ただの惚気
潮の風見鶏。ラグロスにとってもう二年近く世話になっている宿屋である。思い出も数知れず、かの店主は優しく、恵まれないスキルを抱えていた踊り子の皆を支えてくれていた人だ。
きっと皆が腐ることなく前を向き続けられたのもそのおかげだと言える。
宿の扉を開ければ、懐かしくも見慣れた光景が広がっていた。飲んだくれて丸テーブルに突っ伏す輩に、こちらには聞き取れないぐらいの声量で細々と会話する二人はナッツをつまみながら酒を飲んでいる。
四、五人くらいの人数が囲むにはちょうどいい丸テーブルの上に並ぶのは食事だけでなく、地図を広げて明日の探索業の計画を立てている探索者一行も居た。
肉の香ばしい匂いに酒精の匂い。
金属のフォークやらが欠片の上品さもなしに鳴らされる食器の音、ひそひそとした話し声から気品の欠片もない無遠慮で騒がしい声が耳に届く。
あらゆる探索者達の息遣いが入り混じり、大通りの喧騒とは違う密やかながら賑やかな合奏曲を奏でていた。
「……ルーツェちゃん……とラグロス坊か。久しぶりだな、元気かー?」
その呼び名に心当たりは一人しかいない。
声のする方へ顔を向ければ、手慣れた様子でいくつもの食器を重ねて持つ宿屋の店主の姿があった。
がははと笑う彼の頭部──スキンヘッドが煌びやかに魔石灯の光を反射している。鏡並の反射率は店主の誇りなのだとか。
いわく、光の反射は心の綺麗さらしい。髪の毛がある人間は大抵腹黒いということになるその暴論は聞き入れがたかったが、彼が心優しい人間であることに異論はない。
「……元気っすよ。おじさんはどうです?」
「この頭をみりゃ一目瞭然だろー? 光ってるうちはくたばらねぇってな」
「そりゃなにより……。──リットたち居ます?」
「おういるぞ。いつものこった、上で仲良く集まって頭捻らせてる」
それよりも、と店主の目線がルーツェへ向く。ちょっと出てきますと言った切り、帰ってくれば急にいなくなったラグロスを引き連れてくるのだ。深くは聞かないものの、事情が気になることに変わりない。
「ちょっと、迷惑かけてたんで謝りに来たんすよ。──今からもかけるんすけど」
「そうかそうか。がはは、謝るのはいいことだ。謝るタイミング逃すと後悔するからなー」
「本当っすね」
「飯食いたきゃいつでもきな。頭光ってるうちは相手してやるよ」
店に光が灯っているうち、を彼なりに言い換えると頭が光っているか否かになるらしい。
彼なりのユーモアなのだろうが、何故それにこだわるか二人とも未だに知りはしない。
「あざっす」
「……」
ラグロスが軽く頭を下げるのに習って、ルーツェもぺこりと腰を折って頭を下げた。
二人そろって店主の世話になりっぱなしで、彼には頭が上がらない。彼の前なら頭が軽いとすら錯覚するほどだ。下げ慣れてしまえば上げ慣れてしまうのも問題だが。
一階の広間を後にし、二階の客室に上がる。
何度も上り下りした階段はたびたび補修されていて、ラグロス達含めこの宿に世話になっている探索者達の手によって迷宮産の木材が使われている。
明かりだってそうだ、等間隔に置かれている魔石灯も稼ぎが良かった探索者が余りを寄付していったもので、宿側の出費はほとんど出ていない。何も考えずに取り付けたものだから、属性を宿した者も中には混ざっていて、突然温かみのある火魔石の赤い光や涼し気な水魔石の青い光が宿を照らしている。
そうやって探索者達が宿に便宜をはかるのは彼らなりの恩返しだ。
それを色濃く反映しているのはラグロスの隣を歩くルーツェも含まれる。
見捨てきれずルーツェを拾って帰ったラグロスにも、一人を養い続ける余裕はなく足りない食住で世話になったのがあの店主だった。
部屋を提供し、食事を提供する。特段他の探索者が食べる物より質が低い訳でもなく、変な貸付をすることもない。慈善業としか捉えらぬそれに助けられた探索者たちが徹底的に悪の目を摘むことでなりたつ不思議な宿。
その恩恵を受けてなんとか探索業を安定させたものは今度は似た境遇の誰かを助けられるよう宿に資材を還元する。完全な善意で回っている場所だった。
精々一月そこら離れていただけというのに、何とも懐かしい。
かけたピースを無理やり埋めたみたいな色違いの魔石灯や、部屋ごとに違う扉の材質。
ちぐはぐだというのに、店主が顔を合わす度雄弁に何度も語るものだから、そのいびつなピースに込められた小さな物語が直ぐ脳裏をよぎっていく。
だが、一月の空白のせいか見慣れないものもちらほらと視界に映っていた。
「……あの植木鉢は? 前はなかったよな」
「あれ、ジェシカが持って帰って来た中層南部の植物。周りの湿気を吸うからあの近くは涼しいの」
「へー、じゃああの本棚は?」
「あれはジェシカの知り合いの知り合いって人が置いてったんだって、中の本も全部寄贈品」
知り合いの知り合いはただの他人じゃなかろうか。
そう口にしかけた自分を抑えつつ、ラグロスは感心しながら本棚に収められた中から適当に一冊取りだす。
てっきり詩集か物語かと思ったそれは何かの研究資料の写しのようだった。
ぱらぱらとめくれば、ここではないどこかの迷宮に生息する迷宮生物の資料だった。
精度で言えば探索者組合の資料室に置かれていても可笑しくがない代物で、非常に貴重な品であることは分かる。こんな一介の宿にあっても宝の持ち腐れとしか思えないが。
「……なんだこれ、こんなとこにあっていいやつじゃないだろ」
「だよね。おじさんには価値が分からなかったらしいけど、盗品でもないんだって。どうせ神の修練場とは関係もないからみんな娯楽品としてか見てないけど」
描かれている迷宮生物の絵は二人が見たことのないものばかりだった。
確かにこれは役立たない。それはそれとして、それらから取れる素材だけ見ればこちらにまで流通している道具に使われているものもあったので、興味深いのもまた事実である。
「……部屋、引き払ったはずだぞ」
「戻って来るって言ったのはあなたでしょ」
本棚に資料を戻し、そっと見慣れた場所に目を向ける。
少し前までは彼の部屋だった場所にかけられた表札の名前は変わっていない。
それはラグロス用の部屋として差し押さえられたままであることを意味している。
部屋の主などここ何十日も居なかったのに。
「……そうだけど、さ」
約束はした。けれど、願望よりの約束だった。決意はしたし、覚悟も決めて思いを馳せた。
だけど、何も成し得ちゃいないのに戻ってきてしまった後ろめたさが目の前の現実を飲み込むことを許さない。
粘性のスライム罠に引っかかったみたいに足が離れない。自由に動く上半身を回してみれば、よく計画を立てる時に集まるリットの部屋も見えた。
扉からは光が漏れていて、話し声も聞こえる。楽しそうな声というよりは真剣に話し合っているのが分かる進の通った声が飛び交っている。
「いくよ」
四本指を握られる。彼女の小さな手ではラグロスの手を握りしめるのは難しかった。
けれど、それだけで張り付いていた足は簡単に動いた。
誰かに手を引かれなければ歩けない。より正確には誰かのせいにしなければここには入れないラグロスが居た。
彼の後ろ暗い気持ちを知ろうが知るまいが、ルーツェの行動は変わらない。変える気はない。
左手でラグロスを離すまいと手を握り、右手でドアをノックする。
「わたし、ルーツェ」
「……? どーぞー」
入室の許可が部屋の中から返って来る。
聞く気のなかったリーダーの声に、ラグロスが固まるも主導権はルーツェが握ったままだ。
ぐいぐいと引っ張られ、ドアノブを捻ったルーツェがどんと乱雑に押し開けた。
「ルーツェちゃんおかえ──ラグロス!?」
「え──?」
「……ほう」
三者三様の反応。
元気に出迎えようとしたチリーがぴょんと跳ねさせたツインテールと共に椅子から立ち上がるが、予想もしなかった人物を目にして、目を丸くする。
同じく驚きを露わにしたリットはどうも乗り気ではないラグロスの姿に首を傾げている。
帰りの遅い理由が彼であることを知ったドーレルが納得顔で頷いた。
「……よう」
何故帰って来たのかを口にしようとして、相棒に放っていかれたからなんて理由を口にするのもはばかられ、片手を上げるだけで終わってしまう。妙な逡巡は素直にただいまさえ言えなかった。
「……どうしたんだい。ずいぶん早い帰りだね」
「ちょっとリット!」
「チリーさん落ち着いて」
「落ち着くのはリットじゃない!」
どこか棘があるリットの返し。目は細められ、まるで罪人に罪を白状させたいような口振りだ。
仮にも仲間に向ける言葉じゃないだろうとチリーがぐるんと振り向き声を荒げるも、ドーレルに窘められる。
「いいんだチリー。リットの言うことが正しいし」
「……」
いつの間にかルーツェの手はラグロスの指から離れていた。
それに気づいたのは、まるで勇気づけるように小さな拳が背中に押し付けられたから。
背中に走った衝撃の元を誰だと考える必要もなく、静かな激励を送ってくれた彼女に背中で隠したサムズアップで応えた。
「一応片が付いたら戻る、とは伝えたつもりだけどな」
「聞いてるね──でも、目的から察するにそんなすぐに終わる話じゃないし、何よりここにいることすら可笑しいと思うんだ。その辺りから聞かせて欲しいかな」
リットの目は冷たい。
正直、ルーツェに連れてこられたのにどうしてこんな目に合ってるのかとすら思う。
でも、彼女が何も口にしないということはラグロスに何かを委ねているのだろうと。
「色々あってセレンとのコンビは解消した。当てもなかったんで言ってた通り戻って来た。そんだけだ」
「……それに振り回されたこっちの都合、考えてるの? それ」
「ないな。身勝手な話なのは重々承知してる」
はぁ、とため息をついたリットが長い灰髪を揺らす。後ろ姿だけ見れば女性と見間違いそうなくらいさらりとした髪が今はどこまでも恐ろしく見えた。
「──君の目的は?」
「下層に行くことだ」
「……いつの間に優先順位が変わったの?」
「蓄えはあるさ、数度ぐらいは稼げなくたって仕送りは出来る」
「そっか」
重苦しい沈黙が続いた。誰も、誰も喋らない。その状況がラグロスには少し奇妙に思えた。
こんな雰囲気が氷点下にたどり着きそうな中、チリーが一言も話さないというのは不思議に思える。
勿論、ラグロスを連れてきたルーツェやいつも踊り子の皆を客観視してくれるドーレルが口を挟まないのもそうだ。
きっとこれには意味がある。
でも、言葉にするのは簡単な彼の本心は自己中心的だ。それは彼のお人好しからも逸脱している。だから口には出来ない。口にすることを戸惑っている。
(そうでも、ないか?)
思い浮かんだその単純明快な言葉を感情のままに口から吐き出す。
「……下層に行きたいってのは、そこに助けたい奴が居るんだよ。根は良い癖につんけんして、だいたい何でも出来る癖に打たれ弱くて、助けを求めればいいのにやせ我慢してる。ここしばらく一緒に居て、俺に取っちゃ見過ごせない相手になっちまった。──けど、俺一人じゃ下層なんて夢のまた夢だ。でも、皆ならいけると思ったんだよ……滅茶苦茶言ってるのは、分かってるけどさ」
思い浮かんだ思考過程。口にしてみればただの一人の女に惚れた男の惚気にすら聞こえそうだ。
それでいいと、ラグロス自身も開き直っている。惚れているか、などと聞かれるまでもなく首を縦に振れる質問だ。今更それがどうしたと言うのだ。
「だからそれ、こっちの都合は?」
「恩返し。それで十分だろ」
「……」
リットが黙り込む。柳眉をぐぐっと寄せて悩ましそうに唸った。
そうだとも、この宿に居るなら誰もが重んじる暗黙の了解。無視など出来るはずもなく、会心の一撃と言っても過言ではなかった。
彼らだって、セレンの恩恵を大いに受けた。無意識がさしていた日傘を退け、日の目を浴びてぐんぐん伸びていくための下準備をしてくれた。
成長しきった彼らが何かを返すこともなくはいさようならとするわけにもいかない。
「一応、返してはいたけれどね」
「そうなのか?」
ラグロスには初耳だった。だが、随分と可愛らしいセレンの頼みをリット含めた踊り子たちは覚えている。
後ろで表情を硬くしていて聞いていたルーツェ達も今ばかりはふっと頬を緩めて苦笑していた。
「あーあ、僕が馬鹿らしくなるじゃないか。悪者みたいで嫌だし」
張りつめさせていた雰囲気を弛緩させ、リットが背もたれに体を預ける。
なんだこいつらはと愚痴を吐きたかった。初心初心しいカップルそのものではないか、なぜこんな奴らの仲を裂くような真似を買って出なければならないのか。
「はぁ。いいよ、もともとそのつもりだったし。今もそのための作戦会議中。ラグロス、荷物置いて椅子持ってきなよ。久しぶりに地図でも囲んでさ」
リットが手をひらひらとさせてラグロスを急かす。
頭目が故に損な役回りを押し付けられた──買って出てしまった。
虐めいたくもない相手を必要以上に虐めることのどこが楽しいのだろうか。そんな疑問を抱くくらいには胸やけしていたし、心底ご馳走様と悪態をつきたくなる。
そのことに、今だけはリーダーであることを過去一番後悔していた。