3月の約束
世界が色づき始める。
三月の卒業式。
校庭の片隅に立つあの桜は出会いと別れを毎年見届けているのだろうか。
「え?マキと拓也君って付き合ってなかったの?」
友人が驚いた顔で聞き返した。そう、私と拓也はそういう仲じゃない。
拓也は小学校五年生の時に私の住む町に引っ越してきた。その時から数えるともう8年も経つ。中学、高校と進学先が同じだったために、なにかとよく一緒にいた。でも長い付き合いの中で私たちの間には淡い気持ちなんてかけらもないこと、自分自身が一番よく分かっていた。
「じゃあマキ、拓也君とはなれちゃうじゃん。」
「まあ、ね。」
卒業すれば離れるのは当たり前のことだ。わかっているつもりだった。
その時、勢いよく教室の扉が開いた。噂をすればかげ。拓也だ。
「マキ、カメラ貸して。おれのやつフィルム終わった。」
「信じらんない。どれだけ撮れば終わるわけ?」
ため息をつき、カメラを鞄から取り出して手渡した。
「さんきゅ、助かるよ。あとでメロンパンな。」
そう言って駆け出していく。廊下から伝わる足音が遠のいていく。
“メロンパン”で私は9月の体育祭の練習を思い出した。
まだ強い日差しの残る9月に高校行事を代表する体育祭がある。それは受験生である3年生にとっては最後の学校行事で、どのクラスも力を入れて取り組むのが慣例であった。じりじりと焼けるような暑さのもと、一致団結してクラスみんなで練習をしているときだった。何か体が変だと思った私は、自分が立っていることで精いっぱいであることに気が付き、次の瞬間にはその場にうずくまった。こんなことになるなら…朝食を抜くんではなかったと後悔していたとはだれも気がつかないだろうなとぼんやり考えていた。
「マキ、大丈夫?」
クラスメイトが心配する声が四方から聞こえるが、体はどうしてもいうことを聞かなかった。頭がぐらぐらした。
「オレ、桜の木の下まで運んでくるから。」
次の瞬間、私の体は誰かに支えられて立ち上がった。拓也だった。
「マキ、歩けるか?」
「うん。」
私は肩を支えられてゆっくり歩いた。背後からは冷やかしの声が飛んできた。この状況なら仕方ない。でもその声もだんだんと遠のいていった。
私は桜の木の下の影に座った。拓也から離れたというのに体の感触がまだ残っていた。どうして気がつかなかったのだろう。私は拓也を毎日近くで感じていたはずなのに。全身が熱くなっているのを感じた。こんなのは初めてだ。
「おい、大丈夫なのか?熱射病か?顔赤いぞ。」
「う、ん。大丈夫だから。」
ぐーきゅるるる…
タイミングの良さに自分を呪った。これで拓也に全部分かってしまったに違いない。私がただの空腹状態であるということを。
「もしかして…腹減ってるのかよ、マキ。」
「うるさい!仕方ないじゃない、朝ごはん食べ損ねたんだから。」
長年の付き合いとはいえ自分のおなかの音を聞かれるなんて相当恥ずかしかった。
「へいへい。」
肩をすくめてみせた拓也は背を向けてどこかに行ってしまった。
いつの間にか寝ていたらしい。何か冷やりとするものが私の首筋に当たり私は目を開けた。拓也がいた。
「…つめたい。」
非難めいた目で見てやった。
「知ってる。」
笑いながら得意そうなかおで言って、私のひざに乗せたのはペットボトルのお茶と私の大好きなメロンパンだった。
「え?」
「早く食べないと他のクラスのヤツに音聞かれるぞ。」
「っ、ばか!」
「じゃあおれは戻ってるから、ごゆっくり。」
そう言うと拓也は駆け出してクラスの練習に戻っていった。目の端に合流するのが見えた。
ありがとうも言わずに行かせてしまった自分を後悔した。あの時のメロンパンの味は忘れられない。
そんなことがあってから拓也は私の中で少しづつ変わり始めていた。
「マキは知らないのかもしれないけど、拓也君ってもてるんだからね。」
私だって知っている。毎日そばにいればわかることだ。
「拓也君狙いの女の子はみんなマキがいるから近づけないって思ってるらしいよ。」
「へえ。別に気にしないのに。」
本当はすごく気にしている。
「今日の卒業式が終わる前によく考えなさいよ。」
言われなくたって自分の感情にはようやく気が付いた。少し遅かったかもしれないけど。
教室の窓から外に目をやると、あの校庭の桜のつぼみは弾けんばかりにふくらんでいた。でも花が咲くころには私たちはもうこの学校にはいないのだと思うと少し寂しかった。
後悔したくない。式も全て終えたし、とりあえず会おう。そう思った私はケータイで拓也をあの桜の木の下に呼び出した。
「マキ、見ろよ。ボタンとかいう問題じゃないぜ。ブレザーごと後輩に取られたんだけど。」
ブレザーまで後輩にあげてしまって、両手を広げて見せた拓也は豪快に笑っていた。一緒に笑えないのは、やっぱり私がこんな気を起こしたりしたからだろう。知ってるの?第二ボタンは好きな人にあげるんだよ。私がどれだけの勇気を振り絞ろうとしていたかなんて知らないんだ…拓也は私のことを友達にしか見ていないとイヤでも悟った。
「マキ…どうした?」
私の表情に気がついたのだろうか、少し困った顔をしている。
「なんでもない…の。元気でねって…言おうとしただけ。拓也のことだから…元気じゃないなんて、あり得ないよね。」
いつもあんなに威張った態度の私が拓也の前で言葉を詰まらせるなんて初めてだ。もうこんな自分がたまらなくキライになる。後悔したくないんじゃなかったの?これが最後なんじゃないの?
妙な間が二人を取り巻いていた。
「あー!」
拓也は突然大声で叫んだかと思うとオーバーリアクション気味に、
「さっきメロンパン買ってやるって言ったのに、忘れちった。なあ、あの約束忘れないようにこれ持っててくんねえ?」
真剣な顔をして取り出したのは…ブレザーのボタン。
涙ぐんでるなんて恥ずかしかった。だけど嬉しかった。
「…ばか。…買ってもらえるまで絶対に忘れないんだから。」
いまか今かと待ちわびていた桜の咲く季節はもうすぐそこまで来ていた。