春来たる
リットこと、リベーゼ・ラストコットはシーフィル南西部ヴァリック村、ラストコット家の小貴族だ。
リットの祖父は迷宮暴走と呼ばれる魔物の大量発生で武勲を立て、貴族の端くれとも呼ばれる騎士爵もとい体の良い迷宮付近の領地管理を押し付けられた。
決して高くない貴族の階級はどうあれ、そこに生まれた以上は祖父の名に恥じぬよう生きるべきという教訓があった。
迷宮付近は魔力が潤沢らしく一般的な作物より変異したものが採れるようで、一種の特産品として売りに出すことでラストコット領は栄えていた。
それが崩れたのはラグロスやルーツェの地元が不作に苦しみだした頃。
同時期に起きた不作の被害はヴァリック村にも及んでいた。被害を受けたリットやチリーだからこそ分かることだが、不作なのではなく実際には周囲の魔力がなくなったのではないかという話だ。
それを裏付けるように、特産品として作られていた作物が一般的なものと遜色なくなってしまい、売れこそするが他の貴族に売れるような高級品ではなくなってしまった。
領地の収益の減少はそのまま領地へと跳ね返る。さらにいえば付近の迷宮生物を狩ることで得ていた素材も、魔力不足のせいか迷宮内ですら迷宮生物の姿が減ってしまったのだ。
「リット、どうせ狩れる相手も居ないんだ。シーフィルとやらにある海底迷宮にいくのはどうだ?」
ある日の夕食の時間に長男である兄からかけられた言葉。
父は病で臥せっているせいで、実質的な権力は長男が握っていた。幼いころから面倒を見てくれていた次男は婿に出ていってしまった。リットに何も言わず出ていった次男の心境は彼も知らぬところだが、この面倒な長男にうんざりしていたであろうことは分かる。
「何故ですか。少ないとはいえ死滅したわけではありません。僕が居なくなれば誰が迷宮関係の案件を処理するのですか」
「あの程度なら俺でも処理できる。というよりお前のいない自警団で十分だろう」
一般的な貴族であれば長男以外は特に使い道もなく婿に行くなり、探索者として名をあげるのもいいだろう。階級が違えば話は変わるが、騎士爵ならばそれくらいの選択肢しか残っていない。
だが、長男は全ての実権を握りたかった。なまじリットが自警団のトップに居るせいでそちらには手を出せない。次男が担っていた魔力を用いた作物の品種改良もすでに長男の手へ渡っていた。
村の権力を分離させているのは父の言葉のおかげだ。跳ねっかえりで自我が強い長男に憂いを覚えつつも、政治にまで手が回らない病弱な体のためのことである。
「……お言葉ですが、仮に僕が離れたとして何をする気ですか」
自惚れている。と内心でため息を吐きながらリットが尋ねかける。
ラストコット家の経営は右肩下がりだ。根本は神の迷宮以外の地域で起きている唐突な魔力喪失のせいでもあるが、それを持ち直そうとして知識もない癖に様々な実験に手を出し、浪費を重ねる長男のせいでもある。
その資金を迷宮外に出る生物が減ったことで拡大しやすくなった領地を整えるのに回し、畑を増やす方が堅実には出来たのだから。
「──そんなものはどうだっていいだろう! それに、権力を分けるのが間違いなんだ。まったくもって面倒だ」
嘘がバレた子供みたいに声を張り上げる兄がやりたいことは、リットにも予想がついている。
より単純な資金源こと迷宮生物を討伐しその素材を金にしようということだろう。リットを通さず自警団へ内密に送って来た指示書からバレた計画だ。
──指示書にしろなんにしろ、もう少しまともな方法を使って欲しいと我が兄のことながら憂いたのをよく覚えている。
「そんなことは父に言って下さい。それに、迷宮生物の討伐は人員の損失が恐れられる案件です。せめてまともな引継ぎを終えてからじゃないと話になりません」
成功の見込みが薄いし、何より危険だ。自警団につとめているものも、仕事がないので畑仕事や領地開発などの肉体労働の人手にするだけで十分だろう。
そこには若干の贔屓があったことはリットも否定しない。
自警団には幼馴染であるチリーの父が居た。彼を兄の元で働かせ万が一のことがあればチリーに申し訳がたたない。
「俺に歯向かうと言うのか!?」
「何も歯向かうとは言ってません、正しい順序を踏んで正しい管理をしてくれるのなら最悪出て行っても構わないと言う話ですよ」
血が上りやすい兄を諭すようにリットが言う。がたんと椅子から立ち上がり眉を吊り上げる兄の姿はとても尊敬出来る人ではなく、頭痛さえしてきそうだった。
正直、ここにいたって出来ることはない。守れるのはリットが口を出せる自警団周りだけだ。次男に頼まれていた魔力が戻れば元の経営に戻せるようなるべく畑を弄りすぎないで欲しいという頼みもすでに守れていない。
土地を顧みぬ荒々しい実験の末、使えなくなっている畑がいくつか存在しているのに、生産量を落とさないためにと稼働させる畑は変わっていない。となれば土を休ませるのが追い付かなし、そんな状態では取れる作物も痩せ細ったものばかりで品質すら悪くなってしまう。
「……そうか」
含みのある笑みを浮かべて兄はそれきり黙ってしまう。その態度に一抹の不安を感じるもリットが出来ることはない。大人しく自分も食事に戻るだけだった。
それから数日後。事実上の廃嫡を示すシーフィルへの出向命令が出た。ご丁寧に長男の判だけでなく、父の物も添えられていた。何をどう唆したかは知らないが父の意向だとは思えなかったことだけは言える。
「すみませんがチリーにもよろしく言っておいてください」
「……頭を上げてください坊ちゃん」
荷物を纏め、屋敷の者にもあいさつを済ませたリットが馬車までの時間で訪れたのはチリーの家だった。一般的な村民の家屋に過ぎない彼女の家の前で家主であるチリーの父へリットが深く頭を下げている。一領地の当主候補が領民に頭を下げる絵面はあらゆる誤解を招きかねないので、チリーの父が静かながらも断固たる口調で口を開く。
「理由はどうあれ貴方様が頭を下げる必要など私達にはないのです」
「……ですが」
「なので、お気持ちだけで十分です。私だって並の迷宮生物如きに負けるほど衰えちゃいませんよ」
穏やかな顔を緩ませ、リットを安心させるように彼が言う。付き従ってきた主にここまで想われるだけでも光栄です。と付け加えリットの肩を持って上半身を持ち上げた。
「それに……」
チリーの父が背後を見る。リットも習ってその視線を追えば彼の家の家屋とその扉があって、中からはばたばたと忙しない足音が聞こえている。こんな足音をこの家で建てる人物など心当たりは一人しかいなかった。
「リット!!」
二年後よりもまだ幼い顔つきのチリーが飛び出してくる。リットの前では可愛く居たいなどと言っていた彼女の服装はあまりにも機能性を追求した簡素な麻の服で、村で暮らすには必要なさそうな胸当てもつけていた。村娘から遠のいた彼女の背中には大きな雑嚢が括られていて、どうみたって──
「どうして」
絞り切った雑巾からさらに水を振り絞るようなかすれ声で言葉を漏らした。それはどう見たってリットと一緒に行く気しかない装備だ。彼は彼なりに彼女がそのようなものを持たなくていいようにと、そのようなものを身に付けなくていいようにとあの兄の元で試行錯誤していたと言うのに。
「えー? リットって素直じゃないし、いっつも腹に一物? ってのを考えてばっかで楽しくないでしょ? あたし以外友達もいないから着いて行ってあげようと思ったのに、酷い言い草じゃなーい?」
「それは──」
そっちもなかなかに酷い言い草だなと、挑発に乗る余裕は彼になくて。
せめて自分が手の届く範囲を守りたかっただけだと、口にするのは容易かった。けれど、いつもは飄々としている彼女があんまりにも真剣な目をしていて、その紫水晶みたいな薄紫の輝きが眩しくて声に出せなかった。
彼女との出会いは特段素敵な物でもなく、幼いころから兄に全権を委ねない為に父から自警団の団長を明け渡され、当時村の中で一番の腕を持っていたチリーの父とはよく相談を持ち掛けていた。
その相談の場はチリーの家だったこともあり、その度に彼女とは顔を合わせていた。
『おとーさんをかえして!』
『それは、出来ないです。ごめんなさい』
『どうしてっ!?』
『……ごめんなさい』
『ごめんなさいとかいらないもんっ!』
『…………ごめんなさい』
父を家から遠ざける仕事に関係するリットはよく恨み節を吐かれていた。その度にリットは頭を下げることしか出来なかった。いくら同年代だろうと弱音を吐くなど彼には許されなかった。
『かんしゃしてよね。お茶だけ出してあげる』
『どうもありがとうございます』
『むー! おかーさんに言われなかったら出さないもん!』
『……前から言われてた気もしますけど、別にお茶はお父さんだけでいいんですよ?』
『あげるっていってるんだから大人しくもらってよ!』
『だからありがとうございますって言いました』
『むー!』
『なんですかほんと……』
だが、いつからだろうか。
子供ながらの純粋無垢な、家族愛から来る恨み節は突然消え失せたのは。
依怙贔屓として、リットへの意趣返しとして、チリーの父にしかなかったお茶がリットにも出るようになったのは。
『ねーねー。リットはどんなお仕事してるのー?』
『どんな……君のお父さんと一緒に危ない奴らをやっつけてるんだ』
『えへへ、知ってるー。お父さんの話いつも聞いてるもん』
『なんで聞いたんですか』
『えー、リットってあたしと同い年なのにお父さんみたいに戦えると思えないもん』
『そりゃそうです。だから、君のお父さんにもいろいろ教えてもらってるんですよ』
『さっすがお父さん! あ、これ食べていーよー』
『……どうも』
ひたすら彼女の父を称賛する、退屈なようで不思議と耳を傾けてしまう会話を交わすようになったのは。
まるで宝物を自慢するように、秘蔵のお菓子がお茶菓子として出てくるようになったのは。
『ねーねー。リットはしょうらい? の夢ってある?』
『夢、かぁ。世界中のワインを集めてみたい、とか?』
『なんであたしに聞くの。しかもつまんなさそーだし』
『人の夢を馬鹿にされても』
『あたしはねー』
『無視ですか』
『幸せな花嫁になること! あ、幸せが大事だからね!』
誰かに肩入れしすぎるのはよくないと自制をかけてきたのに、幾年も降り注ぐ感情の雨のせいか口調が砕けてしまったのは。
『──それは、大事だね。もし相手が決まったら教えてよ、君のお父さんと精一杯祝うから』
『……はー』
『なんでため息を』
『し~らない』
『君のことでしょ』
『……だーかーら、リットもいい相手見つけてね?』
『そうですね。君のような賑やかな人がいれば楽しそうです』
『──はっ!?』
だから、チリーの父との会談の場が知らず内に彼女の家に偏っていた理由を自身で気付かないまま、頭の隅で言語化された言葉が漏れてしまって。
『な、なに言ってるの!?』
『……? 別におかしなことは言ってないけれど。それに、僕は婚約者を選べる立場じゃないから考えるだけ無駄だよ』
『……駆け落ちとか、しないの?』
『そんな頭お花畑な話出来る訳ないでしょ』
『あー!! 言ったなー!!』
彼女の花婿はきっと幸せなのだろうと、考える意味もないけれどどうしても目を逸らせない空想に胸を躍らせてしまったのは。
いつからだろうか。
遠くの国、遠くの大陸には桜というものがあるらしいとリットは聞いたことがある。チリーの髪と目はそれに近しい色だとも、春と呼ばれる季節が過ぎ去る頃にはすべてが散りゆくのだとも。
だとするのなら。永遠に冬だとも思えるようなこの村に居れば散ることだってないはずだと、自分にはあまりにも儚すぎて大切にすることすら出来ないからと、自ら手放したつもりだった。
彼に失念があったとすれば、桜は春の内に散るものだが、春にならなければ咲きもしないことだろう。
「もうお父さんとお母さんにもさよなら言ったし、リットをきちんと連れて帰るって約束したもんね!」
その事実を叩きつけるように、リットは満開の桜を思わせる飛び切りの笑顔を作ったのだ。
チリーの桜を咲かせた春は彼女のものだったのか、はたまたリットのものだったかは分からない。
けれど、二人の心に春が到来していることだけは間違えようもなかった。