甘い珈琲と苦い男の話
「苦いものは苦手なんだ」
運ばれてきた珈琲に、3つ目の角砂糖を溶かしながら言った。
「頭痛が痛い的な?」
金髪の男が、こめかみを指差してブレスレットを揺らす。
柔らかそうな髪が、金木犀を彷彿とさせる。
「何の話だよ」
「冗談。続けて。」
「だから、苦いものが駄目って話だよ。粉薬なんてモノ、飲めたもんじゃないくらい。」
語気を強めながら、苦味に対する憎悪を込めて目の前のちょこれいと菓子にナイフをいれる。
求肥に溶かしたちょこれいとを包んである菓子ですから、中身がほとんど溢れ出てしまった。
「ああ、一口で食べてしまえば良かったのに。」
一瞬、金木犀の香りがした気がする。
「一口で食べてしまえば、求肥の味がよく分からないじゃないか。」
この求肥にも、ちょこれいとが練りこまれているんだぞ、と目の前の黒髪の男が不満気に言い返してくる。
「私なりのこだわりなんだ。」
「皿をひどく汚してまで貫き通すこだわりかねえ。」
悪戯心で飛ばした嫌味には、長い睫毛越しの睨みしか返ってこなかった。
__「世の中は本当に、苦い。」
黒髪の男は独り言を呟いた。
役者を夢見たこの男、生きていくことに精一杯であり、日々を消費しては焦燥にかられる20半ばの青年である。
「私はこの感受性を活かしたいと、役者を目指し上京した。しかし何のことはない。この感受性こそが邪魔なのだ。」
ただ生きているだけで心が疲れきるほどの、この強すぎる感受性こそが、男の才能であり受難であった。
生活を賄う金を稼げば、休日に稽古をする気力など残らない。
しかし、生来頑固者の節があった故、これを憔悴しきるまで繰り返したのである。
ならばどうなるかなど、考えなくともお分かりでしょう。
気力も体力も、都会の喧騒に吸い込まれた私は自覚したのです。役者になることなど不可能であると。
私は自覚した。 自覚してしまった!
とうの昔に気付いていたが、知らぬふりをしてきた事実に!
とうとう、その事実の柔い膜に、自らメスを入れ、溢れ出す苦味に息を乱した。
私は役者になれぬのだ!!
肩を激しく上下して、本能が死を悟ろうとするとき、いつの日か友人と食べたちょこれいと菓子を思い出していた。
あの菓子も、ナイフを入れたところから中身が溢れた。
綺麗な金髪の友人は目を細め、一口で食べてしまえば良かったんだと言った。
私は確か、こだわりなのだと意地を張った。
友人の言う通り、一口で食べてしまえたなら、私は妥協を覚えられただろうか。
苦い珈琲も、それもまた味であると思えたなら。
私はこの生きづらい世の中で、他者に認められる程の努力ができたであろうか。
味覚を馬鹿にして、一口で、苦味を飲み込んでしまえたなら、あるいは…。
それができなかった私には、もう明日が無いのだけれど。
無い方が、良いのだけれど。
逆さまに映った世界で、煉瓦道が脳天に近付いた。
金木犀の香りがした。
____「苦いものが駄目なんだ。世の中は苦味で溢れているのに、わざわざ食べることも無い。」
いつか聞いた、悲嘆に等しい彼の愚痴を、煙草の煙と一緒に肺に取り込む。
「苦いもんくらい、鼻つまんで飲み込めよな。」
黒く染めたかつての金髪を、耳に沿って搔き上げる。
吐き出した白を燻らせ、かつての彼のように、珈琲に角砂糖をみっつ、溶かした。
苦い、苦い、甘さの消えたこの世界を、部屋の窓越しに眺めた。
庭の金木犀が一瞬、強く香る。
僕がきっと嘆いた、君の逮夜。