物理的安静
「……んん?」
ぼやけたラグロスの視界に映る真っ白な天井。
見覚えはある。
度々運ばれる病院だ。
「……あぁ」
具体的に倒れる前のことはともかく、“チャージ”の時に返って来る反動の数倍の疲労感に襲われ、たまらず気を失ったことは覚えている。
ということは、セレンがここに連れてきてくれたのだろう。
徐々に五感も目を覚まし、窓から吹く穏やかな風がカーテンを揺らすほか、肌を撫でたり、潮騒の音が耳をくすぐっているのを脳が理解し始めた。
窓から漂う潮の匂いにラグロスがはっきりと目を覚ます。
「──っいた!?」
うんと伸びをしようとしたラグロスが、体全体に走った痛みでベッドに崩れ落ちる。
幸い倒れた先は柔らかなベッド。痛くはない。
だが、依然として体が訴え続ける痛みは無視できなかった。
「──いて……」
今度は布団から零れ出ている右手を握って閉じてみる。ピリッと走った痛みにまた呻いてしまった。
その痛みで体をよじらせれば、今度はその反動が彼を痛めつける。
体をよじっただけなら声を漏らすほど痛くはないが、それでも鬱陶しいことに変わりない。
「……何してもいてぇ」
倒れる前の自分がやったことを考えれば当然でもある。
今まで疲労感程度で済んでいたのは、彼自身が耐えられる限界負荷を超えていないからだ。
「どーすんだこれ──」
それを思い切り無視したのだからこの有様も当然である。
頭の片隅では分かっていたが、想像以上の状況にラグロスは頭を抱えようとして、
「いだっ──」
また痛みに呻いた。
以前に入院した時より被害が大きく、ラグロスの胸に心配と不安が募った。
「おっはようございまーす!!」
それを吹き飛ばすように、彼のベッドを囲むカーテンが全開に。
威勢のいいあいさつと共に、金髪の髪をお団子にした兎人のナース──ラミィが現れる。
「ラミィさん……おはようございます。ちょっと頭がガンガンするので静かにしてもらえません?」
「ほう? それは大変ですね! ちゃんと聞こえるよう大きな声を意識します!」
「話聞いて」
「そ・れ・よ・り~」
にかっと笑うラミィは、テキパキとした仕草でペタペタとラグロスの体を触り、何かを確かめる。
どこもかしこも痛むせいでラグロスが体を跳ねさせた。
「いっ!」
「んー。まだまだ筋肉が張ってますねぇ」
「そうだった。俺の体、どうなってるんすか?」
「ラグロスさんが生きている限りはモーマンタイです! ……なんですけど、ちょっと怪しいらしいんですよねぇ」
普段から良くも悪くも笑顔の絶えないラミィ。
その彼女には珍しい曇った表情。
「怪しい……?」
「詳しい話はせんせーから聞いてください! とりあえず、ご飯食べれますか?」
「痛いですけど、それ以外は大丈夫なんで食えます」
「よきですよきです!」
うんうんと頷いたラミィがカーテンに隠れていた台車を押して、お盆を運んでくる。
白パンに細切れの肉が入ったスープとサラダ。
随分と健康的な食事だった。
「何はともあれ、まずはご飯です!」
「あざっす」
欲を言えば物足りないが、今は何でもいいので腹に収めたい。
目の前に置かれた食事を夢中で口にする。
病院食特有の薄味だ。
それでも肉体が食事を欲しているのか、僅かに塩味が効いているスープさえも美味に感じた。
「今のうちにラグロスさんが起きたこと連絡しておきますね!」
「ん? 誰に?」
「セレンさんです! ここ数日ずっと来てくださってたんですからお礼言ってくださいね!」
「数日……? 俺、何日寝てたんですか?」
「あ、言ってませんでしたね。今日で十日です!」
ラグロスがその事実を受け入れるのに、一瞬の間を要した。
その間寝たきりだったと言うことも含め、本当に体を酷使したのだとも。
生きている限りはモーマンタイ。彼はその意味を遅れて理解した。
「……まじか」
「まじです!」
「まじかー……」
「こうやって起きたんですから大丈夫です! ではでは、手紙出してきますね!」
カツカツと足音を慣らして病室から出ていく金髪ナース。
十日も眠っていたのに、普段通りに振る舞うラミィにも驚きと感謝を覚える。
何かと無茶ぶりが多いと言うかハチャメチャではあるが、患者を悲観的にさせないという点において彼女に勝る人はいないだろう。
──やり方がもう少しないのかとも思うけれど。
「心配かけたな……」
そして、眠っている間看病してくれたセレンにも頭が上がらない。
前は書置きを残していっただけだったが、恐らく彼女なりに気にしているに違いない。
クラウディアとの後半戦。セレンが出来ることは少なかった。
でも、普段から世話になっているのはラグロスだ。彼女が気にする必要などない。
と、言ったところで彼女は気にするだろう。
そういう奴だと彼も良く知っている。
「まーたアリエルさんに迷惑かけてそうだなー」
あそこはお酒は基本出さないので、セレンが悪酔いすることもないため心配はない。
それはそれとして、時折面倒な一面もあるから早めに戻っておきたい気持ちもあった。
帰ったら真っ先に会いに行こうと心に決めて、痛みを耐えつつスープに浸したパンを口に含む。
「──うめぇ。……セレンは何してるのかなー」
一人で迷宮に行く想像もつかない。
言っていたとしたら少々不服ではある。
せっかくここまで来たのだ。ラグロスも拝んだことのない下層の風景を彼女と一緒に見てみたかった。
「んぐ、んぐ……下層かぁ」
今現在における探索者たちの最高進度。
そこから先がまだあるのかどうかは知られていない。
下層の情報は組合も公表しておらず、どのような世界が広がっているのか彼は微塵もしらない。
探索者が最初に下層に到達したのは一年前。
やけに組合内が盛り上がっていたのはラグロスの記憶に残っている。
だが、半年もすれば下層がどうのだという話を耳にすることはなくなり、話題はゆっくりと消えていった。
中層以下を攻略している探索者は九割にも上るため、主な話題がそちらに移るのも分かる。
だが、下層でしか取れない素材というのは非常に貴重だ。だからこそ話題がなくなるのは不自然。
一度踊り子でも不思議がっていたが、正直そんな余裕もなかったので話題になったのは一度きりだった。
「……アンタ」
「?」
ふと、誰かの声をラグロスは耳にする。
「こっちだ」
じゃら、カーテンがスライドされて中のベッドが現れる。
ラグロスと同じ、白のベットに横たわり白の布団を被っている。
包帯に身を包んだ人の姿だった。
「……だ、誰だ?」
「今、下層って言ったよな?」
「言ったけど……」
ラグロスは不審げに男性を見つめる。
声と肉付きで判断しただけで、全身包帯巻きの彼、もしくは彼女の判別はつかない。
病院でなければ不審者と思われても仕方がないくらいだ。
「やめておけ」
随分と切実な声色だった。よほど危険なところなのだろうか。
だが、そんなことは百も承知だ。
この一年で大した情報が上がってこないことからもよく分かっている。
ろくに情報を持ち帰ることも厳しいのだろう。
「なんでさ」
「あそこは……」
そこで声が途切れた。
ラグロスが首を傾げて包帯人間を再び見つめると、その誰かから穏やかな寝息が聞こえ始めた。
「おいおい……」
まだ話し始めたばかりじゃないかと肩を落とす。
だが相手も病人だ。無理を言っても仕方がない。
自分もそうならないよう、まずは目の前の食器を綺麗にすることにした。
「食べ終えましたかっ?」
ラグロスが粗方食事を終えた後、閉めていたカーテンががばりと開けられる。
言うまでもなくラミィである。
「手紙出せた?」
「それはもうばっちりです! なんて言ったって兎人ですから!」
「手紙を出すのに人種も何も……ん?」
跳ねるようにこちらへ歩み寄ってきた彼女の肌はほんのり赤く、上気している。
何か運動でもしたのだろうかと考え、手紙を書くにしては妙に遅かった理由に気付いた。
「まさか、走って出してきた?」
「それ以外に何があるんですか?」
「そりゃあ、運び屋とかに……」
「お金がかかるじゃないですか」
「お、おう」
別に走らなくてもいいんじゃないかとか、ナース服で町を駆け回って来たのかなどといった余分な思考はやめることにする。
考えるだけ無駄な気がした。
「……いつ退院できるんだ?」
「さぁ?」
「……えぇ」
代わりに彼が別のことを尋ねるも、あまりの呆けた答えっぷりに思わず声を漏らしてしまう。
別の仕事の方が向いているのではないかとすら思えた。
「でも、しばらくは絶対安静です! 少なくとも三日は寝たきりで!」
「え、まじ?」
「だって、動いたら痛いんですよね?」
「……まぁ、うん」
「そんな状態の患者さんにはベッドが必要です! 縛り付けてでも出しませんからねっ!!」
正直動けないので妥当ではあるが、ここ数日寝たきりなのもあって、筋肉の痛みとは別に凝り固まった体の節々が痛い。
ラグロスとしては散歩ぐらいはしたいところだった。
「その顔は心配ですね……。面倒なので縛り付けておきます!」
「え……は?」
そんな彼の思考を呼んだのだろうか。
有言実行とばかりに、言うや否や伸縮性のある紐をどこからともなく取り出し、ラグロスをベッドごと巻き付けていく。
「ぐるぐるー!」
ラミィの手並は随分なもので、あっという間に布団で包巻きにされたラグロスが完成した。
身動きが取れないのに、血管が圧迫される苦しさはない謎のバランスが妙に腹立たしい。
「なんすかこれ」
流石に敬意も消えて、棘のある声が出る。
ラミィはむんとキメ顔をしていた。
「安静と言っても安静にしてくれない患者さんのために作る安静です!」
「……はぁ」
安静が多い。
とりあえず、無理やり動かさせないという意思はラグロスにも分かった。
ここまで押し売りされる安静を初めて見たのはともかく。
「ちゃんんと安静にしてますんで、これ、取ってくれます?」
「外すの面倒なので嫌です」
「おい?」
「もうすぐ来る彼女さんにでも外してもらってくださーい! ではでは、診察の時にまたお呼びしまーす!」
ぺかっと笑ったラミィがお盆を回収して、軽快な足取りで病室から去っていく。
さながら嵐のようだった。
「えー……」
静かになった病室。
取り残されたラグロスの困惑の声が空しく響いた。