懐古から今
ちるちる。どこどこ。がたがた。
ちるちる。どこどこ。がたがた。がっしゃーん。
朝日が昇ったことに歓喜の声を上げる小鳥のさえずり。
朝一番に迷宮に潜ろうと装備を着込んで荒々しく廊下をかける探索者の足音。
探索には出向かずともやはり朝は起きるべきだ。と、仲間の部屋のドアを思い切り押し開けいっそ迷惑な勢いでたたき起こす音。
階下で騒がしい探索者たちの朝餉を出すため奔走する宿の店主や店員の清々しい声。あまりに忙しかったのか、鳴ってはならないであろう金属が砕ける音がこだましていた。
数日、数週間、数か月、一年、二年。
何度聞いたのか数えるのが面倒になるくらい重ねた重奏。
二年も前はあまりにも静かで、独奏だと勘違いするほど静かだったと言うのに。
窓から漂う潮の匂いに混じって、空腹を刺激する匂いも混じり出した。
こうなっては呑気に寝てなどいられない。はやく物をよこせと主張を始めた胃の命令に、脳がラグロスの体を動かして布団を蹴っ飛ばさせる。
「腹減ったな」
己の頭が下した命令を反復して、のそのそと起き上がり部屋の外へ。
扉を開けると、目の前を走る少年少女の姿が現れて思わずぎょっと身を引いた。
「あ、ラグ兄! おはよう! ラグ兄が帰って来たってほんとなんだ!」
「ほんとだー!? おはようー! いつ帰って来るかなってあたしたちずっと待ってたんだよー!」
声をかけて来た二人は兄妹で暮らす新米探索者。今は亡き親譲りらしい赤髪のアホ──癖っ毛が特徴的だ。今でようやく三つの月を生き抜いたころだろうか。
ルーツェみたく、野良犬みたいな暮らしをしていた彼らを引き連れ、最低限食うための稼ぎ方を教え、宿の店主にはそれまでは手加減してやってほしいと伝えただけだが、彼らはなんとか自分で自分の世話を出来ているらしい。
「おぉ、懐かしいな、おはようさん。ちょーっと用事があって別の所泊まってたのさ、心配かけて悪かったな」
「うっそだー。ルーツェ姉が女の尻追っかけてるって言ってたもん」
「──ぶふっ!?」
妹の容赦ない言葉にラグロスの覚醒しきっていない頭がたたき起こされる。
地味に彼を図星にさせたせいで混乱した脳が下した命令は、訳も分からず彼に噴き出させ腑抜けた発声をさせることだった。
「帰って来たってことはやっぱり無理だったってことかー?」
「まぁ、逃げられたのは合ってるかも、なー……」
子供相手に何を言ってるのだろうかと、降ってわいた疑問にラグロスが苦しむ。
真剣に応答することさえ間違っている気がするし、話せば話すほど自分が惨めになる気もした。
「でも、ラグ兄さんならあたしたちの時みたいにすとーかー? してでも助けるもんね! そこのやつら! って言われた時飛び上がっちゃったもん」
「目ぇつけられたと思って二人で必死に逃げたなー」
「人聞きが悪い過ぎるからやめてくんねーかな……」
思わず誰かいないか周囲を見渡してしまうくらいには際どい単語だった。
あながち間違いでもないのが質の悪いところだ。背筋をひやりとさせつつ、じっと睨み返してみれば兄妹は一転して真面目な顔を作る。
「──でも、感謝してるのは本当だぜ?」
「そーそー。あたしたち、ラグ兄さんがいなかったら今頃お腹が空いて倒れてたもん」
「……まぁ、見捨てたらそうなりそうだったからな」
彼らと出会った三か月前と言えば伸び悩んではいたものの、中層探索者としてそこそこの稼ぎがあった頃である。たかだか子供二人の面倒を見るのも容易く、ルーツェの時よりも安易に手を伸ばせたのが大きな違いだ。
そして、その裏に助けられなかった誰かが無数にいることだってよく分かっていた。
(ああそうか。あいつも……こんな感じだったな)
最初はきっと違った。なされるがまま、命令されるがままセレンについて回った。それがひっくり返ったのがいつかは分からない。下層の門番を倒したときか、それより以前か以降か。
分かるのはまるで育ての親とはぐれた迷子のような彼女が、手の届く範囲に居るのに無視出来なかったことで。必要もないのについて回っていた。そこにはきっと惚れた弱みもあるのだろうけど、そういうのもひっくるめて放っておけないと改めて強く自覚した。
「俺だって全員助けてる訳じゃねーし、運が良かったくらいに思っとけ」
「うん!」
「ありがとう!」
がしがしと乱雑に兄妹の頭を撫でてやる。武骨な手は不器用な動きだったが二人はくすぐったそうに目を細めてはにかんだ。
そのやりとりこそがラグロスに小さな気付きを与えていると幼い探索者たちが知ることもなく。
兄妹を後にしたラグロスは腹の虫に突き動かされるまま階段を下りて階下へと向かう。
一階ではラグロスと同じように腹をすかせた探索者どもが席を一杯に埋めて探索前の腹ごしらえをしていた。
がつがつと勢いよく肉に食らいつく者も居れば、輩にしては上品にスープを飲み下す者もいる。一枚のキャンバスにこの個性の色が塗りたくられて滅茶苦茶になっている光景がラグロスは好きだった。
こんな作品と呼ぶに値しなさそうなキャンバスにも出来上がるまでの時間があって、初めはこんな広いスペースが埋まるのかとすら思っていたほどだ。
「リュージュ! 三番にこれもってけっていっただろ!」
「はいぃ! ただいま持ってきますぅ!!」
「おじさーん! こっちも来てないんだけど!」
「オードブルだろー! ちょっとまってろー!」
「お待たせしましたぁー! ホーンラビットの姿揚げと煮込みスープですぅ!」
それがどうだ。
カウンターの奥の厨房で声を張り上げる店主。忙しそうだが、顔は楽しげに笑っている。嬉しい悲鳴とはああいうものなのだろう。そんな彼の元こき使われる給仕服の女性が悲鳴を上げながら料理を運ぶ。毎朝泣き笑いのような表情でばたばたと走り回る彼女も実はベテランで、両手に料理を乗せて走り回っているのにこけたりこぼしたりする様子は見られない。
そうして、そんな彼女も料理を渡すときは見るもの惹かれるとびっきりの笑顔で笑うのだから、探索者達も気持ちよく受けとり食事に取り掛かる。変に居座り続けたりすることもなく、食べ終えれば食器を戻しに行くのが彼らのマナーの良さだろうか。
それを省けば店主から怒号が飛ぶから、なんて理由もあるのだが。
ありふれた日常の一枚、それらをつなぎ合わせた光景の端でルーツェとチリーの姿が見えた。二人はラグロスの姿を見つけると、チリーはぶんぶんと元気よく腕ごと手を振り、ルーツェはこちらへ軽く手招きをした。
そのさりげないどうさでさえ、多色に渡るのが面白くてつい口元を緩ませながら彼は二人のテーブルへと歩いて行く。
「おっはよー!」
「おはよう」
「おう、おはよう。リットたちは?」
「リットは買い出しー。ドーさんは家族に顔出してから来るって」
「だから現地集合」
「なーるほど」
どっさりと腰を丸椅子に落とす。テーブルの真ん中に置かれたメニュー表に目を落とせば、でかでかと先程聞こえていたホーンラビットの姿揚げが日替わりのおすすめとして挙げられていた。手書きされたまるっこい文字と、ひっくり返ってデフォルメされたホーンラビットの絵が可愛らしい。やられたのを示しているのか目がバツ印だ──なぜひっくり返されたかは頭の隅にでも置いておく。
「というわけで、あたし達が食べたらすぐしゅっぱつ! ってこと!」
「わたしたちはスープにするつもりだけど、どっちがいい?」
「二択しかねぇのかよ」
「常連さんは在庫消費に協力しろって」
「へいへい、じゃあどっちもで」
「さっすが! おーいリュージュちゃーん! スープ三つと姿揚げ一つー!」
「は、はぁい!」
ラグロスの決定を聞くや否や厨房に向かって叫ぶチリー。これまた不安になるような返事が給仕の彼女から返って来るが、毎度ながら注文が通っているのか心配になる。それでもちゃんと来るのが彼女の凄いところでもあるが。
「で、どう?」
「何がさ」
「久しぶりのここー」
チリーが右腕で頬杖をつきながら左手の人差し指で机を叩き、にんまりと笑う。ルーツェは興味なさげに手元の本へ視線を落としているが、ラグロスの視界の端で彼女の耳がぴくりと動いていた。
「……月並みだけど、いいもんだな」
「でしょー? せっかくラグロスが作った場所だもんね!」
「俺じゃねーって。おじさんのおかげ」
素直じゃないルーツェに苦笑しながら、ぽつりとこぼせばチリーが笑みを深めてうんうんと頷く。
彼女の言い分は客観的なら理解も納得も出来る。しかし、主観的な話に限れば認める訳には行かなかった。少なくとも最初は善意ではなく自身の罪悪感を払拭するための偽善に過ぎなかったからだ。
「でもさ、ルーツェもドーさんも呼び込んだのはラグロスじゃん? ここだって、ラグロスが色々拾ってくるし」
「拾ってくるってなんだよ。猫か何かか?」
「おかげで昨日も騒がしかった」
風でページがめくれないよう本を抑えながらルーツェが気怠げにつぶやく。
昨日はラグロスも加わって下層に行ってセレンを追いかける計画を立てていた彼らだったが、途中からラグロスが帰って来たのを聞きつけた顔なじみが次から次へとやってきて、話したいことを話して帰っていくだけの繰り返しが始まった。それも二桁も居れば短い会話でも当然長引く。
あんまりにも話が進まないものだから、とりえあず踊り子全員で下層に行くため再びクラウディアに挑む算段だけを簡単に立ててその場は終わった。
その後もラグロスは部屋に遊びに来た奴らを相手にしていたので、起きるのが遅くなっていた。
彼の部屋には復帰祝いと称しておかれたお菓子やなんやらが山積みである。
「そいつはすまんかったよ。てか、ジェシカも来てたんだからルーツェも来ればよかったのに」
「や」
「なんだよ。や、って。おい本に戻るな」
「まぁまぁ。いいことだしー」
「そうかい……じゃあ俺が居なかった間のそっちの話も聞かせてくれよ。断片的にしかしらないからさ」
「うん! いいよー! 振りかえりってやつだね!」
チリーが人差し指をぴんと立てる。さながら教師が生徒の注目を集めるようなしぐさのようだ。実際彼女もそのつもりらしく、架空の眼鏡をくいっと持ち上げてずれおちた何かを直すふりもしていた。
「それではそれではー? まずはリットとあたしの出会いの話から!」
「まてまてまて遡りすぎだ。それは年単位だろ」
「え、でも話したことないよね?」
「……それはそうだな」
言われてみれば興味は湧く。勝手に家を出たリットを追いかけてチリーも来たという大まかな話はラグロスとルーツェも知るところだが、具体的な話は聞いたこともないしわざわざ聞くのもなんだからと触っていなかった。
「ルーツェちゃんも興味あるでしょ?」
「……少しは」
ほんとに興味があるらしく、素直──というには控えめな肯定だったが頷きを返すルーツェ。手元の本も閉じている辺りそこそこ気になる話らしい。
「じゃあ、はなしてしんぜましょー!」
酔ってもない癖に、なんとも呂律の回っていない言葉でチリーが口を開き始めた。