零点、即ち起源
『セレン』
落ちこぼれの天使に与えられた唯一の名。
自身が呼ばれていることを聞き入れ目を覚ます。
五体満足の体が硬い床に横たわっていた。寒暖を感じる機能も天使にはない。局所的な温度に影響されて動きが鈍ることはあれ、多少の変化では正負どちらの感情を抱くこともない。
おっかなびっくり体を持ち上げ、周囲を見ても、魔物も悪魔もここにはいない。
ようやく確保された安全に胸をなでおろしたセレンは何故か己のそばにいる天使へ目を向けた。
セレンと瓜二つの少女。強いて言えば彼女の方が身長が高いような気がする。
『姉』
『どうしてターゲットを殺せなかったの?』
彼女は試作品よりも後継モデルでありながら、何故かセレンの姉としての役割を与えられた。
この場合姉と妹が逆じゃなかろうか。
基礎知識として植えこまれた概念が彼女の頭を悩ませるが、今はさして問題ではない。
尋ねられた詰問をどう乗り越えるかに彼女の思考が総動員されていた。
『……油断』
『そう……』
姉はセレンを責めたい訳ではない。理由は知らないが、何故か姉を名乗るこの人は自分を案じてくれている。
一人前の天使にしてくれようと手伝ってくれる。
もしかすれば、落ちこぼれである自分を一人前に育て上げるため、用意された天使なのではと疑ったこともある。念話の具体性が他の天使より高いのも要因の一つだ。
単語だけしか聞き取れないセレンの不備を補うように、姉はいつも文章で伝えてくれた。
『もっと強くなりなさい。権能に頼らないルーンを使いなさい』
『……印、使用不可』
『私が教えるから』
『……了解』
姉は根気よくセレンに付き合ってくれた。
何故と聞いても姉は首を横に振るだけで、理由を語ることはなかった。
基本的にはセレンに優しい彼女が頑なに譲らない一線だった。
『──完遂』
『よく頑張りましたね、セレン! おめでとう!』
何度も何度も失敗を積み重ね、ルーンを扱えるようになれば成功も混じるようになってきた。
姉も我が事のようにセレンの成功を喜んだ。
けれど、十の内一しか成功を得られないのはやはり未熟で。
失敗をすれば悪魔に弄ばれる。それだけならむしろマシで、捨てられた瀕死の体を魔物に貪られる悪夢はもっと惨めで苦しい。
視界を保つことすら困難になったセレンが気を失えば、硬い床で目覚めることが大半だった。何度も断たれ、食われ、穿たれた四肢はもはや自分のものなのかと疑うほどに再生を繰り返された。
知識としてはある痛覚がないのであれば、これは借り物の体なのではないかと。
目覚める度、セレンを覗き込んでいる姉の瞳を目にする。
安堵、心配、不安、失望、諦観……色とりどりの光が渦巻いている金瞳。
『謝意』
『いい。無事に帰って来たならそれで』
繰り返された進歩なき日常。
代わり映えのない日々はセレンの感情から抑揚を奪っていた。
寄ってたかって貪り食われることすら、別の誰かを傍観するぐらいにまで他人事で済ませられた。
だが、記録全てを共有している姉は違う。
自らに与えられた役割を全うできないことに、失望し、来る日も来る日も送り続けられる妹の無残な姿。なまじ主観じゃない分、彼女が朽ち果てていく経過全てを知れることは心を大いに蝕んだ。
『──もういいわ。貴方はここを出ないで。大丈夫、貴方の分もお姉ちゃんが働くから』
やがて、後継モデルである姉にも搭載された感情がついに爆発してしまった。
セレンよりも振り回された分流暢になった文章表現。
それは皮肉にもセレンを育てるためでなく、天界で結び付けておくために使われるようになっていた。
そして、姉は妹を置いて彼女の分の仕事を代替し始めた。
それについてお咎めがあるわけでもなく、当たり前のようにただ天界で佇むだけの生活を過ごした。
セレンに暇という概念はなく。何もしないことは苦しくない。
けれど、周りに出来ることが自分は出来ない劣等感は彼女の感情を大いに刺激した。
気を失うことも、四肢を失うこともない。それはきっと幸せなことのはずなのに、出来ることがないか無意識に探す自身がいた。
だが、所詮は模倣の世界に彼女を変えられるものなどあるはずもなく。
あるとすれば、それは外の世界だけだった。
『ねー君。もしかして、他の天使と違うん?』
『……警戒』
そして、きっかけも突然だった。
天使たちが身に着けるローブを着込み、フードを目深にかぶった女性。
ぱっと見は女性型天使に変わりない容貌。けれど、天使の瞳が見通す魔力が、魂の質が、同族でないことを強く訴えている。
同時に、その見慣れた魔力は彼女が何度も打ちのめされた悪魔側の存在であることも。
マグマのように煮えたぎる魔力。濃縮され、目を逸らそうとも逸らせない暗い輝きを魅せていた。
『アハー……面白いなー! 感情がある天使さんなんやっ!』
『……光槍、展開』
姉に何度も習ったルーンを刻む。
感情の振れ幅のせいで、安定しなかった魔力出力も、繰り返した分だけより精密になっていた。
けれど、彼女はまだまだ未熟だ。会話と呼べる会話を繰り返した回数は人の子供未満。
唯一親族レベルで会話を交わす姉とも仕事がらみでしか話さないし、話せない。
所詮は模造品。情報伝達に会話を必要としない故だが、コミュニケーション能力という点では人間と比べてもはるかに劣っていた。
『……ね、きみー。力に興味ない? 他の天使みたいにちゃーんと戦えるちーかーらっ』
『──』
他の天使のように。
そのフレーズはセレンの奥で燻っている何かを大いに刺激した。
悪魔も悪魔で、何やら妙な天使がいるとの情報を受け、スパイとして活動していたとある悪魔が接触に乗り出したのだ。
悪魔に組織的な活動はない。それぞれが己が欲望のまま魔力をかき集め成長することのみを主体とし、その上で様々な趣味に耽る自由の象徴。
そして、天使に扮していた悪魔も妙な天使に興味を持って接触を試みたのだ。
無論、ただの善意でもない。彼女なりの好奇心や目論見を果たすための踏み台に過ぎない。
だが、企てを看破できるほど、彼女に心の余裕もありはせず。
何より、これで姉に心配をかけることも、失望されることもないのであれば、きっと嬉しいことだと心から思ってしまった。
いつもはちっとも役に立たない愚鈍な頭が、この時ばかりはいともたやすく縦に振られる。
『……ふふーん、良い返事やん。じゃ、はいこれ』
ぱし、とセレンの手をひっつかまえ、生暖かい何かを握らせる。
感情を得たせいか、それがほんの少し熱をもっているということを知識ではなく、造り物の肌で理解する。
一瞬目を白黒させたセレンは宝物を確かめるみたいに、そっと握り拳を花開く。
白磁の花弁が開き、掌には紫の液体が入った小瓶が収まっていた。
『疑問』
『これ? 別に、なんてことないただの魔力の塊。ウチの、悪魔としてのとっておきや』
彼女は語る。
悪魔とは仲間など持たない孤独な生き物。群れることこそあれ、常に同族を出し抜くことだけに専心する。
時には同族殺しも厭わない。むしろ、積極的に乗り出そうとすらするだろう。
だから、悪魔は己の手札を重視する。
手札の数を、札の質を、とっておきの切り札を。
そして、今握らされた小瓶はとっておきの中のとっておき。
技でもなく、武器でもない、全てを覆す大魔術でもない。
ただの質量。圧縮に圧縮を重ねた魔力そのもの。
どれだけ濃くなろうと、所詮は揺らめくだけの気体をかき集め、小瓶一杯に溜まるほどため込まれた魔力塊。
本来であれば、少しずつ取り込んで己の糧にするのが悪魔らしい在り方だ。
だが、この悪魔は取り込むのですら一苦労な量を固形にして持ち歩いていたのだ。
その異質さは悪魔について詳しくないセレンには計り知れぬ事実で。理解は及ばない。
分かりやすく言い換えるならば、一口含むだけで体が破裂する栄養素が詰まっているに等しい。
つまり、自分のために使うことすら叶わない状態だ。
『君、他の天使と違うっぽいから、こーれ、飲めない?』
『疑念』
天使の体は良くも悪くも完成されている。種として到達している。
長年にわたって継承されてきた技術のようで、研究されつくしているモノ。
成長の余地はないが、不安定さもない完全性だ。その強さは作られた時点で決定される。
だが、こと試作品においては話が違った。
感情による振れ幅を観察するため、基礎能力こそ他の天使と変わらないものの、潜在性の点で不安定さを持っていた。
その不安定さのせいでセレンはまともに能力を扱えなかったのだが、この場においてはむしろ追い風になっていた。
だからこそ、この千載一遇の好機を逃すなんてありえなくて、迷いなく彼女は瓶の蓋を外し、口元へ瓶を運んだ。
『……』
『あ、飲むときは気を付けてね、一口だけにしておかないと──存在ごと吹っ飛ぶから』
「ごほっ!!?」
咽た。それは大いに咽た。
思い切り瓶に口づけてから思い出したかのような台詞。
もう少しタイミングというものがなかったのか。
具体的に言語化できないにせよ、似たような不満の感情がセレンの頭を覆いつくして──
喉を通り過ぎた何かが爆発した。
ぴしゃり。
鋭く、空を裂く水音が響いた。
何種類もの白で形作られた世界の片隅を血の爆弾が汚す。
「あ、言うの遅かったかな?」
白から赤へと塗り替えられたフード。
その奥でぽかんと口を開けた悪魔がやってしまったと苦笑を漏らした。