夜よりも昏く
「おーおー。立派やないか! やればできる子やな! ま、ウチはさいっしょからやれるて思ったけどな!」
「そ」
「そない冷たくならんとってやー。ウチはこないもセレンを愛しとるのになぁ」
「じゃま」
「ひっど!」
清廉さの証明である白翼から、統一された制服である白ローブまで全て白色。
純白に身をうずめたセレンの服装は過去と変わらない天使そのものになっていた。
模倣のルーンは完全な仕上がりを見せている。物理の波を介した言葉遣いも随分と上手くなった。──馴れ馴れしいメドゥのせいか、少し刺々しいが。
「でも、ありがとう」
「そーそー。素直が一番や!」
「いたい」
模造のメドゥがセレンの頭をガシガシと撫でる。
まるで犬をかわいがるみたいな撫でっぷりはセレンには過剰すぎて、ぱしんと弾き飛ばしてしまう。
「ただの百合をじゃませんとってやぁ」
「ユリ?」
「あー、セレンは知らんでええ。むしろ知るな」
「……そう」
いつもは春の悪戯な風みたいに暴れまわるくせして、急に石みたく固まってぴしゃりと言ってくる。
その差も含めてメドゥという存在を表しているのだろうけど、セレンには少しも分からないこと。
言いなれた愛想のない相槌を返し、魔力制御の練習に戻る。
メドゥ曰く、生命が操る魔力には大まかに二種類あるらしい。
大気中に散乱する純粋な魔力をかき集め、自分のモノとして扱えるよう無意識に加工するのが本来の魔力。
故に、すでに加工された他人の魔力を取り込むのは非常に危険だ。
誰かが飲んだ後の水を飲むのと同じことである。
間接キスがどうのという話ではなく、誰かが飲んだ際に含まれる僅かな唾液の話。
水とは別の不純物が混じることが問題だ。
そして、加工済みかつ濃縮されたものというのは、もはや水の割合が二割以下になっているような状況。
そんなものを飲めば体調を崩すなど当たり前の話。
そして、居に取り込める許容量を超えれば胃が破裂するのも同じ。
そんな理由で、他人の魔力を取り込むのは危険なのだ。
だが、二種類の内のもう一つに限っては魔力の変質こそが鉤になる。
印や式、言の葉を介することで様々な事象を起こせるのが、魔力であり、万能の素子である。
しかし、その万能性を極限まで絞ることで、魔力そのものに超常の力を付与したのが掌握魔力と呼ばれる代物だ。
究極の到達点。願望の成就。
圧倒的な大魔法からそれすら防ぐ奇跡の盾まで。
何でも叶えられるのではないかと疑えるそれは、皮肉にもセレンより矮小な人類の方が適しているらしい。
それを聞いたときには腹を立てた者だが、弱いからこそ、万能ではなく突出した力を求めるという思考回路自体は妥当で。
秩序を重んじる身としても、論理に基づく探求は認める他なかった。
「……」
一方。セレンが得意とするのは体内の魔力を扱うこと──ではなく、周囲の魔力を武器に出来ると言う点だった。
周囲の、ひいては他人の魔力すらも操ろうと思えば操れる。
体が爆散するほどの量の外界魔力を受け入れた彼女の体は、天使とも悪魔とも呼べない別の進化の道を辿っていた。
白枝が宙を駆け、印を描く。
彼女が扱えるルーンの量は多くない。天使たちの秘匿技術であるそれをまともに習得できていない彼女が好むのは、シンプルな光槍のルーンだった。
「器用やなぁ」
音もなく虚空から生み出された光の剛矢を見て、メドゥが呟いた。
等間隔に並んだ白の穂先は地面に円陣を描き、岩柱の如く屹立する。
ルーンにしろ、魔術にしろ、魔法にしろ、使用者から離れた場所に干渉するのは難しい。
難しいと言うよりは、体力を使うと言う方が正しいか。
長物の武器を使う時に軽かろうかが、遠心力のせいで扱いが難しいのと同じ道理だ。
だが、腕が長いならどうだろうか。長物を扱う者が巨体ならどうだろうか。
セレンの才能は手足のように使える領域の広さである。
いくら体内魔力の扱いに長けようと、外界に干渉するには別の制約、重さがかかる。
セレンが稀に使う巨剣のルーンも下級天使には効率が悪い。
使えないこともないが、別のルーンを使った方がより良い戦果を出せる。
これが、感情を与えられた故の才能──と言うには後天的すぎる発芽だ。
だが、感情を与えられたからこそ、発芽のきっかけが得られたのは確かである。
「──」
光点が煌めき、奔る。
花火の如く光は打ちあがり、真昼の草原を維持し続けるメドゥの箱庭へ炸裂した。
きききん、と連続した硬い音が青空で弾けた。
夕闇を生み出す赤は今日も仕事をせず、青にその座を明け渡す。
「鬱陶しいわね」
「ウチかて、セレンを簡単に出すわけにもいかんしなぁ」
修行不足。暗にそう宣言されたセレンが吐き捨てる。
表情自体は乏しくても、悔しさを隠しきれない握り拳は彼女の心を晒していた。
罪悪感と責任感。両方にかられたメドゥは苦笑を漏らすのみ。
悪魔の気まぐれ。
メドゥが小瓶を渡し、セレンを堕とした理由は一言だけだった。
勿論、そんなわけがない。
そんじょそこらより強い悪魔だって命は惜しい。悪魔だからこそ、主君に従うだけの天使よりよっぽど生に執着する。
そんな悪魔が敵地真っ只中の天界に潜入するだろうか。いくら気まぐれとはいえ、限度もあるだろう。
天界に居た理由も、妙な小瓶を持っていた理由も、それをセレンに渡したのも。
どれもこれも、目的ありきだ。──元は以来であるそれを引き受けた理由こそは、確かに気まぐれなのだが。
──びり。
配達の包装を解こうとして、間違えて破いてしまった──みたいな小さなほころび。
セレンがいくら攻撃してもびくともしない緑の箱庭は、そんな気安さでひびを作った。
びりりりり。
やってしまったものは仕方がない、なんて諦め交じりに乱雑極まりない勢いで世界を破く。
丁寧さを諦めれば、訪問者にとってこんな世界はおもちゃの城に過ぎない。
通りすがりの大人は無残に城を轢き殺す。
天を破き、真っ二つになった裂け目から夜が溢れ出す。なんとか集まることで安息を保っていた真昼の世界はあっという間に夜空で覆いつくされた。
「ほんまさぁ……ノックぐらいしてくれへん? ケイオスさんや」
メドゥは苦笑を深め、お手上げだと持ち上げた右手をひらひらと揺らす。
疑似太陽に紫外線なんてものは存在せず、日の光を浴びていない白い右手は、もはや白旗同然だった。
「我が領域に住処を作っておいて、その台詞か?」
星明かりが塗りつぶされる。
夜よりも深い闇。黒い巨体が裂け目を通って箱庭へと踏み入った。
メドゥよりも大きな体。頭部の曲がりくねった角と三日月状に裂けた口。
そして、星明かりの代わりに夜空を照らす深い紅色の瞳。
彼女の上司的な存在である大悪魔、ケイオスだ。
彼は紅色の星を瞬かせ、半月に近づけた口から厳格な声をメドゥに注いだ。
「ええやん。ちゃんと許可も取ったし、こうして仕事もしてるやろ?」
「……そうか。だが我も配慮をするつもりもない。あくまで留意するだけだ」
「まー、その体じゃむずいのは知っとるけどな……」
仕方ないかーとため息ひとつ。
のほほんとしていた表情を引き締め、分身を霧みたいに溶かした。
そして、代わりとばかりにベッドで横たわっていたメドゥの本体が体を起こす。
「で、何の用や? 一応分身は送っとるけど、報告通り調停者はみとらんで」
「そちらの話ではない。動力の方だ」
紅い目がゆらゆらと揺れる。
口裂けの巨体はどうみたって化け物で、そんな存在が力なく首を横に振るのは少々奇妙だ。
後に港町を滅ぼす大悪魔を視界に収めながら、セレンは呆けた顔で彼らの会話を見守ることしか出来ない。
「ほーん? ……あったんか」
「定かではない。だが、古きヒトの工房を見つけた。恐らく、ヒトの訓練施設の類だろう。ならば、撒かれた魔力の集積所もそこにある」
「んで?」
「我らが出張れば──分かるだろう?」
「わーってる。そんために天使つれてこいって話やろ? だーかーら、今躾けとんねん」
アンタが言ったんやろが、と指先で口元を叩く。
上下関係はメドゥの方が下のはずなのに口振りはまるで対等、臆する気配は微塵もない。
「時間がない。──紅が動いた」
「動いた言うても、ウチらの殲滅やないやろ? アイツらも身勝手には動かれん。そういう制約やしな」
「……違う、紅の契約者が現れた。何をする気かは分からぬが、これ以上遊ぶ時間もない」
「あそんどらんってー」
堪忍やーと、メドゥは笑みをこぼした。頭部の蛇達も媚びへつらうように俯き加減に舌を出す。
化け物であることは変わりないのに、愛嬌があると思わせる振る舞いだった。
三日月状の口がもどかしそうにもごもごと動いた後、虚空から小さな結晶を生み出し、メドゥの掌に乗せた。
「……手駒も出来たのであろう? こいつを持たせ、至急計画を進めろ」
「へーへー。考えとくから帰ってくれへん? あんさんが壊した世界直さんとやから」
「……伝えたぞ」
夜よりも昏い闇が消える。
帰って来たのは心もとなくとも暖かい星明り。
これはこれで悪くないとメドゥは小さく口元を緩ませている。
毎度、騒がしい上司だと愚痴をこぼすメドゥ。セレンは目を白黒させたまま。
「……頼み?」
「んー。……ま、そうやな。でも放置や。まだセレンも仕上がっとらん」
「そう。借りくらいは返したいけれど」
「ほぉー?」
何やら楽しそうな声をひとつ。メドゥが再び分身を生み出し、セレンの顔を覗き込ませる。
ローブに隠れて目元も見えないが、口元は先程の大悪魔を思い出させるほど吊り上がっていた。
「何かおかしい?」
「恩義、なんつぅ概念理解してるやん。くぅー! これが娘の成長って奴なんかっ!」
一人感極まっているメドゥ。彼女の感動をセレンには理解できない。
でも、まぁ。いつも感じている陽だまりみたいな貴重さがある。
いつもそばにいて、無くなってしまうとそれなりに困る──そんなもの。
だから、彼女が嬉しそうならセレンだって暖かい気分になれた。
喜怒哀楽、知識でしか知らなかった概念を最近は肌で感じるようになったセレンは少しずつ何者かに成ろうと変化を続けていた。
──果たして、それが進化か退化か分からないまま。