偉大なる大海
太陽の光も届かない深海世界。海藻が生み出した空気の泡が静かな水の世界にビートを刻んでいる。生命の気配はない。ここに居たはずの生命はより強大な超常生命を恐れ、大小関係なく逃げ出している。
それでもなおここに居るのは、命知らずの愚か者であるか──愚か者の汚名を払拭できるほどの実力者であるかだ。
「……恐らくこの辺りのはずだ」
「時間はどう? まだ大丈夫?」
「問題ない。活動費も十分に貰っている」
不安げに問いかける白衣の女性こと氷。
そして、余裕な態度を崩さない黒騎士──ではなく、金色の鎧に身を包んだ騎士が一軒屋程度の面積を持つ半球状の壁を生み出し、水圧を防ぎながら深海を歩いていた。
彼の鎧と同じ金色の壁は二人を押しつぶす水圧から守ってくれている。
海底を歩くことが叶わない人間であるはずの彼らがラグロス達に晒すこともなかった力を用いて、とあるものを探していた。
「掌握魔力は後でも使うんだから……無理は禁物。分かった?」
「分かってる。でも、見捨てるのも違うだろう?」
「当り前ですー。──あれ……!」
「おい、あんまり前に行くな」
ぺしん、と金騎士の肩を叩いた氷が何かに気付き、パタパタと走っていく。
金色の壁は金騎士を中心に発生しているので彼もまた慌てて後を追った。
「……これ、だよね?」
氷の目線の先、深海に突き立てられた大剣とそれが刺し貫いている肉のような何か。
命があったと思われる残骸に二人の目が吸い込まれていた。
「……だな」
金騎士が小さく頷き、懐を漁る。彼が取り出したのは暗い深海でもほのかに蒼く輝く鱗だ。
この蒼い世界でも負けない煌めきの鱗は掌すら余る大きさである。
「これを置いておくだけでいいんだっけ?」
「らしい、けどね。私達も仲介でしか会ったことがないし、これが初めてだし……」
「……それは、ワクワクするな」
「ふふっ! じゃあ、猫がやっていいよ」
声を上擦らせ、金騎士が仄かに笑う。寡黙な騎士に似合わぬ楽しげな声だった。
騎士が見せた年相応の男子の姿に氷も彼の用意された偽名を口にした。
それを聞いた金騎士が肩を竦めた後、ぎこちなく鱗を大剣のそばに置いた。
「どうしてそれなのか、俺には分からないんだが」
「……君の名前、私の時代の物語で出てくる猫と名前が一緒なんだもの」
「そうなのか」
「これが終わったら見せてあげる」
「ああ、楽しみにしてる」
金騎士が頷き、氷が微笑む。誰も居ない水面の境界も超えた奥深き場所で、二人の世界が作られていた。
『……お主は紅の所の奴だろう』
「……その紅からの使いだ。資格は用意した。試練を受けたい」
二人の他誰も居ないはずだった深海に、威厳を備えつつ、幼さも兼ねた声が響いた。
声は幼児、しかし語気は老齢さを感じさせる。どこか敵視するような鋭さに二人は驚きこそすれ慌てることもなく言葉を返す。
『──目的はなんだ。他所の契約者に課す試練はない』
「俺らにやれなんて言ってない。そこで倒れている奴への試練を頼みたいだけだ」
『……ここに、お前たち以外の命はないぞ』
くぼんだ大地を埋める大量の水が大気の代わりに震えた。
海流で渦巻く水の振動は、どこにいるかも分からない誰かの声を伝えるための媒体だった。
「知らないふりをする調停者はおかしいと思う」
『人間ならまだしも、監視対象に手を貸す義理はない』
「……それで、この辺りを見殺しにしたとしても?」
『儂は儂の仕事をするだけであるっ。たかが人の子に面白がって力を貸す紅とは違うのだ』
拗ねるような海の言葉。そこには人間への蔑視がある。
騎士も、氷もその訳を知っている。調停者という物事への干渉を禁じられた彼らだからこそある悩みを調停者の知り合いを持つ身として知っている。
理不尽に抗う人間達を憐れみ、その中でもひときわ輝く魂に心を震わせ、健やかな発展を願って鱗を授けた。
そんな彼らが鱗を求めて争い始めてしまった悲劇を知っている。
だから、彼らも子供みたいな我儘──それでて一つの真理を調停者が訴えようと、激昂することはなく、ただ諭すように言葉を綴り続けた。
「ねぇ、蒼の調停者さん。きっと、貴方は鱗を与えた人間がそれを悪用したのを悔いている。……でもね、だからこそ貴方達調停者さんは試練を課すんでしょう? 手を貸してなんて言わないわ。その人がちゃんと貴方の力を借りるにふさわしい人かを確かめて欲しいの」
『だが、そこに散らばっている魂は……天使しか──』
「気付いているだろう。偉大なる蒼」
氷が火を着けた導火線を丁寧に伝え、騎士はその火をつけた砲台の存在を教える。
小さな、けれど確かな小爆発は偉大なる海に例外の存在を示した。
『ほんとうだ。これは、おもしろい!』
「ふふ。でしょう? きっと彼はまだ気付いていないけれど、彼は後悔していない。だから私達も力を貸したの。だから──」
『ああ、いいぞ──』
偉大さが抜けかけの歯みたいにころりと抜け落ち、子供みたいな口調が前面へと押し出される。
彼らの知る調停者とは違った雰囲気に氷がくすりと笑みをこぼした。
『資格は貰った! 我が蒼の試練──砕いて見せよ!!』
海が咆える。地表の誰もが気付くことなく、深海の底で伝説が生まれようとしていた。