思い出すことなんてない
今俺がやるべきこと、それは、今家にいるあいつの処理だ。そういえば名前も聞いてない。いや、聞いたんだったかな。でもあいつも覚えてなかった。……どうやって入ったんだろうな。鍵開いてたかな。……開いてたとしても入んないだろ……人ん家だぞ。その辺も今日帰ったら聞こう。そこら辺を知らずに泊められる俺ってなんなんだろう。
などと考えているうちに授業は勝手に終わった。
「飯行こう」と言う柴田の声は今朝の鼻声とは打って変わって健康そのものだった。
「お前鼻声治ってんじゃん」と言うと俺はラーメンを啜った。
「そうなんだよ、家から出ると良いっぽい」言い切るや否や一口啜った。
「あれじゃね? ホームシック? だっけ?」恐山も啜る。
「シックハウスだろ、実家が恋しくて、涙と鼻水が止まらない!……んじゃない」
「お前たまにそういうことするよな」柴田がこちらを見た。
「シックハウスとかハウスダストとかそういう類なんかな」箸を止めて続ける。
「掃除すれば良くなるかな」
「なんもやらないよりはね」俺が箸を止めることはない。
「よし、決めた、帰ったら掃除する」
「ごっそうさまっしたー」恐山は中盛を平らげて店を出ていく構えだ。
「あーだっしたーああああ」ラーメン屋特有の妙な挨拶だ。昨日恐山がテレビで聞いたのもこんな感じなのだろうかと思いつつ、大盛を平らげて恐山に続いた。
「お前ら早いな」
口はスープを飲みながら二人に続く柴田。
「じゃ」
「掃除しとけよ」
ラーメン屋を出ると各々の道に別れた。
全授業終了。大学生にとっては何よりの幸せである。が、今日はそうもうきうきしていられるものではない。一刻も早く家に帰らなければ。
「今日この後暇?」
「わりぃ今日無理」
「お、女か?」わかりやすくニヤついている。
まあ”女”ではあるのだけど、この文脈上の意味での”女”ではない。
「ちがう」嘘は言っていない。
「ほーん、まあいいや、じゃあな」依然としてニヤついている。
「おう」
今、危険すぎる状況に自分がいることを久しぶりに思い出した。素性も知らない人間が一人で部屋にいる。『掃除でもしてろ』と言い捨てた気がするのだが、これは言い換えれば部屋中の探索を認めたことになっている。まあ、こんなところで冷静になっても仕方ない。荷物を丁寧にまとめ上げると、足早に帰路に就いた。
「ただいまー」
「あ、お帰りなさい」
あ、家に人がいる。微かにうれしいと思ってしまった自分が実に情けない。
「で、なんか思い出した?」
「ああ、それは、その、まあ、いいじゃないですかそんなことは」
少しもよくない。むしろ最重要である。
「まあ、思い出すこともないですよ」表情一つ変えずに言った。
何様なのか、と。いや、言葉の裏があるのか。少し考えたがやはりないであろうと思いついた頃には次の会話を始めた。
「ときに……」
「ときに?」日常会話で使う人を初めて見た。
「ここってペットOKなんですかね」
「え」予想外というか想定外というか意味不明というか五里霧中というか。最後のは違うな。
「さっき犬を連れて歩いてた人がいたんですよね」
「いや、ペットはダメなはずだけど」
「うーん、おかしいですね、確かに見たと思うんですけど」
「で?それがどうした?」
「え?いや、別に」
自由か。もっと他に言うことはないのか。……ないのだけれど。
あっ、警察? それはありだ。なぜ今まで思いつかなかったのだろう。何罪だ。不法侵入だ。我ながら良いアイデアだ。これで厄介者を始末……厄介……でもないんだよな、実際。うーん。もう、はやくも日常の一部にはなりつつある。それはそれで腹の立つ話ではあるけれど。
「どうかしました?」上目に聞いてきた。どうかはしてるんだよ最初から。どうしようかを考えているんだ。
「お前、名前なんて言うんだっけ」我ながら雑だ。
「さあ」
知っていた。知らないのは知っていた。
「なんか適当に考えろ、呼びにくい」
「嫌ですよ、ていうかあなたの名前も知らないんですけど」
「俺は柏崎智隆だけども」
「おいくつ」
「二十」
「かしわざき……二十歳……じゃあ、多分年上なので先輩って呼びますね」
(!……聞かなくてよかったじゃないかよ、え?あ、そう)
「あ、そう、まあ、そっちの自由だけど」
「じゃあ今度は先輩の番です」
「今俺の番だっただろ」
「先輩が私の名前を考える番ですよ」
(!……なんかこいつ家を離れている間に図々しくなっている! 心の距離が縮まる材料など一つもないのに)
「俺が考えるのか」
「先輩が考えるんです」
無理難題だ。
「なんか、好きな物とかないの」上手く口車に乗っている自分がいたが、気づかないふりをした。
「好きな物なんてないですよ自分が誰かもわからないのに」
正体不明……怪奇現象……謎……曖昧模糊……無知蒙昧……最後のは違うな。
怪しくてはっきりしない存在……
「かいき……もこ……?」自分の底が知れた。自分がいずれ親になるのが危ぶまれるくらいだ。
「キモ子!? ひっどいなぁ、それなりにかわいいと思うんですけどね」
「違う怪奇現象の怪奇に曖昧模糊の模糊」にしてもそんなに良い名前とは言えないが。
「何ですかアイマイモコって、やっぱ大学生は色々知ってるんですね」矢継ぎ早に続ける。
「でも小学生だったら絶対キモ子ですよ、あだ名はキモ子できまりですよ」
「まあ別にいいですけどね、正体を思い出すまでの仮の名に過ぎません」
「まあ、それでいいならいいんだけど」
「じゃあ、漢字はさしあたり”仮に生きる……もこ……”」
「”もこ”ってなんだよ」
「先輩が付けたんじゃないですか」
「あと”仮に生きる”で”仮生”はやめたほうがいいと思う」
「なんでですか、意味的にぴったりじゃないですか」
「……字面がほぼ”かせ……”「やめましょう」
「うーんと、あ、カイライの傀に……キはそのままカイキの奇」
「まあ、いいんじゃない」いいのかな? 果たして。責任の一端は俺にもあるのだけれど。
「良くないですか? ”傀奇もこ”」
「まあ、最大限というか限界というか」悪いのは俺じゃないことにしようと思う。
と、もう薄暗くなっているのに気づいた。低い雲が立ち込めている。
(あ、布団)今後も床で寝るのは苦しい。
「ちょっと買い物行ってくる」返事がない。
「俺は!買い物に行く!」わざとらしく言ってみたが依然返事はない。
寝ていた。死んでいるんじゃないかと錯覚するくらい静かに寝ている。まあ、起こすこともあるまい。埃一つない床を見るに本当に掃除はしてくれたようだ。
「行ってきます」とつぶやくとドアをそっと開けた。
家を出るとそこには充血した真っ赤な目に怪しいほどに白いマスクを着けた男がいた。