独り
太陽が沈み、月が柔らかな光を落とすシーフィルの夜。
踊り子との飲みを終え、ジエルの家に向かうセレンの足取りはふらついている。
随分と危なっかしい様で、通路の脇から時々欲望に目をくらませた人が彼女を見定めている。
少し眺め、彼女が噂のローブ少女であることを知れば一目散に去っていったが。
(頭、いった……)
昼前からあった集まり。解放されたのがつい先ほど。
踊り子との食事は精々二時間もかからなかった。
長かったのはその後で、ジェシカが引き連れて来たラグロスの知り合いだとかを巻き込んで語られる思い出話が続いた。
ざっくばらんと切り捨て、途中で抜けなかったのはそれなりに面白い話を色々聞けたからなのだが……長いものは長い。
話している最中も酒を飲みだす探索者達。セレンも場のノリのようなもので、ちびちびと飲んだのは覚えている。
問題は、思ったより強くない彼女の酒の耐性だった。
(毒物は効かないはずなのだけど……)
付いてきてくれていたルーツェの肩に頭を預け、彼らの語らいをひたすらぼんやりと聞いていた。
正直、どんな話をしていたかあまり記憶にない。なにやら騒がしかったような気がする。
かなり頭がふわふわしていた上、自分でも分からないくらい上機嫌になっていたような。
(考えても仕方がない、か)
ともかく、酔いが覚めて来た今思い返すと背筋がぞっとする。時折耳にする酒には気をつけろという誰かの言葉。もとより毒など効かない体なので、鼻で笑っていたはずなのに。
それが、どうだ。誰よりも早く横になっている始末。
羞恥心やら後悔やらがまぜこぜになった感情で身震いした。
とにかく忘れてしまおうと首をぶんぶんと振り、セレンは足を速めた。
「戻ったわ」
「ン? おー、おかえリ」
遠慮がちな挨拶を伴い、ジエルの家の扉を開ける。家主はその小さな声も見逃さず、麦酒が入ったジョッキを掲げて応える。
最初は無言で出入りしていたが、ラグロスが毎度の如く「ただいま」というものだから、何か言うべきかと考えた結果だ。
「この時間までってのはァ、珍しいナー」
「私もここまで遅くなるつもりはなかったのだけど」
なんとなく、ただいまと口に出来ない。
素直になる。それだけのことがどれだけ難しいか。セレンにとってみればかなり譲歩したと言えるほどなのだ。
何故ただいまが言えないかは分からない。
でも、素直になれない理由は分かる。
「……アー、酒カ」
「分かるの?」
「酒好きで知られるドワーフだゾー? たりめぇダ」
「……そういうものなのね」
──弱みを見せるのが嫌だ。
少しでも虚勢を張り、少しでも出来るようにならねばならぬ。
強迫観念にも近い、自分に詰め寄って来る何かから逃れるように生きて来た弊害。
流し、流され、弱みを拒絶するため得た力。
それも、天使であるためと勿体ぶっているのも問題かもしれない。
(……違うわね)
──天使だぞ、と思わせるためだったか。
「デ、ラグロスはどうなんダ?」
「どうって?」
「時間とかナ」
今更何故そんな質問を。
既に二度は答えたはずだ。
(……酔ってるわね)
酒に強いはずの彼が珍しく頬を赤くしている。
恥ずかしがってる訳でもなく、恐らく酔いが回っているのだろう。
それにしては、宿にいた探索者と違ってうるさくない。
「言った通り、二、三十日はかかるわ」
「静かになるナァ」
「面倒くさがってたのに?」
「お前さんも分かるんじゃないカ?」
「……何が?」
見透かしたように言うジエル。
酔っているくせに、頭は回っていそうな態度が鼻についた。
けれど、どこか記憶にある。
(似ているのね)
ルーツェも酔ってはいたが、口調ははっきりとしていた。
酔いに振り回される者と、そうでない者。両者の違いは不明だ。
「オレァ真っ当からは逃げたからナー」
「真っ当? 仕事はしてるじゃない」
セレンの知る真っ当は社会の中で自立していることだ。
さらに言えば、自分の力だけで生きて居られること。
自分は真っ当でない──心の奥底で強く自負している彼女の持論だ。
「トレンドって知ってるカ?」
「流行りもの……で、あってるわよね?」
「そうダ」
「それが?」
頷くジエルに尋ね返す。
すると、彼はジョッキを置いて立ち上がり、壁に立てかけてある肉厚の大剣を撫でた。
持ち主であるラグロスが入院しているため、ここに預けられている代物。
しばらく使われていない鉄塊が何を思うかさておき、毎日作り手によって磨かれているそれは鈍い光沢を放っていた。
「オレが好きなのはこーいう奴ダ」
「そうね」
だからこそ、ラグロスもジエルに武器や防具を頼む。
きっと、何もおかしくない関係だ。
「けどナ。ここじゃ、こいつらは売れネェ」
「……でしょうね。スキルに委ねているもの」
「かもしれネェ。でもナ、オレァ前から知ってたんだ。ここじゃ売れんってナ」
「……なら、何故──」
ここへ来たのか。
ラグロスが来た理由はそれとなく、聞いた。
親への仕送り、もとい金稼ぎ。時折、両親の元へ郵送するため、硬貨袋を馬車の御者に頼んでいるのを見かけている。
けれど、目の前の鍛冶師がここに来た理由をセレンは知らない。
知らなくても、こうやって関係は築けたから。
「自惚れてのサ。オレのなら売れるってナ。地元じゃ一番の鍛冶師だったオレならってヨォ」
「……でも、質自体はいいんでしょ?」
「オレァ商売を知らネェ。けどナ、大事なのは良いものを作ることじゃネェ」
「…………」
セレンだって、人の営みなど露も知らない。聞かされても困ると肩を竦める。
あまり聞かされると、情が移る。どうせ、抱えられるものは多くないのに。
しかし、そんなことはお構いなしとジエルは口を開き続けた。
「客に必要な物を作ることダ」
「当たり前じゃないの?」
「当り前だナァ。──けド、不思議だロ? 良いもの、は要らねぇんだヨ」
矛盾を感じる。
けれど、謎の説得力があった。
けれど、その謎を言語化できない。
確かに言えるのは、ジエルの言葉はセレンの琴線に触れ、彼女の心を揺り動かした。
それを認めるのが癪で、つい食い気味に言い返してしまう。
「……要らないことはないでしょう」
「いーヤ。オレにとっての、良いものは要らなかったナ」
「何が言いたいの」
語気が荒くなる。
ジエルが伝えたいことはなんとなくセレンにも伝わっていた。
──伝わりすぎていた。
「オレァ客のことを考えズ、オレの良いものを作ってタ。独りよがりって奴ダ。……真っ当じゃネェ」
「でも、ラグロスは貴方の良いものを買ってるじゃない」
「そうだナ。独りよがりってのァ、勝手に独りになってるだけだからナ」
「……」
勝手に独り。セレンにその言葉は酷くしみた。
傷口に塩なんて比ではなかった。
「なりたくてなったわけじゃあ、ネェ。生きるのが下手くそって奴ダ」
「それは、否定しないわね」
「だロー? そんな下手くそな奴らに構ってくれる奴が居ないのァ──寂しいだロ?」
「それも……否定しないわね」
湾曲的な肯定だった。もっと簡単に纏められただろうと思っていたからだろうか。
それでも、セレンを素直に頷かせるに足る言葉だった。
細やかながら、心の奥底にまで突き刺さる針。折れそうなのに、障害物を不思議と掻い潜って突き刺さって来る。
「そーゆーことダ。──ンァ? なんの話をしてたんだっけナ」
「さぁ? 私は頭が痛いから寝るわ。貴方もとっと寝た方がいいんじゃないの?」
「そーっすかナァ……」
曖昧に頷くジエル。
妙に動きが緩慢だと思っていると、そのまま机に突っ伏して寝てしまった。
ばたり、と静かな部屋に響き渡る。よほど疲れていたらしい。もしくは酔っていたらしい
「……はぁ」
面倒だ。
無視をすることでもなく、布団をかけることでもなく。
どちらを選択すべきか、悩む労力を要することが面倒だ。
この思考をしている時点で、自分が情を持ってしまっていることが分かるのが癪だ。
鬱陶しい。感情の鎖で雁字搦めにされていく自分が。
まるで、つい先日見たベッドに拘束されるラグロスのようだ。
(後で風邪を引かれても、また面倒……ね)
言い訳がましく、ラグロスの毛布でも借りようと二階へ足を運ぶことを選択する。
その瞬間だった。
今度は静かな部屋を扉が開く音で満たす。
「……? ラグロス……!?」
「…………」
「ど、どうかした?」
入って来たのは、患者衣に身を包んだラグロスだった。
だが、どうも様子がおかしい。
一人でここまで出歩いてきたなど言ったことではなく、セレンを見つめる彼の瞳が濁っている。
今まで晒されたことのない視線。それがセレンを大いに動揺させる。
「──」
「……やめ──」
ラグロスが無言で詰め寄って来る。彼の動きは緩慢で、逃げようと思えば簡単に逃げれたに違いない。
けれど、セレンの足はまともに動かない。彼と同じ速度で後ろに後ずさるのみ。
そして、室内故にセレンの体は壁に阻まれ道を失う。
近づく足音と、濁った瞳。まるで何かを問い質そうとしているようだ。
彼が持ち得る雰囲気とは到底思えないそれに、セレンは今更既視感を感じた。
(──ねえ、さんと……同じ)
失望。疑念。喪失。虚無。寂寥。
負の感情を押し込み、ねじ込み、坩堝となった瞳。荒れ狂う感情が濁流のようにうねり狂っている。
その瞳中に、かすかに残っているハイライト。
独りの道を選んだセレンを引き戻そうとする微かな希望と願望の光。
セレンはその残りかすさえも振り払ってしまった。
その選択は、彼女が今まで生きてきた中で一番苦しかった。
自分に重荷が積み重なることだけではない。自分を思い遣ってくれた誰かを苦しめることが辛かった。
元は善良だった。──きっと今でも芯は変わっていない彼女らしい苦しみ方。
毒物を毒物だと知りながら飲み込む所業。当然、後に苦しみ、嘆き、悲しんだ。
だから、もう二度としないと決めたはずだった。
だから独りを選んだのかもしれない。
なのに、なのに──
「アンタは……天使なのか?」
その選択が、また繰り返されようとしている。