幕開け
「ふざけてなんかぁ、ないさね」
ルーツェは老婆の意思の前に言葉を失う。
あたかもそれは今からあの悪魔をなんとかしようと言っているように聞こえたからだ。
──出来るはずがない。
率直な感想。即応で湧き出た諦観。自分が何も出来なかったことを否定されたくない願望。
まぜこぜになった感情を込めた内心の呟きが零れてしまったのか、目の前の老婆が真面目な雰囲気を仕舞いこんで、ヒヒヒと奇妙な笑い声をあげていた。
「ばーさん!!」
「ひゃっ!?」
ルーツェの目の前で突然人魂が炎を揺らめかせ現れる。
鬱屈な気分すらも驚愕に染め変えたのは、いまだ謎多き悪魔の卵、フレアだった。
「お帰り、どうだったかい?」
「ラグ―が! ラグロスが死んじゃった!!」
「────え……」
そして、知りたかった男の名と、結びつけたくなかった単語が、驚愕によって浮かび上がった彼女の心を再び奈落へ叩きつける。
感情のジェットコースターにもう彼女はついていけなかった。
しかし、目の前の老婆はラグロスの存在を認知していながら大した感情の起伏を見せなかった。
まるで、想定内と言わんばかりのように。
「……そうかい。で、涙はちゃんと触ったんだね?」
「──触ったぞ! あのでっけぇのにとられる前に一杯食べた!」
「ならよし」
老婆に人の死を悲しむ様子は欠片も感じられない。予定調和だと、受け入れるべき被害だと、飲み込むべき事実だと彼女は折り合いをつけていた。
だが、同じことを彼を想う少女が出来るはずもない。
思わず老婆の胸ぐらを掴んで、彼女の体を引き寄せる。
「──ラ、ラグロスは……!」
「お黙り──お嬢ちゃん」
「だって──」
「お黙りって、言ってるだろう?」
「…………」
ルーツェが大きくたじろいで老婆の胸ぐらから手を離す。
我に返ったわけでもなく、老婆から溢れた威圧感に思わず手を放してしまったのだ。
車椅子に座ってまともに動けないようにしか見えないのに、この老婆に勝てないと断言できるほど力の差を感じた。
た、た、たと茫然自失で後ずさりをしたルーツェ。
そこへ、再び人魂が割り込んで存在を主張するが如く炎を強く揺らめかせた。
そこでルーツェにも疑問が湧く。周囲を見回す。誰もこの不可思議な炎に一つも興味を示していない。存在にすら気付いていない。
確かに、町を襲う強大な存在に目を奪われるのは仕方がないが、一人くらいは気付いたって──
「お嬢ちゃん。余計なことは口にするんじゃあないよ。アンタに見えるのも、アタシからしちゃ予想外なんだからね」
「……どういうこと?」
「ま、黙って見てな。──フレア」
「なんだばーさん!」
老婆が右腕を伸ばし、何かを差し出すように掌を上向ける。
フレアは老婆の掌に乗りかかると素直に応えた。
「アンタにはアタシの記憶を追っかけてきてもらう。そして、アンタが生まれた場所まで辿ってもらう寸法さ。
……で、分岐点を見つけてくるんだ。転換点を探し出すんだ。アンタは未熟な悪魔さね。だから、ラグロスを助けるにはまだ足りない。分かるかい?」
「……よく分かんないぞー?」
「散々連れまわしてやっただろう? あれはアタシの改変。別の因果。平行世界の枝分かれさ。そして、アンタは悪魔。アタシよりもきっと平行世界の揺らぎが見えるだろうさ」
「んー……」
まだ知能的にも幼いフレアに老婆の言葉は解せなかった。
けれど、自分が何か大事な役割を任されて、それをこなすことでラグロスを助けられるのだと言うことは何となく理解した。
だから。
「やっぱりわかんない! でも、オイラは何でもやるぞ! ばーさんのためだからな!!」
「ヒヒヒ、やっぱアンタはアタシの可愛い子供だよ」
老婆は機嫌を良くして楽しそうに笑った。この子は純粋だ。穢れも知らず、悪魔における魔力の貴重さも知らない。そんな子供を一人送ってしまうのは老婆にだって抵抗があった。
いつだったか聞いた無償の愛とはこういうものなのかと、老婆は一人納得する。
だが、いつまでも葛藤してはいられない。すべてはこのために辿ってきたのだから。
「…………」
ルーツェは異常な親子のやりとりを黙って見ていることしか出来なかった。
話からするに、この人魂は老婆の子供で、その子供に何か重大なことを一人でやらせようとしている。
それがどんなに過酷かルーツェには何となくわかる。
自分もただ一人知らない場所に行って、野良犬のような暮らしをしていた身だ。
だからこそ、老婆のほんの少し陰りのある表情を見てしまえばもう言葉を挟むことなどできなくなった。
「さ、ぐずぐずしちゃあいられないよ。フレア、お前の思うようにやってみな。何、心配はいらないよ。アンタはただの傍観者。揺らぎを見つけて食べてくるだけでいいさね」
「わかった!」
「いい子だよ。じゃあ──行ってきな!」
老婆が目の前の人魂に息を吹きかける。
弱りに弱った肺から噴出された空気が人魂の体を火の粉へと変えて、天へと昇らせる。
ぱち、ぱちと火の粉が弾けながら空へと舞いあがる光景は、こんな状況じゃなければ見とれてしまうくらい幻想的で綺麗だった。
だからルーツェもたったひと時の会話で心を惹かれてしまい何か同情をしていた。
あの得体も知れない人魂に深い感情移入をしていたのだ。
「さて、アタシもやることをやるとするかね」
老婆が車椅子を回転させ、もう半分以上が崩れ去った港町へと車体を向ける。
まるで今からシーフィルに向かおうとするかのような動きに、反射的にルーツェが進行方向に体を割り込んだ。
「──何するつもり?」
「最後の大仕事だよ。……アンタ、ラグロスを助けたいんだろ? 伝えたい想いがあるんだろう? せっかくだ、しがない老婆の手伝いでもどうだい?」
「何をするっていうの……それに、ラグロスはもう──」
「あぁ、死んだね。アタシも見たから言い切れるとも」
「……見た?」
もしや老婆もあの最奥に居たのだろうか。だが、そんな動きにくそうな体でここまで逃げ切れるはずもなさそうだ。第一、この人は一体誰の知り合いなのだろうか。
一瞬で疑問が山のように積みあがる。
「今になっちゃただの記憶さね。で、どうするんだい? 時間はあんまりないんだ。行かないなら置いてくよ」
「行きます」
即答だった。疑問の氷塊はルーツェの周りで大量に転がっている。
だからどうしたと言うのだろうか。彼女が今やりたいことは現状への理解ではなく、現状の打破──ひいては愛しき人の救出。
そのためならば手段など選んでいられるものか。
「ヒッヒッヒ! そうこなくっちゃね、ノリが良い子は好きだよアタシ。さ、時間はないんだ。さっさと跳ぶよ!」
ルーツェの即答に気分を良くした老婆がぐるんと意味もなく車椅子を回転させた。
喜びでも表しているのだろうかと、ルーツェが小首を傾げた瞬間。彼女たちの姿はこの丘から煙のように消え去った。