂け目を覆いつくして天使たちを囲み、じりじりと寄って白い体を灰へ変えていった。
不幸中の幸いなのは、燃やされた彼らに感情がないことだろうか。
良くも悪くも、欠片も恐怖を感じず、痛覚を感じず体を燃やされたのは幸せと言えば幸せだろう。
全身の皮膚を掻きむしるように炎は体を貪りつくし、血管を乾かす。
一瞬で訪れる水分不足の苦しさ、肉が爛れる痛み。
人間ならば魂に焼き付けられる拷問に違いないのだから。
「──はぁ、はぁ」
膝に手を置き、肩で息をする。
荒い呼吸が彼女の体を緩やかに上下させていた。
肩まで露出した黒のブラウスから覗く腕はちっとも赤くない。
彼女の殺しは血を噴き上げることすら許さない静かなもの。魂すら逃がさない黒炎が全てを燃やし尽くす速やかな絶命。
よって、彼女の服は返り血を浴びていない。黒一色の純黒そのもので、夜闇の深さを体現していた。
──百にも届きかねない命を奪ったとは思えない程、堕ちた天使は美しい。
同格だった存在を何十体も倒したことに情感はない。
ただ、心赴くままに虐殺をしたことに疲れはない。
体をも焦がしそうな激情の炎に気力ごと燃やし、ぽっかり空いてしまった心を埋められないだけ。
あの時小瓶を手にしてしまった時から、一寸先も見えない闇の中を歩いていた。
それでも、ほんの少しの明かりを頼りに足元くらいは照らせていた。
けれど、もうその明かりもいない。手探り状態での暗中模索。
別に進みたいわけでもない、戻りたいわけでもない。ただ健やかに暮らしたかった。
もうこんな感情に振り回されたくなかった。
「……」
どうしたらいいか分からなくて、太陽を隠した夜の下、セレンは明りを求めて彷徨い歩く。。
ぐちゃ、ぐちゃ、と燃えカスになった血肉を踏みつぶし、ミュールが汚れるのも気にしないで彼女は探し歩く。
「メドゥ……」
「……おー、生きてたんか。──ごめんな、ちょっとやらかしたわぁ……」
ごほ、ごほとせき込み、魔力の霧を吐き出すドレス姿の女体。
プロポーションの取れた美女を悪魔たらしめる蛇の髪は、権能に焼き焦がされぷ黒煙を上げている。
遠くからは見えなかったが、体中が光の槍に貫かれて磔に。血の代わりに大量の魔力を噴き上げセレンよりもはるかに大きな巨体が、もう彼女と同じくらいにまで縮んでいた
「てか、寝てろっつったのに──なんで起きてんやー?」
茶化すように笑いかける女性。手足が砂に溶けて消えているのに、それを微塵も感じさせない陽気さだった。
無論、受けた痛みを笑顔で塗りつぶすことは出来ていない。引きつった笑みはセレンの胸に刺さって棘となって残る。
「うるさかったから」
彼女とはそれなりに長い付き合いだ。言葉を交わした機会こそ少ないが、からかわれていると理解できる程度に、女性と親睦を深めていた。
冗談が必要不必要だと議論を交わしていた頃が懐かしく思える。
「あー。そいつはすまんけど、無理やわ。近所迷惑な奴らおったし」
「知ってる。……殺したから」
「みたいやな」
メドゥがほんのり顔を曇らせた。雲に隠された夜空の星明りも彼女たちには届かない。
(あー……入れ込みすぎたわ)
初めから利用するつもりだった。人選だって、もっとも初期型の方が利用しやすいと踏んでのこと。
これがなんともまぁポンコツで。そのくせポンコツだと自覚があるおまけつき。
こっち側の方が生きやすそうな息苦しさを感じさせる彼女が放っておけなくて。
せっかくだからとチャンスをあげた。
結果は、予想通りの爆散。メドゥが飲んでも同じ結果になるのでおおむね予想通りだったが、まさか堕ちて戻って来るのは予想の斜め上だ。
全員から目の敵にされて追い回されているのは中々彼女の腹筋をいじめてくれたものである。
──たかだか黒くなっただけなのに。
ともかく、こちらとしてはありがたいのでセレンを保護。
潜在性で言えば、メドゥを超える魔力量と操作能力には舌を巻いたが、ちょっと突けばすぐ
表情の色を変える彼女は面白くて、しばしばおもちゃにしていた。
分かりやすく言えば、子供と思って接していた。
メドゥ自身その自覚は薄かったが、気付けば自分の命をも盾に守ってしまったのだから、感情というのは罪である。
案外天使の方が正しいのだろうなと自嘲するように、メドゥがぽっかりと煙の輪を吐き出した。
彼女がため込んだ魔力だが、魂がやられては保持する器もなくなり決壊して溢れ出すだけ。
自分の存在が希薄になって魔力と一緒に空気へ溶けていく。
凍えた体の感覚がなくなっていくような欠落感は、大方恐怖から遠い暮らしをしていたメドゥのそれを煽る。
(死ぬって、こんな感じなんや)
けれど、煽られただけで思いのほかあっさりと受け止められる自身がいた。
やれることはやったし、長年の疑問も晴れた。
今なら上司のよく分からない思想にも賛同できる気がした。
「たしかに……りふじんってのぁ、うざいわなぁ」
黒炎で出来た雲は晴れないが、彼女にとっては澄み切った夜空だ。たまにはこういう暗いのもいいだろう。こっちのほうがよく眠れる気がした。
口も回らない。瞼が持ち上がらない。気力がわかない。
命が緩やかに停止していく様を味わうのは新鮮だった。もうその感動を味わう元気もないが。
「……セレン」
「──なに?」
重い口を動かす。愛する娘は肩を跳ね上げながらも、膝を折って横たわるメドゥと目線を合わせてくれた。小首をかしげる彼女の声は震えている。
感情が不必要かもしれないが、今なら悲しいとは断言できる。
想ってくれることの尊さは感情がないと分かり得ない。
「これもって、前話した涙、とってきてくれん? ウチのしがないともだちのためにさ」
「……シーフィルの迷宮?」
「そそ。──たのんでもええ?」
「……構わないわ。──それをすれば」
「じゃ、頼むわ。ウチ、ねるから、さ」
最後に引きつった笑みを消して儚くも満面の笑みを浮かべたメドゥが永久の眠りにつく。
セレンが最後に尋ねたかった質問は、答える相手がいなくなったことで霧散する。
それが、セレンの長い長い旅の始まりだった。