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千夜十夜物語

バグの多い料理店

作者: 穹向 水透

21作目です。京都に行きたいけど躊躇っている今日この頃です。



 僕が高校生の頃、学校帰りによく訪れる店があった。「ヨダカ亭」という名前で、元々はラーメン屋だったようだ。僕が頻繁に訪れていた理由は大きく分けてふたつ。ひとつは、安いこと。駅前のファミレスなんかよりもよっぽど安い。ふたつめは、店主。とてもユニークで、その店主と近い人間などいないのではないか、と思えるくらいだ。忘れてはいけないが、もちろん、料理の腕前も高い。

 高校一年の時に、友人が行ってみようと誘ってきたのがきっかけだった。ヨダカ亭は入店するのが躊躇われるような、風変わりな店先をしていて、当初、あまり行きたいとは思わなかったが、友人に半ば強引に連れて行かれた。だが、結果として、それが高校三年間の青春の拠り所となったのだから、友人には感謝しなくてはならない。

 思えば、高校生という期間はあっという間で、その大半の思い出がヨダカ亭にあるようだ。

 僕は高校生活で恋人も作らなかったし、みんなで遠出した思い出もない。それを言うと、後悔してないのか、と問われるが、後悔などある筈がない。僕という人間は、誰もが思い描く青春で構成されてはいない。

 さっき言ったように、きっかけは友人の好奇心に巻き込まれたことだ。高校一年の夏休み前。中学時代からの友人、将原泰千(まさはら たいち)に「放課後、暇か?」と訊かれた。

「暇っちゃ、暇だけど」

「飯食いにいかないか?」

「飯? まぁ、いいけど。何処へ?」

「ヨダカ亭って知ってるか?」

「ヨダカ亭? あの、変な外見の店か?」

 僕は顔を顰めた。

「お、何か凄い嫌そうな顔をするな」

「そりゃ、だって、あの外見だぞ、異文化ごっちゃごちゃのさ。まず、飲食店だってこともわからないじゃないか」

「でも、気になるだろ?」

「……お前、部活は?」

「今日は不思議なことに部休日なんだ」

 こいつ絶対サボりだな、という思いを込めて将原を睨んだ。

「な、行こうぜ」と将原が肩を叩く。将原の方が背が高く、肩幅も広い。将原は柔道のスポーツ推薦で入学しているのだ。

「……ふぅ」と僕は息を吐いた。覚悟を決めるしかない。

「仕方ないなぁ……」

「お、行ってくれるのか? 流石は八薙(やなぎ)だ。相変わらず、優しくて、おれはお前が好きだぞ」

 将原は親指を立てる。

 こいつはこいつで、相変わらずの性格をしている。悪いやつではないのだが、積極的に関わりたいとは思わないタイプの人間だ。

 放課後になるとすぐ、将原が僕のところに来て、「行こうぜ」と眼を輝かせながら、僕を急かした。

 外に出てからは、将原に引っ張られる形でヨダカ亭前まで行った。

「はぁあ、来ちゃったよ……」

 僕は溜め息を吐いた。店先の置物の無秩序な様を眺める。

 黒ずんだマトリョーシカ。

 皹のある日本人形。

 耳の欠損した某テーマパークのぬいぐるみ。

 某国産だと思われる某ロボットのソフビ人形。

 入り口にはドリームキャッチャー。誰もそこでは寝ないだろう。もしかしたら、店全体を悪夢と捉えているのかもしれない。

 あとは、鳥の置物。これだけが綺麗だった。

「まるで遺跡だな」

「凄いよな。これ、どっから持ってくるんだろう」

 将原の声は弾んでいる。何故、僕を誘ったのだろうか。ひとりで来れば良かったのに。

「よし、開けるぞ」と将原は宣言する。雰囲気は、敵地に突入する際の特殊部隊のようである。

 引き戸の凹みに手を掛けて、一気に開けた。引き戸が不快な音を立てて軋んだ。僕にはもう、将原が特攻しているようにしか見えない。

 彼の派手な入店とは反対に、中からは何の声もしなかった。だが、何かを切る音が聞こえた。リズム良く、トントンと音がする。かなり細かく切っているようだ。

 ここでふと疑問に思った。ヨダカ亭は、ラーメン屋の筈だ。なのに、ラーメンの匂いは感じられない。熱気すらも伝わって来ない。準備中だったのだろうか。店先が散らかっているため、看板を見落とした可能性は否めない。

「ごめんください」と将原。よく通る声だ。

 少し間があって、奥から白い顔が現れた。白というよりも、灰色に近い。その顔は無表情でカウンターに近付き、また間があってから「いらっしゃい」と言った。

「今、やってますか?」と将原。

「やってるよ」と店主。低く無機質な声で、温度が感じられない。店主は「好きなところに座りな」と言ってから、また奥に消えた。

「よし、よし」と将原がこちらを見て言う。

「嬉しそうだな」

「おうよ。やっとだぜ、やっと」

 将原と僕はカウンター席に座った。店内を見回すと、店先ほどごちゃごちゃしているわけではないが、所々に民族的なグッズが見られた。

 バリ島のカラフルな仮面。

 チャンカイ文化の人形。

 ハンティングトロフィー。

 あの笛はディジュリドゥだろうか。

 兎に角、世界の様々な文化のアイテムが置かれているのだ。店先のアイテムも中に入れてやればいいのに、と思った。

 店主が戻ってきた。その手には出刃包丁を握られていた。これだけでも充分ホラーである。

「おれは井垣久克(いがき ひさかつ)。お前らは?」

 店主はそう言った。とても客に対する態度とは思えない。だが、すぐに横で「将原泰千です」と大声が聞こえた。

 仕方がないので僕も「八薙凌真(りょうま)」と名乗った。

 店主はそれを確認してから、「注文は?」と訊ねた。僕は展開に圧倒されつつ、将原と同じのヨダカラーメンを注文した。横で「楽しみだな」と言う将原を見て、その順応性の高さに、感心と同時に呆れてしまった。

 十分ほどして、注文の品が運ばれてきた。店主は品を置いて、すぐに奥に消えた。ロボットのようにスムーズな動きをしていた。

「よっしゃ、食おうぜ、食おうぜ」と将原。

 僕はラーメンを観察した。厚めの叉焼(チャーシュー)によくあるナルト、少し固めのメンマ、あとはモヤシ、不透明なスープ。僕は違和感を感じて、メニューを見返した。

「なぁ、将原、これどう思う?」

「ん、何?」

 将原がメニューを覗き込む。

 メニューに載っているヨダカラーメンは、叉焼にナルトに、刻みネギ、海苔、卵が乗っており、スープは醤油ベースの半透明なものだ。対して、僕に運ばれてきたのは、不透明なスープで具も違う。

 メニュー表を見ていくと、少し下に味噌ラーメンがあった。目の前のラーメンはそれと一致しているようだ。

「え、これ間違えられてんの?」

「そうらしい」

 僕が店主にそれを指摘しようとした時、引き戸の軋む音がして、帽子を被った中年の男が入ってきた。男は僕の隣に座り、こちらを見て少し笑った後、言った。

「注文通りに来たかい?」

「え? いや、違いますね」

「やっぱりな。ははは、ひさちゃん! メニューまた違うってよ」

 彼は厨房に向かって言ったが、聞こえてくるのは包丁が俎板(まないた)を叩く音だけだった。

「悪く思わないでくれ」と男は言う。

「よくあることなんですか?」

「君らは初めてかい?」

「はい。初めて来ました」

「そうか。じゃあ、おかしいと思うよな。取り敢えず、ラーメン、食いなよ」と男は僕らを促した。

 口に麺が入った瞬間に、美味いとわかる。かなり腕が立つ料理人のようだ。将原も「美味い、美味い」と言いながら、次から次へと口に麺を運んでいる。

 男は石田(いしだ)と名乗った。彼は厨房に向かって「塩ね!」と言った後、僕らへの話を再開した。

「腕は良いんだよ。わかるだろ? 作業も早いしさ。常連からはロボットみたいって言われてんだけどさ。でも、ロボットだからってわけじゃないけど、時々、エラーみたいなのが起きるわけだ」

「それが注文の間違いってことですか?」

「そうそう。大体、三回に一回くらいは間違えてるよ。面白いんだぜ。前は、塩ラーメンを頼んだら、青椒肉絲が出てきたんだ。吃驚しちまったよ。ここの常連は、それも含めて楽しみにして来てるのさ」

「初めて来た人は困惑しそうですね」

「そうなんだよ。それと、ひさちゃんの振る舞いって、やっぱり、ロボットって言われるくらいだからさ、無駄がないって言うか……」

「必要なものを削り過ぎてる?」

「そうなんだよ。機能美を追求し過ぎてるんじゃないかな」

 そこで一旦、話は終わり、僕らはラーメンを啜り続けた。なかなかにボリューミーで、それでも飽きたりしない辺りが店主の腕なのだろう。

 石田にも料理が運ばれてきた。どうやら、ちゃんと、塩ラーメンが届いたようだ。

「ラッキーだ。おう、少年たち、餃子食うか? 奢るぜ」

「良いんですか?」と将原。眼が輝いているように見える。こんなに大食いキャラだっけ、と僕は記憶を漁る。

「もちろんさ。これで、君らもここの常連入りさ」と言って、石田は「餃子ね!」と厨房に向かって叫んだ。相変わらず、俎板を叩く音しか聞こえてこない。

「石田さんも、初めて来たときは名前を言わされました?」

「ああ、そうだね」

「何でですか?」

「さぁ? それは、よくわからんね」

 料理は三分後に届いた。

 果たして、届いたのは……。

「えっと、これって」

「ああ。バグったんだな」

 そこには、美味しそうな油淋鶏が皿に乗っていた。



 数日後、また将原に誘われてヨダカ亭へ。今度は、メンバーが増えた。将原が僕に気を遣ったのかどうか知らないが、同じ中学出身の友人の三人だ。三人もヨダカ亭のことを知っているが、認識は最初の僕と同じ。だが、好奇心が勝ったのか、割とスムーズに事は進んだ。

 入店し、少し待つと店主がやって来て、新入り三人に名前を訊ねた。僕と将原に訊かないということは、僕らは憶えられているということなのだろうか。

 三人、三宅(みやけ)紫波(しば)橋東(はしとう)は順番に挨拶をした後、不思議そうな顔で僕らを見た。当然のことだろう。

「何の意味があるんだ?」と紫波。

「おれもわからん」と将原。

「注文は?」と店主が訊ねる。

「じゃあ、おれはヨダカラーメンで」と言った将原に続いて、三宅、紫波、橋東も同じものを。僕は塩ラーメンを注文した。

 料理が来る間、名前を訊ねられた理由や店の内装の話が続いた。「ラーメン以外にも色々あるんだな」と橋東が壁を指して言う。見ると、目立たないが、壁に料理名が貼ってあり、唐揚げ定食や油淋鶏の文字が見えた。何故かわからないが、カルボナーラの表記もある。

 不意に引き戸が軋む音がして、石田が入ってきた。

「おっ、少年たち。何か増えてるね」

 三人が小学生みたいなテンポで挨拶をする。

「ははは、元気がいいね。未来をしっかりと担ってくれそうだ。ひさちゃん! 塩ラーメンひとつね!」

 彼は僕の隣に座って、「お楽しみだね」と言った。当然、将原と僕は理解できるが、他の三人は、ぽかんとしている。意外にも将原は説明をしてあげないようだ。

 そうこうしていると、料理がやって来た。僕のところには、しっかりと塩ラーメンが、だが、他の四人のラーメンは明らかに注文通りではない。何か、白っぽいものが浮いている。四人は顔を見合わせてメニューを確認し、目の前の料理と一致するものを見つけて言った。

「背油ラーメンだ」

 石田がそれを聞いて大笑いする。三人はまだ不思議そうな顔をしている。それに気付いた石田が、この前、僕らにしたように、事情の説明をする。「まぁ、美味いからさ、食ってごらんよ」と言って説明を締めた。

 四人はラーメンを一口啜って、瞬間的に顔を見合わせて、すぐに笑みを浮かべる。非常にわかりやすい。また、すぐにラーメンを啜り始める。

 僕も塩ラーメンを啜る。やはり、美味しい。本当に、料理さえ間違えなければ最高なのだ。だが、このギャンブル要素も魅力のひとつと言うのは、二回目でも理解できた。

 石田にも料理が届いて、すぐに石田はきょとんとして言った。

「これって、カルボナーラだよね?」

 将原たちが大笑いする。

 石田も困った顔をしたが、「青椒肉絲よりはいいかな」と言ってパスタを啜り始めた。フォークはないので、箸でラーメン感覚である。

「美味いね」と石田は言ってから、彼も笑い始めた。

 不意に店主が奥から現れて、僕らの前にアイスクリームを置いた。バニラの白とトッピングの苺の赤が対照的だ。

 僕らが店主の方を見ると、彼は「サービス」とだけ言った。

 将原たちが体育会系の礼を述べる。それだけでアイスクリームが溶けてしまいそうなほどだ。熱量の多い挨拶さえ、店主には影響を与えない。彼は何も言わず、表情も変えず、ロボットのようにぶれることなく厨房へ戻って行った。

「気に入られたんだねぇ、君ら」

「そうなんですか?」

「ひさちゃんがサービスで何かを出すなんて滅多にないよ。常連中の常連のおれでさえ、一回もないんだからさ。ましてや、メニューにはないアイスクリームなんだぜ、それは貴重だ」

 僕はアイスクリームを口に運んだ。スプーンはなかったので、箸である。アイスクリームは当然のことだが、よく冷えていて、苺の酸味とバニラの甘味が非常にマッチしていた。自作なのだろうか、それにしても、美味しいアイスクリームだ。将原たちも箸で掻き込むようにアイスクリームを食べていた。

「凄い勢いだな」

「おうよ」

「女子に嫌われるぞ」

「ここに女子はいないから問題ないさ」

 四人はアイスクリームを平らげると同時に頭を抱える。アイスクリーム頭痛である。面白いことに、この名前が医学的に正式名称なのだ。

「水飲みなよ」と石田。

「……うっす」と返す将原。苦しい時でも礼は忘れない。将原の人格か、体育会系の因習か、判然としないが、将原のそういうところは嫌いではない。僕にはない特徴と言える。

「ごめんください」とまた引き戸が軋んで、誰かが入ってくる。その人物は少し離れたカウンター席に座り、こちらに会釈をしてから、「生姜焼定食をひとつ」と厨房に向かって言った。

 スーツを着ており、会社の重役的なイメージの男だ。

天無(そらなし)さんじゃないですか」と石田。

「ご無沙汰してます」

「お仕事は順調ですか?」

「まぁ、ぼちぼちと。需要は減らない職業ですので、そこは助かっていますよ」と天無という男は答えた。よく見ると、襟のところにバッジがついている。向日葵のような模様、恐らく弁護士だろう。

「仕事終わりですか?」

「まぁ、そんな感じです」

「今は何を弁護されてるんです?」

「えぇ、ああ、あまり大きな声では言えないんですけど」と僕らの方に視線を向けながら言った。将原たち四人はプロ野球の話をしているので、対象は僕だけのようだ。僕は眼と口を閉じて、首をゆっくりと振った。口外はしない、というジェスチャーである。それは一応、伝わったようだ。

「この前、団地から女の子が誘拐された事件あったでしょう? あれの件でちょっとね」

「犯人は捕まったんでしたっけ?」

「まだ、容疑者の段階ですよ。でも、十中八九、無実だと思うんですよね。アリバイもあるし、あ、これ本当に口外しないで下さい」

 料理が天無に運ばれてくる。ちゃんと、生姜焼的定食のようだ。

「ひさちゃん、聞いてた?」

「聞こえるだけは聞いていた」

「大丈夫ですよ」と天無。「井垣さんに限って口外はしないですよ」と笑っている。

 僕はアイスクリームを食べきり、将原たちと店を出た。

 後日、天無の言っていた事件の容疑者に有罪判決が下ったことは、今もしっかりと憶えている。



 高校二年の秋。

 僕はひとりでヨダカ亭に行くことが増えた。というのも、夏休みの間に、将原に彼女が出来たからだ。何処にでもいるような、典型的な美少女で、それでも将原は誇らしげだった。

 三宅ら三人も部活の方面で忙しくなり、放課後にゆとりなど出来なくなったようだ。

 恋人もおらず、部活にも属さない僕の居場所は限られていた。

 ヨダカ亭ならば、安い値段で美味しいものを食べ、常連客との会話を楽しむことができる。行く回数を重ねていくうちに、店主との距離が少しずつ近くなるという点も楽しみだった。

「炒飯ひとつ」と注文する。同じものを注文したことはないが、同じ料理を食べたことなら幾度となくある。

「いつも思うけどさ、夕飯とか大丈夫なの?」と石田。

「大丈夫です。うちの親、夜遅いんで、夕飯代はもらってます」

 石田は素麺を啜っている。初めて見るメニューだ。

「違うよ、これ、おれは塩ラーメンを頼んだんだよ。そしたら、素麺だ。でも、これ凄いんだ」

「何がです?」

「実は、メニューの何処を探しても見つからないんだ。ヨダカ亭の常連客でも、なかなかない経験だと思うよ」

 僕はメニューを見回した。確かにない。

 奥から店主がやって来て、僕の前に料理を置いた。

「なぁ、ひさちゃん。素麺ってメニューにあるのかい?」

「ない」と店主が一言。

「即興かい?」

「そんなところだ」

 相変わらず、バグってるなぁ、と思いながら、目の前の料理を見ると、それは炒飯ではなく、メニュー表の下の方にある雲呑(ワンタン)ラーメンだった。苦笑いしつつ、麺を啜ると、やはり、美味しかった。

 店主との距離は大分、近くなったようだ。その証拠に、この前は、店名の由来を話してくれた。

「宮沢賢治の『よだかの星』から借りた」と店主は言った。実際のところ、そこからしかないだろうな、とは思っていた。だが、それを選んだ理由は教えてくれなかったため、わからないままだ。



 ある日、麻池(まいけ)スウという人物と知り合った。彼は、ヨダカラーメンを注文したら、担々麺が出されたらしく、困惑した表情をしていた。僕が説明をすると、彼は笑っていた。

 麻池スウは中性的な容姿をしている。僕は最初の数ヵ月は女性だと思っていたが、男性だと教えてくれた。作家を生業としているらしい。

「美味しいね」とスウ。声も高い。女性と言っても充分に通じる。肌が白く、身体は細い。美しい人だな、と僕は素直にそう思った。比較するといけないが、将原の彼女とは違うと思った。

「スウさんっていくつになるんですか?」

「今、二十八かな」

「見えないですね」

「ありがとう」

「スウさんは、宮沢賢治とか読みますか?」

「宮沢賢治? ああ、セロ弾きの……。うーん、読まないね。宮沢賢治に限らず他人の小説は読まないことにしてる」

「どうしてです?」

「他の影響を受けたくないから」

 彼は丼に口をつけてスープを飲んだ。何故か、蓮華すらも用意されていないのだ。豪快な飲み方だが、それでも気品が漂っていた。本当に男性なのだろうか。騙されているのではないのだろうか。

 十月、空気が急降下していく頃、僕がヨダカ亭を訪れると、石田、天無、スウ、そして、店主が話していた。珍しい光景だ。

「こんにちは」と僕が言うと、石田が片手を上げた。「何を話して合ってるんですか?」と僕は訊く。

「特に纏まった話はしてないよ」と天無。

「僕の小説についての話とか、天無さんの担当してる事件の話とか、そんな感じ」とスウ。

 そう言えば、天無に会うのは、一年と三ヶ月振りなのだ。時間の速さには溜め息が零れる。

「注文は?」と店主。

「生姜焼定食で」

 店主は奥へ行ってしまった。僕はスウに言う。

「バグってなければいいんですけど」

「バグ?」

「ええ。ロボットみたいでしょう?」

「そうさ、それくらい正確なんだ」と石田。

「僕らもバグだと思うけど」とスウ。

「え?」

「え、思わない? 人間は皆、バグなんだよ。僕はそういう理念で物を書いてるわけなんだけど……。うん、忘れて? 考え方は人それぞれってことにしておいて」

「わかりました」と僕は返したが、それでも、頭にモヤモヤしたものが残ってしまった。

「ご主人はどう思います?」と少し大きな声でスウが訊ねる。時々、思うのだが、彼の動作は少し劇のようにぎこちない時があるようだ。

「人もロボットも変わらんよ」と店主は答えた。彼は生姜焼定食ではなく、豚カツ定食を僕の前に置いた。

「人もロボットも有限だからな。そのうち、劣化するのは当たり前なのさ。お前らの注文と、おれの認識が食い違ってるなんてことが良くあるのは知ってる。けれど、こればっかりは治らん。この記憶に関する能力だけが壊れてんだ」

「自覚あったんだねぇ」と石田が感慨に浸ったように言う。

「厨房に行くまでは憶えてるんだ。そっから、ふっと、霧のように消えちまうんだ。それで、料理を作り終えて気付くんだよ。ああ、間違っちまった、ってな。でも、今更だし、そもそも、対策を講じても、それすら忘れちまうんだ。だが、不思議なことに来店した客の名前は忘れないんだ。おれの頭は変なところで頑固なんだよな」

 僕は驚いた。彼がこんなに話しているのを見たことがなかったからだ。箸で掴んだ豚カツを口に運べないまま、僕は固まっていた。いや、僕だけじゃない。石田も天無も微動だにしない。

「でもよ」

 店主が言う。

「おれの飯は美味いだろ? それだけでいいのさ」

 彼はそう言うと、厨房に戻っていった。

 バグじゃない。

 恐らく、彼の「仕様」なのだろう。



 三年になってからは、ヨダカ亭を訪れる頻度は急激に低下した。受験対策などに時間を持って行かれてしまい、ヨダカ亭には二週間に一回程度しか顔を出さなかった。ヨダカ亭に行けば、時間を忘れられる。恐らく、あの店内には時間という概念がないのだろう。ギャンブルな注文をする楽しみはまだ健在で、僕は一通りのメニューを頼み尽くしてしまったので、最近はヨダカラーメンと生姜焼定食のどちらかしか注文しない。しかし、それ以外が現れることは珍しいことではない。

 石田も相変わらず、いつでもいる。

 天無には一度だけ会った。

 スウは時々、現れる。いつ見ても美しい。

 受験が終わり、第一志望に見事、受かることができた。僕は県外に住むことになり、引っ越しの準備も整えた。最後に、ヨダカ亭に挨拶に行くことにした。

「こんにちは」と引き戸を軋ませて入る。

 石田が「久し振り」と迎えると、店主も厨房から出て来て軽く頷いた。スウは冷水の入ったグラスを揺らしていた。

「受かったんだね」とスウが言う。

「あ、はい、一応」

「自信持ちなよ。お疲れ様、ここからが君だよ」と彼が僕を励ましてくれた。僕にとっての最高の誉れだった。

 僕はヨダカラーメンを注文した。

 今日はしっかりと、注文通りに届いた。

 ゆっくりと、噛み締めるように、忘れないように麺を啜る。何があっても、この記憶だけは褪せたり、侵されたりしないように。

 店主は何も言わなかったけれど、その顔は微笑んでいた。それはロボットではなかった。人とロボットは同じと言うが、店主は確かに人なのだ。僕はそれがわかって、少し嬉しくなった。

「当分、会えないんだね、寂しくなるよ」と石田。

「心配しないで下さい。また、すぐに来ますから」

「忘れないでね?」とスウ。

「はい、忘れません」

 忘れるわけがない。

「八薙くん」

「え?」

「頑張れよ」

 店主はそう言った。

 僕は感動した。彼が誰かを名前で呼んだシーンは見たことがなかった。僕の高校三年間の集大成はここにあるように思えた。

 また必ず来よう、そう思った。

 けれど、それは叶わなかった。

 大学生になってから初めての六月。梅雨に苛まれる頃、店主の井垣久克は亡くなった。七十九歳だった。死因は、脳溢血だったらしい。死の瞬間は、その場にいた石田とスウが看取ったようだ。

 もちろん、僕は葬式に行った。雨の鬱陶しい日だった。参列者は二十人程度。全員が店の客で、僕の知らない顔は夜にヨダカ亭を訪れていた人々のようだ。

 ヨダカ亭や彼の遺産は、天無の活躍の下で分配された。店は石田が相続し、その使途は常連客たちと決める、と言っていた。

「もう食えないと思うと悲しいよな」と石田は眼を赤くして僕に言った。喪主を務めているのは彼だ。

 僕は何も言えなかった。

 石田が去って行き、スウが話し掛けてきた。

「悲しい?」と彼は訊ねた。彼の服装はドレスのような、スーツのような、よくわからないものだった。

「悲しいですけど、彼はロボットです。データとして僕らの中で生き続けていく筈です」

「そうだね。僕もそう思う。人間なんて全部バグなわけだけど、彼の記憶だけは修正されないバグであって欲しいな」

「……どうして、人とロボットには違いがないんでしょうか?」

「いずれは劣化して、壊れてしまうから。それは僕らにとって遠いようで、実はすぐ傍にあることなんだよ」

 スウはそう言って、灰色の雨の中に消えた。

 今日は、ひとつ、夢を見るだろう。僕はそう感じた。それは、きっと、不格好な鳥の夢だ。

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