模造
『その翼──!? 墜ちて──!? 私の妹は、そんなことしないッ!』
「……!!」
がば、とセレンが勢いよく起き上がる。
ぐっしょりと汗を吸った服が気持ち悪い──なんてこともない。
彼女は天使であり、発汗作用もない。本来なら睡眠を取ることも、夢をみることもないはずだが、今の彼女にとってはある種の福音でもあった。
「……気分はどうやー?」
「──!」
物理の波が耳朶を打つ。驚いて振り向けば、頭髪が蛇になっている美女──メドゥと名乗った悪魔が立っていた。こくりと首を傾げる姿は愛らしいが、彼女はセレンの何倍も大きく、その気になれば手で包み込んでぐしゃりと潰せてしまうくらいの体格差だ。
「……」
それでも、セレンにとっては恩人である。
なんとか会話しようと試みるが、まだ言葉を口から発することは出来なかった。
機能としてはあれ、あーとか、うーとか、そんな母音だけを形にするので精一杯。
精神を介さず、音波を使うようになってまだ一年も経っていない。
赤子と考えれば納得のいく醜態である。
天蓋のついたベッド。垂れさがる半透明のカーテンレース。基盤は金で出来ているくせに、セレンの体を押し返すクッション性がある。
ベッドと呼ぶには大層な寝台で、睡眠という概念を理解しただけの存在には不可解な代物でしかなかった。
彼女からすれば、睡眠は機能停止と同義で。
地下施設に並ぶカプセル。ぽこぽこと泡立つ緑の液体沈む同族。羽をもがれたものから、もはや肉片と変わりないものまで様々で。
何度も悪魔や魔物に弄ばれお世話になった身からすれば、比較的理解のあるほうだと自覚があった。
「無理に喋らなくてもいいんやで、念話でええ」
『ごめんなさい』
「かたくるしいなぁ」
あははーとメドゥが笑う。まるで鈴のようなコロコロ具合。
頭部で舌を出して蠢く蛇達と似合わず随分と柔らかな雰囲気だ。
だが、体長五メートルほどの巨体であることを鑑みれば可愛いなどと呆けている間に押し潰されるだろう。
セレンの元を訪れた複製体とはるかに違う大きさに、セレンも未だ慣れていない。
「でー? 調子はどうなん? 翼の方は……しっかり変わってるみたいやけど」
『……変』
小瓶に入っていた魔力をほんの一口含んだセレンの体は器が耐えきれず爆散。
再生用の培養液で修復したのはいいものの、その頃には翼が真っ黒になっていた。
再生が終わるや否や天使に追い回され、信頼していた姉にも突き放され、どうにもならないまま逃げ回った先で悪魔メドゥの分身に保護されたのだ。
「まー、普通は飲めるわけもあらへん魔力の塊や。いくら再生したらって生きてる方がめずらしいくらいやからなー」
『……』
そんなものを飲ませたのか。
明言はしないが、隠しもしない不満の感情を表情にも念話にも込めてメドゥを睨んだ。
「アッハ! かわいーなキミ! ほっぺたぷくってしとるやん」
「ぷー」
ほんのり膨らんだ頬をメドゥは指先でやさしく押しつぶす。
気の抜ける空気の音が駆け抜けて、メドゥの指先に暖かい息がかかった。
「ええかー? 悪魔なんて天使と違ってジブン勝手に生きとるんや。信用する方がバカなんやで?」
『しらない』
これまた頬を膨らませ、セレンがそっぽを向く。
カーテンレースが薄く見せる外の景色は妙にのどかな野原。
地平線すら見える緑の地べたはただ草が生い茂るだけで、木の一本すら見当たらない。
雲一つない晴天の青空。申し訳なさそうに光源たる太陽がぽっかりと浮かんでいた。
何かを再現した場所なのか、差し込む日の光に暖かさはなく、空に浮かぶ太陽はただ光源としての役割しか果たしていない。
温度という概念が薄い悪魔らしい場所だった。
その微妙な違和感にセレンが顔を顰めていると、メドゥが自慢げに語り出す。
「すごいやろ。ウチが作ったお昼寝スポット! ほんまはこんな広ないけど、ちょーっと空間捻じ曲げて広くしたんや」
「そう」
「……すごーいくらいいってくれてもええやろ」
「すごーい」
「……はぁ。まぁええわ。元気見たいやしな」
セレンが目を瞬かせる。
彼女なりに驚いたつもりで、その証拠がきちんと自分の口で喋ったことなのだが、念話を介していないせいで語彙力が足りない。足りないどころか喪失している。
だが、それを彼女の様態に詳しくないメドゥが分かるはずもなく。
遅れて湧いた罪悪感も、言葉にすることも出来なかった。
「元気」
「……みたいやな。じゃ、次は特訓や。せっかく魔力が増えても使いこなせな話にならん」
「とっくん」
「そや、特訓。今後のこと考えると、まずは変装なんやけどー……どないしよか。ウチも小細工得意じゃあらへんし……」
んー、と唸りながらメドゥが緑の敷布団に寝転がる。
巨人と言っても差し支えない体は寝返りを打つだけで振動が走った。
「そや! セレン! こいつ真似してみぃ!」
言うや否や、メドゥが指を慣らす。
自堕落なお嬢様が執事を呼び出すかのような指鳴らし。
呼び出された哀れな召使いは、セレンが見慣れた模造の天使。メドゥの分身だ。
「魔力視はそこそこできるやろ? ゆっくりでもいいからこんな感じになってみぃ。今のセレンはちょーっと天使から遠いからなっ」
「まね……」
その単語はセレンの中に潜む劣等感を大いに刺激した。
真似をしようとして出来なくて、落ちて、食われて、堕ちた。
アメーバみたいにへばりついて、セレンの心の中を蝕むモノ。
ほどけそうでほどけない糸みたいに絡まって、無視することは出来るけど、見ているとムカつく──そんな奴。
セレンには成功体験が少ない。
ポテンシャルこそあれ、自分が出来ると信じるどころか、同じ能力を持っていることすら疑い。出来ない自分を信じてしまっている。
そんな状態では出来ることも出来ない。感情の下振れは自分を信じられないからこそ起きてしまう。
だから、まずは自分が出来ると実感すること。
それが彼女が彼女の力を信じるために、メドゥは試練を課した。
ゆっくりでもいい。スタート地点に立つことから始めるべきだと。
セレンが目を閉じて集中する。
幾度も再生を繰り返したからか、魔力の知覚能力は高い。故に、悪魔を察知するのは得意だった。
奇襲を防げても勝てると限らないのは別問題であるが。
ともかく、本来なら天使には見分けられないメドゥの分身も彼女には手に取るようにわかる。
あとはそれを真似るだけなのだが、魔力の操作に関してはお世辞にも上手いと言えない。
──つい先日までは。
「……え」
声が漏れる。
全身を駆け巡る魔力も。浮力を発する別器官、翼の魔力も。大気と共にさすらう魔力も。
どれもこれも、手足のように動かせる実感があった。
水の中にいるのに、自分の体はすいすいと動かせるような。
それでいて、周囲の水流を動かして加速することも出来る状態。
突然の全能感に目を白黒させつつ、セレンが赤子みたいな好奇心のまま、指を宙で走らせた。
ルーンを描いてみる。
姉から教わった擬態のルーン。思い描いたものに、堅実に想像出来たものを自身に貼り付ける術。
描き上がり、光を発したルーンを見届けてから、ちらと背中を振り返る。
「……白」
墜ちた証を示す黒翼。
見るたびに姉への罪悪感を思い出させる烙印。
欲望に負けた自分の罪を記す回顧録。
それをすべてを覆い隠す模造の白翼にセレンが声を漏らす。
「センスあるやん! そーそー。そーゆーの!」
模造のメドゥが駆け寄ってきて、セレンの背中をバシバシと叩く。事務的なやり取りしかしない天使のと比べれば、満足を通り越して過度なスキンシップ。
よりにもよって今翼を作ったばかりなものだから、せりあがる衝動のままむせてしまって。
「あ」
我がことのように破顔していたメドゥが、目を丸くする。
慣れていない模造のルーンは一瞬で剥がれてしまった。
「……」
「ごめんやん! 一回いけたから次もすぐ行けるって。な!?」
「何も、言ってない」
「めぇや! 目が語っとる! それ人殺せる目ェやで!」
「ふふ」
別にそんな怒ったつもりもない。せっかくできたのになぁと、軽く不満の気持ちを込めただけだ。
けど、そんな気持ちをまだ言語化出来ないし、ジト目で答えただけ。
許してくれー、とセレンに抱きつくメドゥが面白くって。
そんなに謝らなくてもいいのにと、思いながら薄い笑みを浮かべる。
自覚のない喜びの感情は、しがみついてくるメドゥの体に腕を回させた。