タマゴって飛ぶんですね
師匠は放任主義者だ。
例え目の前にガタガタ震えるタマゴがいても、可愛い可愛い愛弟子に縋られても、「知らん」の一言で切り捨てる。
血も涙もない。師匠なんて、タンスの角に足の指をぶつけて、ひっそりと悶え苦しめばいいんだ。
「何のタマゴだろう……?」
自室の机に置いたタマゴを見詰め、頬杖をつく。
一抱えほどの大きさのタマゴには、三つの穴が空いている。
ひとつが最初に空いた、5センチほどの穴。
残りふたつは、コウモリのような羽が空けた穴だ。
今はしん、と静かなタマゴは、そういえば鳴き声などは上げていない。
……死んでない?
不安になって抱き上げてみた。……殻がひんやりしている。……よくわからない。
「……生きていますように」
静々机へ戻す。僕のひざ掛けでドーナツ型を描いた中央に、タマゴを安置する。
そっと手を離した。両手を上げて、何もしていないポーズを取る。
晩ごはんを作るときに、リンゴ食べたし、大丈夫……だよね……?
このタマゴ、不思議なことに、僕が離れると顔面目掛けて飛んでくる。
結構な衝撃を食らうのに、一向に割れる気配のないこの殻は、実は相当強靭じゃないのかなと訝しんでいる。
どうやらタマゴは、あんなに優しいドーリーさんのことをこわがっているらしい。
ドーリーさんは決して悪い人じゃない。
むしろ師匠の方が悪い人だ。あの無愛想な悪人面、よく見て! 騙されちゃだめだ!
泣く泣くドーリーさんが離れたところから僕たちの様子を眺め、師匠は相変わらずのアトリエへ引きこもった。
そんなタマゴをリュックに詰めて、前かかえで晩ごはんを作った。
そこで聞こえた「きゅるきゅる」というお腹の音。見下ろせば、どうやらタマゴから聞こえているらしい。
今日は強制野菜パーティの日なので、試しに切った野菜を天辺の穴へ近付けてみた。
……静まり返ったタマゴは、きゅるきゅるお腹を鳴らすだけで、何の反応もしてくれない。
せめてどんな生きものかわかれば対処できるのだけど、穴の中は真っ暗だ。
ううん、悩んで色々な野菜を近付けてみる。
トマト、パプリカ、ズッキーニ……だめ。
レタス、ホウレンソウ、レンズ豆……だめ。
困ったなあ……何食べるんだろう?
出す予定のなかったハムを近付けてみた。……反応なし。
いよいよ参ってしまって、はたとオリバーさんがオマケしてくれたリンゴに目が留まった。とりあえず切って近付けてみる。
ごそり、動いた殻の中身が、天辺の穴に鼻先と思わしき部分を押し付けた。ふんすふんす、においを嗅いでいる。
リンゴを遠ざけると、がりがり引っ掻く音がした。
――これは、食べるんじゃないか?
芽生えた希望に、リンゴを細く切る。穴の中へ落とすと、しゃりしゃり、咀嚼音が聞こえた。
よかった! 食べてくれた!
そういう次第で、今日の収穫は、『タマゴはリンゴを食べる』ということだった。
明日、オリバーさんのところでリンゴを買おう。
さて、『タマゴから生まれる』『リンゴを食べる』『コウモリみたいな羽』をキーワードに、師匠の死蔵書を漁っているのだけど、これが全く見つからない。
何だろう、この生きもの……。
重たくなった瞼が欠伸を漏らす。
時計を確認すれば、いつもならとっくに眠っている時間だった。……いけない。夜更かしだ。
もう一度タマゴを見詰め、諦めてため息をつく。
開いた本を閉じ、机の上のランプを消した。
部屋が暗闇に包まれる。遠くにフクロウの鳴き声が聞こえた。
日中はあたたかくなってきたけれど、夜はまだ冷える。肩のショールを椅子の背凭れにかけて、ベッドへ向かった。
不意に振り返って思う。……タマゴ、凍死とかしないよね?
ぴくりとも動かないタマゴを不安に思いながら、布団を被って横になった。
翌朝、腹に降ってきたタマゴによって強制的に起こされたので、昨日の心配事は杞憂だったのだと思い知らされた。