馬鹿やるのも
「そういうわけで、僕はチリーとここまで来たのさ」
つまらない話だったでしょ。と肩を竦めたリットが今しがた座っていた水底珊瑚から勢いよく飛び降りる。細身の彼は猫みたいにしなやかな着地を決め、昔話をしてくれと頼んできたドーレルを振り返った。
風の踊り子たちの第一目標は皆で下層へ行くことだ。まずは中層の門番を突破しなければ話にならないのは決まっていたので、中層奥部の終着の滝底へと潜っていた。
最短距離で二日かけ、門番のいる手前まで来た一行は現在二度目の野営を取っている。
役回りとして最後の見張りであるドーレルが聞きたいことがあるとリットも巻き込み、リットとチリーがここに来ることになった話を暇つぶしにしつつ二人で見張りをしていた。
「随分と熱烈なアタックですね──いやはや、さすが若者」
「僕だってあんまり意識しないようにしてるんだからにやにやしないでくれるかな?」
ドーレルが苦笑する。リットとチリーが仲が良いことは踊り子での周知の事実。ただ、端くれとは言え貴族であるリットと平民であるチリーが一緒にいる理由が彼には解せなかった。故に聞いてみた話だ。
さらに言えば、ラグロスとルーツェはつい二日前の朝に話を聞いていたとかで、のけ者感に思うところがあったからなんて理由もある。
彼の内心はさておき、初耳である彼らの馴れ初めにドーレルは思わず酒が飲みたい気分になってしまった。
あまりにも酒の肴になりそうな話ではないか。根本の原因こそはドーレルが探索者をやる理由にもなった数年前の不作、飢饉に関わっているので可愛そうと思う気持ちはあるが、それはそれとして若いとはいいものだと思わずにはいられない。
「それは無理なご相談です。ラグロス君とルーツェさんがにやにやしてたのも納得ですよ」
「……チリーもなんで急に話したんだか」
「さぁ? 私にも分かりかねますがただの流れでしょう。たまたま聞いていなかっただけですし」
「そう、だね。チリーが話してなかったら僕は話す気なかったし」
「でしょうね。甘酸っぱかったとだけ感想は言いますけど」
「……あーもう」
ぐしぐしと灰髪をかき分け頭を掻くリット。彼にしては珍しい態度で、それだけ狼狽えているのが分かった。
そんな彼を見てドーレルが口元に緩い弧を描く。ずいぶんと微笑ましく今後の酒の肴になりそうな話、もし機会があれば妻に話すのもいいだろうと彼は想像を膨らませる。
当時商人だった彼と今の妻との出会いはそう特別なこともなく、商売相手である親の知己の娘と見合いをして、流されるままに人生を共にする契りを交わした相手だ。
だからと言って愛していないだということは勿論なく、愛妻家だと言い張れる自負すらある。
語れと言われたなら存分に語ってやろうとラグロスを引き連れ、永遠妻の話を垂れ流しながら居酒屋をはしごしたのが彼の記憶に懐かしい。当然、ラグロスは途中から虚無と戦っていたが。
月日も流れて子供も出来、順風満帆に暮らせていたあの頃を壊した突然の不作は恨んでいるが、結果として家族に不足ない生活をさせられていることに今は満足していた。
不満があるとすれば仕事柄家族に会える時間が少ないことだが、そればかりは仕方ない。
それに、ここには世話になっている。我儘など誰が言えようか。
──故に。
「ラグロス君の願い、叶えてあげるんですか?」
ドーレルを一言一句ゆっくりと確実に、本題である問いを口にした。
そこまでチリーのことを想いやっていながら、より死地へと飛び込もうとする理由など彼には理解できない。
──ここには世話になっている。だが、ドーレルの秤では家族が一番の重みのある代物だ。
「……妙なこと聞くなーとは思ってたけれど、それがドーさんの聞きたかったこと?」
「そうですね」
「色々あるけど、ただの利害の一致だよ。僕は実家を再興したかった。だから迷宮の奥へ行って名を上げたかった。ラグロスは迷宮の奥にいるセレンさんに会いたかった。──ほら、一緒でしょ?」
そういったリットの顔はとてもそうには見えない。
先程の昔話をしていた時よりも声は低く、つとめて抑揚を減らし作り上げられた平坦な口調。
なるべく平静に事実を並べたと言わんばかりの言葉はどうにも安っぽくて裏があるようにしか見えない。
書いておいた台本を読み上げただけの彼の良いようにドーレルを眉をしかめる。
「あはは、ドーさんにはバレちゃうか」
納得のいっていないドーレルの顔を見てリットは悪戯がバレた子度みたいに、バツが悪そうにして乾いた笑みを浮かべる。
その振る舞い自体おかしいと聞かれたなら、おかしいとは言えないのだ。
リーダーとして感情が混じらないようなるべく客観的に物事を計り、正確な判断を下すための仮初の姿と言ってもいい。嘘だとしても必要な仮面だ。
「別に行くなとは言ってませんよ……貴方の本心を聞きたいだけです。下層なんてもっと時間をかけていく場所です。それに悩みもせず賛同して、ラグロス君が来るとも限らず計画を立てていた理由が何故か、とね」
「なんで、か。……ねぇドーさん。つまんないこと言っても良いかな」
「……どうぞ」
随分と後ろめたそうに、口をもごもごとさせるリット。
どちらかといえばハキハキと物事を語るリットには似合わないが、先程の話を聞けば彼も一人に人間に過ぎないのだと納得させられる。
だからドーレルも素直に頷いて彼の口元に視線を向けた。
「友達の頼みって奴、聞いてみたかったんだよね」
「……は?」
ドーレルの間の抜けた声にリットがあはは、とから笑いをする。
信じられないとドーレルの顔には分かりやすく書かれていただろう。
「知ってるでしょ、ラグロスがあんまり人に頼らないの。頼らないってよりは、一人で出来ないことは請け負わないんだけど。一人でどうにもならない話にはその人を期待させないように、きちんと無視しちゃう」
「あれだけ手を伸ばしているのに?」
「まー、あれはおじさんが要るからってのもあるだろうけど、あいつロクな趣味もないからお金有り余ってるんだよ、何人か養うの余裕なくらいさ。貯めるのが趣味なのかもね。──だからこの前はちょっと意外だったけど」
ルーツェを始め、潮の風見鶏にいる探索者たちを思い浮かべる。あそこの者たちは大概がラグロスの世話になっている。ずっとではないものの、一定期間はラグロスと宿の店主の世話になって衣食住を確保されていた者もいた。
「なんでかは知らないよ? あいつも何も言わないし。……ルーツェ曰く罪滅ぼしらしいけど、それ以上何も言ってくれないから。──あぁ、ルーツェも結構協力してるからってのもあるかも」
柔らかな口調で話すリットもラグロスが絡んでいるからか少しぶっきらぼうでなげやりに話している。
底に込められた感情の是非はドーレルには分からない。
けれどどこかムカついているような、悲しんでいるような──そんな雰囲気だけ感じ取れた。
「ともかく、人に頼んないのさ。僕にとって年が近くい男友達なんて、ラグロスくらいだし。あいつが居ないとお気に入りの酒の自慢も出来ないからさぁ」
「……村では?」
「もっと昔ならいざ知らず、圧政してくるお貴族様なんて嫌われ者だよ」
「……」
「全部が全部じゃないけどね? それで、こう無茶っぽい悩み? ってのを友達だろって安請け合いするの、ちょっと憧れてたんだよねぇ」
「……馬鹿なんですか?」
「あっはは、それは言いすぎじゃないかい? 否定しないけど」
リットは腹を抱えて笑う。青年にしては綺麗で高い声が水滴が作る波紋みたいに洞窟内で微かに響いた。
でも先程の作っておいた言葉よりは感情が色濃く残っていて、これが本心だと思わされるには十分な根拠がある。
「後悔、ないんですか?」
「まだ始まってないよ。それは今から分かることじゃない?」
リットが遠くに見える黒門に目を向ける。あの先に居るのは踊り子には未知の敵である門番が居る。ラグロスは一度突破した相手で、彼が超えたのならうかうかしていられない。
「忠告されたのに、ですか?」
「そうだね」
ラグロスが来る数刻前、突然現れては頭を下げてどこかへ行ってしまった白ローブの少女をリットは思い浮かべる。
あんなラグロスにとって絶好の獲物──は聞こえが悪いが、見過ごせるはずもない相手を無視しろとなんて彼に言えるわけがない。
ルーツェも、それを分かっていたから一人でラグロスを探しに飛び出していったのだから。
「だからドーさんも帰るなら今の内だよ。別に文句も言わないからさ」
「……今になって随分と甘いことを言いますね」
「だってそうでしょ。これは僕が僕のやりたいことをやってるだけに過ぎないし、チリーとルーツェはどうせラグロスをほっておけないって知ってるから聞いてないけど」
「……はぁ」
ドーレルは深いため息を吐く。後悔、諦め、不安、そして微量の興奮。
年老いて尚、こうやって心躍らされる冒険に関わってしまうとは。形は違えど新たな商売に身を乗り出したあの感覚と似ている。
一歩を踏み出せば足を踏み出してしまいそうだが、その先にあるものが眩しくてそこにたどり着く過程さえも思い返せばきっと輝いているだろうと確信を得られる。
これは安定からほど遠い選ぶ必要もない分帰路で、今なら確かに引き返せるだろう。
「いいです、野暮なことを聞きましたね。お陰で目も冴えました。そろそろ時間ですし、皆さんも起こしましょうか」
「……ありがとね、ドーさん」
「貴方達と馬鹿やるのも、それなりに楽しいですから。お気になさらず」
「馬鹿はひどいなー」
空中に放り出された時のように、怖くて恐ろしくて浮き上がる心臓に活を入れつつドーレルは和やかに微笑んだ。