犬アレルギー
その男は血に飢えたような恐ろしいかすれた声でこう言った。
「かっ……し……ハックション!」
――なんてことはない。柴田であった。
「どしたの」
「掃除を……したんだ」
「で、どしたの」
「治らないどころか酷くなった……ヘックシ!」
「もう病院行ってこいよ」
「今行くヘックシ!」
「お大事になー」
「ああ」言い切ると轟音を立てて鼻を啜った。
風邪移さないでくれよ……とおもいつつ会話のない妙な間の悪さを感じ、不審者改めもこの言っていたことを冗談交じりに聞いてみた。
「あ、お前犬とか飼ってないよな」
「飼えるわけない、犬アレルギーなんだ」
「あ、そうなの」
「あと猫とハムスターとウサギと馬もなックション」
「それじゃね?」
「なにが」
「その症状」
「だから何も飼ってないんだよ」
「でもなんか犬を連れてる人を見たって噂を聞いた」
「アパートの中で?」
「……多分」
「迷惑なことしてくれるなぁぁぁックション!!」
「まあ実際に見たわけじゃないけど」
「大家に言いつけてやる」
「ああ、俺こっちだ、無事を祈る」
「これ以上酷くぅぅうぇあックション! ……はならないでしょ……」
犬じゃなかったとしても、なにかしらの動物ってのは十分にありうる。いや、何か他の生き物……それ以上考えるのはやめた。
布団なんて何でもいいんだ、こう、四角くて、綿が入っていて、そう、こんな感じの適当なのでいいんだ。と、独りで会話しながら物色していると、ちょうど手ごろな布団に行き当たった。
(そんなに長く使うわけじゃないし、これで充分だろ)
値段も手ごろだ。俺はその布団に決めた。
そして、持って帰った。
しかしこれが意外と大変で、重いこと重いこと。しかも全行程の半分くらい来たところで雨が降り出した。最悪である。不幸中の幸いとでもいうべきか、ビニールに入った布団がちょうど雨避けにはなる。が、しかしだんだんその雨も強くなってきた。工事の音もかき消すくらいのザーザー降りだ。
と、思ったらもう家に着いていた。あろうことか奴はテレビを見てくつろいでいた。
「ただいま」
「ん? ああ、おかえりなさーい」
その口にアイスを咥えなおした。
「おい」
「何でしょうか」
「人のアイスを食べてはいけないって小さいころ習わなかったのか」
「小さいころの記憶なんてないですよ」
確かに。
「そういう問題じゃない、倫理観とかないのかお前には」
「アイス一つでぎゃーぎゃーと、小さい男ですね」
「ん」
実のところアイスの一本や二本どうだって良かった。俺が雨に打たれながら重い荷物を背負ってきたというのに、こいつときたら優雅な休日みたいな過ごし方をしやがって。そこが許せなかったのだ。
しかしながら年下の女の子に”小さい男”と言われて傷つかない男なんているのか。いるとしたらそれはもう小さいどころの話ではない。”ない”男である。何がとは言わないが。
「一言謝れ」
「……ごちそうさまでした」
渋い顔でそういった。がしかし、その言葉を聞きたかったわけではない。
「ああ分かった、罰として夕飯を作れ
」
夕飯は肉と野菜が入った名状しがたい料理と冷凍のごはん、そしてインスタントのスープだ。これらはすべて傀奇がぶーぶー文句を言いながら用意したものだ。でも味は悪くない、というかむしろ美味い。意外と使えるかもしれない、と思えた。しかしながら食費がほぼ倍かかるというのは、大学生の一人暮らしにとってはかなりの痛手である。しかもこいつは結構な量を食いやがる。
「私が作ったんだから洗うのは先輩ですよ」
「まあ、それぐらいはな」
甘い、とは思ったが期待以上の味に納得してしまった節はある。
「じゃ、私は先に寝ますね」
「おい」
「先輩、おやすみなさい」
「はぁ」
釈然としないというか、呆気にとられたというか。
まあでも別にいいのだ、一人の時間というのは必要だ。
「ダンッ」
神は一人の時間を許さなかった。
ベルもなく何者かがドアを開けた。
「たすけて……くれ……」
そいつは絞り出すように言った。
最初だけは驚いたが、なんてことはない。柴田だ。が、そのただならぬ様子に訝しく思ったのは事実である。
「何事」
「家が、だめだ」
「は?」
そんな日本語は聞いたことない。
「家にいると正気じゃいられない」
「なんで」
「わからない」
言い終わると靴を脱ぎ始めた。
「おいおいおいおい」
「え?」
「いや、ちょっと中に入れるのは……」
「なんで」
理由を取り繕うのに数秒かかった。
「ああ、そう、風邪をね、移されたくない」
「それなら問題ない」
柴田は靴をきれいに並べると無遠慮に目の前に座った。
「問題あるだろ」
「いや、ないんだよ。風邪じゃあないらしい」
「病院行ったんだろ?」
「ああ。でも病院に着くころにはすっかり良くなってた。」
「学校の時みたいに?」
「そうそう」
「……やっぱ犬だろ」
「でも大家も犬は見てないって言ってた」
「聞きに行ったんだ」
「でも収穫なしだ。原因も未だ不明だ」
「やっぱ今朝言ったようにハウスダストじゃねぇの」
「ところがどっこい、並み居る俺のアレルギーでもハウスダストは対象外なんだ」
対象外。その言葉選びに聊かの疑問は残るが。
「そっか、それは、もう、地縛霊とかか」
我ながら適当だった。
「地縛霊か! あり得る!」
真に受けた。
「じゃあ除霊とかすれば治るのかな」
「知らん」
霊……幽霊……その手の話は基本的に信じていない。
「まあ、なんだ。今日は一晩泊めてはくれないか」
(ふたりめかよ……)
「……いいよ」
もうどうとでもなれ。
「サンキュー」
柴田はにんまりとに笑った