始まった夜
ガチャ。
「ただいまー……って誰もいないるわけないんだけど……」
大学生二年生である俺は、今日も仲間とこんな時間まで飲んでいて、こんな時間に一人アパートに戻ってきた。
「ああー」と意味もなく叫びながらテレビのスイッチを点ける。
しかしながらひどく酔っ払っていたため、テレビで言ってることが全く頭に入ってこない。
(完全に飲みすぎた。風呂入ったら死ぬんじゃねえかな。寝るか。)
とはいえ布団は清潔に保ちたい性質なのだ。一日も終わろうとしている今、俺より汚いものなんて、洗ってないカーテンか振り込め詐欺くらいのものである。二つ目は違う?いや、酔っ払いとは往々にしてそんなものだ。
シャワーだけ浴びて寝ようと思い立ち、服を煩雑に脱ぎ捨てて勢いよく浴室の扉を開けた。
『ドン!』
「わあ!!」
何かに当たる、と同時に聞いたことのない叫び声を聴いた。
「わ、ああ、え? あ、いや、ちょ」
女である。しかも素っ裸の。
狼狽える女の子の前であほ面全裸の二十歳の姿がそこにはあった。
いや、狼狽えたいのはこっちのほうなのだが。
ふと、我に返った我は、我の我を隠した。
服を貸した。ぶかぶかすぎて萌え袖とかいう次元ではない。
「ほんっっっっとすみませんっ」
「すみませんというか、な、なんなの? 何者なの?」
「それ……がちょっとわからないんですよねー……」
わからないらしい。わからないのだ。両者。お互いに。何も。
「なに、記憶喪失的なアレなの」
「もう、なんも、全然わかんないんすよ……」
なにか、凄く焦っているのは伝わる。まあ仮に記憶喪失的なアレ、だったとしても俺の家の風呂場にいた説明にはならないのだが。
「なんかないの、ちょっとでも、なんか、こう、ヒント的な」
「いやもうほんと、すみません。もう出ていきますね。お騒がせしました。」
「出ていくってどこに」
「あ、うーんと……」
考えることなどないはずだ。そのままの意味で。
「あのー……」
「ん?」
「しばらく泊めてもらってもいいっすか?……」
「ああ、いい」のか?
どう見ても年下だ。高校生くらいだろうか。女子高生と男子大学生の同棲、ありえない話ではないのだろうが。幸いにして彼女はいない。したがってその心配はいらないのだが。まあ、良いか。困ったときはお互い様、というかお互いに困っている、というか。
数秒考えたのち、
「いい、んじゃないか?」と返事をした。
「ありがとうございます」彼女は申し訳なさそうに言った。
ふと、シャワーを浴びていないことに気づいた。もう二時を回っている。明日は金曜日。「あの……」思考は遮られた。
「どこに寝ればいいですかね?」これまた申し訳なさそうに言う。
来客用の布団などない。かといって腐っても客人だ。床に寝せるわけにもいくまい。
「俺のベッド貸すよ。いやじゃなきゃ使って。」
「あ、じゃあお言葉に甘えて」と、言葉とは裏腹に無遠慮に飛び込む姿を見届けた後、一人シャワーへ向かった。
今再びの全裸となった俺は、洗面台の鏡をみて急に可笑しくなってきた。
「あいつ、だれだよ」
ここ数分すっかり忘れていた感覚を取り戻した。本来なら彼女は恐怖の対象である。不法侵入もいいところなのだから。それがどうだ、しばらく泊まらせてくれ? それを受け入れる俺も俺だが。
親とかはいないのだろうか?そうだ、それだ。まあいない、というケースもないことはないのだが。いたとしたら今俺のやっていることは誘拐にも近しい。急に自分の置かれている状況が現実を帯び始めた。
いいや、明日考えよう。そう思って開けた浴室には男の部屋には不似合いな、長い髪の毛が一本落ちていた。
『ブー、ブー、ブー』携帯のバイブが鳴る
時計は十時ちょうどを示している。
「あ、おはようございます」
聞きなれない声だ。
顔を見た瞬間、昨夜の出来事を思い出した
「あの……これ、良かったらどうぞ」。
そういって彼女はテーブルの上にトーストを置いた。どうぞ、というかそれは俺のパンなのだが。
「ありがとう、いただきます」
俺は顔を洗いに洗面所へ向かった。
思い出す、昨晩の奇妙な出会い。考えれば考えるほどわからない。彼女は服を着たまま風呂場にいた。なぜだ。ま、考えても何もわからないのだが。
しかし朝食を作ってもらうというのもかなり久しぶりだ。朝食といってもパンを焼いてバターを塗っただけの”素トースト”だが。テレビを聞き流しながらトーストを齧る。
「で、どうすんの」
「なにをですか」
「なにをじゃないだろ、お前だよ」
「あー……もう少しいさせてもらってもいいですかね」
嫌である。いや、嫌、というよりは不安なのだ。
「ほんとに帰るところとかないの」
「あるかもしれませんけど覚えてないんですよね」
俺は悩んだ。ふと時計を見ると十時半を指している。二限である。二限は必修だ。さすがの俺でも必修は休めない。
「ああ、ちょっと行ってくるっ」慌てて付け足す。
「今日は置いといてやるから掃除でもやってろっ」
「ありがとうございまーす」笑顔で答えた。
少しかわいいと思ってしまったことに腹立たしさを覚えた。
幸いなことに家から大学までは近い。幾度も未遂はあるが、この必修は無遅刻無欠席である。少し早歩きをしつつ歩いていると、前方に悠長に歩く柴田の姿が見えた。柴田というのは同じ学部で部屋も隣の、妙な縁のあるやつなのだ。
「おい、柴田!」
「ん?ああ、かっしーか」
かっしー。それは俺の名前である柏崎からのあだ名である。
「そんなゆっくりしてる暇あんのかよ」と尋ねると、体調がすぐれないといった旨の話をされた。なるほど、酷い鼻声だ。
「風邪でも引いたか」
「もともと体あんま強くないんだよ」
「まあお大事に」
と、ややあって無事大学に着いた。
「おい! お前昨日テレビ見た?」
教室に入ると同時にバカにでかい声で、尋ねてきた、というよりは寧ろ詰問にも近いような調子であった。それは昨日一緒に飲んでいた恐山だった。
「みてねーな」まあ、見ようとはしたのだが。
「見てねーかー! お前なら見たと思ったのによぉ!」
恐山は基本的にうるさい。しかし今日は輪をかけてうるさい。
「いや昨日よぉ、家帰ってからな、テレビつけたんだよぉ」流暢に続ける。
「そしたらよぉ、もう全然意味わかんねぇの」
「は?」意味わかんねぇのはお前である。説明不足も甚だしい。
「なんか、こう、わかりそうでわかんねぇんだよ、テレビの言ってることが」
「酔ってたんだろ」
「いや、そうじゃない、もっとなんか、ぎりぎり日本語じゃない、というか日本語がズレているというか」
だからズレているのはお前である。
「怪奇現象なんだよ」
怪奇現象。その言葉には身に激しい覚えがあった。
「なんか知らねぇの」
テレビ云々の話に興味はないが、怪奇現象……らしきものには昨晩出会っている。とはいえ朝っぱらからそれ以上話を広げるのも正直面倒であった。
「知らんな」
「そっかぁ」残念そうにそう言った。