夜明け
夜通し降り続いた豪雨が、さらさらと雨足を弱める。
雨除けのシートを被っていたジゼルが、重たい頭を上げた。雨の切れ目が、白んだ空を映す。
屋敷の周りを旋廻していたリントヴルムが、空を見上げた。真白い鱗が、光の筋のように夜明けの空へと伸び上がる。そこに音はなかった。
雨除けから這い出てきた騎士団員らが、屋敷目がけて急降下する白いドラゴンの姿を目の当たりにする。
次の瞬間には荒々しい風と音が彼等の視界を奪い、風がおさまった頃にはリントヴルムの姿はどこにも存在しなかった。大樹を包む雷の余波が、一晩の悪夢を象徴しているかのように見せる。
夜の空気が徐々に失われる。木々の隙間から顔を出した陽光が、大樹に裂かれた屋敷を照らした。
崩れた壁は苔むし、蔓延る蔦がひびを生む。
さわさわと揺れる梢は木陰を作り、どこから飛んできたのか、小鳥が軽やかな声でさえずった。
一同が呆然とこの光景を眺める。
誰にも、口を開く余力など残されていなかった。
ただひとり、屋敷の主を除いては。
「何をボサァッとしている!? とっととあのガキを殺せ!! 殺せええええ!!!!」
振り乱した薄い頭をぼさぼさにさせ、ジネヴィラが地団駄を踏む。近くにした団員を蹴り上げた瞬間、彼の纏うシャツの釦がいくつか弾け飛んだ。
「し、支部長、ですが……!」
「いいから殺せ!! 騎士団の面子がかかっているんだぞ!? そんなこともわからんのかぁッ!?」
部下の胸倉を掴み上げ、唾を飛ばしてジネヴィラが怒鳴る。
彼のヒステリックな怒声に、周囲は互いに顔を見合わせ沈黙した。――もう勘弁してくれ。
一同の心の声が揃い、関わりを断つように、無意識に踵が後ろへ下がる。
ジネヴィラの怒りは止まらない。肉に埋もれた目を血走らせ、額に青筋を浮かべて部下を締め上げた。
「あのガキが何をしたのか、わからんのか!? よくもわしの顔に泥を塗りおって!! 最も惨い死に様をくれてやるわあああッ!!!」
「はいはーい! おっはよーございまーす!!」
ジネヴィラの頭上を、影が過ぎた。大きな影だった。
同時に響いた軽やかな声。
女性のものと思わしきそれが、拡声器を片手に着地した。
「夜勤明けご苦労さまでーす! さあ、本日も馬車馬のように、キリッキリ働いてまいりましょー!」
「な、何だっ、貴様は!?」
空飛ぶ影を背景に、拡声器を持った彼女が、キインッと嫌な音を立てる。
肩で切り揃えた茶髪の巻き毛に、膝上丈のスカートを履いた、小柄な女性だった。
ストッキングにヒールのパンプスを合わせたその姿は、騎士団中央本部の事務員そのものである。
ジネヴィラは憤慨した。気分を害したと言わんばかりに、今まで締めていた男を投げ捨て、女性へ指を突きつける。
「貴様ッ!! 何の真似だ!?」
「もうし遅れました! わたくし、マチルダ・レイともーします!」
キインッ! 嫌な音が響く。疲弊した周囲に、彼女の起こす茶番に付き合う余力など存在しなかった。
各々が死んだような目で、成り行きを見守っている。
「本日は、マッティア・ジネヴィラ氏の確保にまいりましたー!」
言うが早いか、捕縛用の銃を引き抜いたマチルダが、ジネヴィラへ向けて発砲する。落下した拡声器が泥を跳ね上げた。
豊かな脂肪に突き刺さったそれに、ジネヴィラが悲鳴を上げる。ぬかるんだ地面を転がり回った。
「安心してください! 睡眠剤は入れてません!!」
「ぎぃやああああああッ!!!」
「あははー、オーバーですよ? ジネヴィラさん。あなたに横領罪と暴行罪、それから魔術師管理法違反の容疑がかかっています。中央までご同行、よろしくお願いしますね!!」
軽やかに泥水を跳ね上げ、小柄な女性がのたうち回るジネヴィラの傍らに屈む。
彼女が男の襟についている、赤いピアスを取り去った。にっこり、愛らしい笑みが浮かべられる。
「証拠確保っと。いやはや、いくら便利だからって、仕事用の通信機で横領のお話はよくありませんよ。これでアンダーソン局長もにっこりですね! やっと眉間の皺が減ります!」
「こ、小娘、貴様ぁああッ!!」
「きゃ!? ちょっと、汚い手で触らないでください! クリーニング代請求しますよ!!」
ぴょんっと飛び退った女性を掴み損ね、ジネヴィラの太い腕が落下する。べしゃり! 泥水が跳ね上がった。
「ほらほら、ジネヴィラさん。さっさと立ってください! いつまで泥遊びしているんですか!」
「きさっ、貴様ッ、ふざけるのも大概にしろ!! わしを誰だと思っている!? 支部長だぞ!! わしは被害者だ! 貴様からも暴行を受けた! 貴様のクビもはねてやるわあああ!!」
「……はあ、冷や水を浴びせたいものですね。おーい! ハワードさーん!!」
ため息をついたマチルダが、空へ向かって誰かを呼ぶ。
次の瞬間風が起こり、ジネヴィラの姿は掻き消えた。野太い悲鳴が頭上で尾を引いている。
唖然とした周囲が見上げた上空には、ジネヴィラを足で掴んだ、大きなワシが飛んでいた。
ワシの背に乗る男性が、風除けのゴーグル越しに地上を見下ろす。旋廻するよう操縦し、彼が声を張り上げた。
「ごめん、マチルダちゃん! 重量オーバー!!」
「はあ!? 私、証拠持ってるんですよ!?」
「セシルさんによろしく言っといて~!!」
「ハワードさん!? ガブちゃん!? いやっ、待ってくださーい!!」
一層大きく羽ばたいたワシことガブちゃんが、高速で空を突き抜ける。ジネヴィラの悲鳴はエコーを残し、朝焼けの中に霧散していった。
取り残されたマチルダが呆然とする。わなわなと震えた彼女が、口の横に両手を添えた。
「ハワードさんの、ばかああああああ!!!!」
*
足音荒く廊下を突き抜けたハロルド・アンダーソンが、重厚な扉を開け放つ。部下を従えた彼が、部屋の主へ大声を放った。
「ブランドン・モーガン氏。横領の容疑でご同行願います」
「遅かったな、アンダーソン」
悠々と執務机につくブランドン・モーガンが、厳格な顔を薄らと笑ませる。
アンダーソンの眉間の皺が、ますます渓谷を作った。彼の指示に従い、部下たちがモーガンの事務所へ踏み入る。
ブランドン・モーガンは政治に携わっている。
魔術師管理法に異議を立て、『保護』を提唱した。
彼は多くのチャリティにも参加し、迫害されてきた魔術師たちに対して親身になってきた。多くの支持者を持ち、彼の演説を聞こうと数多の人々がラジオをつける。
しかし一方で、彼は事細かに魔術師が起こした事件に触れ、迫害を陽動してきた。
ブランドン・モーガンの支持者は、二種類にわかれる。
安全を求める『保護』と、自由を奪う『保護』
魔術師を搾取する者は、皆口をそろえてこう言う。「保護しているだけ」だと。
会員制の『お茶会』を企画し、不当に魔術師を譲渡する。
多額の金は、一体どこへ消えてゆくのだろうか?
モーガンが火をつけていることは明白であるのに、踏み切るには証拠に足りない。
セシルの上司であるアンダーソンは、モーガンを捕らえるために根を回してきた。
それはモーガンが指摘する通り、非常に時間のかかるものだった。
セシルに与えられた任務は、他国よりさらわれてきた魔術師の、逸早い保護だった。
誘拐の実行犯からモーガンを炙り出そうとするも、魔術師の売買はすでにビジネスとして確立している。ある種のファッションのように人気を得たそれに、セシルは一層の危機感を持っていた。
彼女がアオイに対して、過保護に束縛したことも、ここに由縁する。
結果としてジネヴィラはアオイの希少性に目をつけ、モーガンへ売りつけようとした。
……それがきっかけで捜査依頼を突きつけられるのだから、皮肉なものだ。
アンダーソンが眼光を強める。モーガンは低い声でくつくつ笑っていた。
悠々と脚を組む彼は、資料を押収されようと、部屋を解体されようと、動じた様子を見せない。
「遅い。遅いなあ。遅すぎたよ、アンダーソン」
「……」
「私がいなくとも、これからもこの国は魔術師を搾取し続けるだろう。なあ、遅いだろう?」
「釈明を聞こう」
愉快気に低い声を震わせ、モーガンが幅の広い肩を揺する。
感情を排除したアンダーソンの声音さえも、彼の愉悦をくすぐる一因となった。唐突に、モーガンが机へ身を乗り出す。
「学生時代の話だ。当時良い女がいてなあ、俺は告白した。俺はこの通り頭も良く、金もあった。自信があったんだよ」
モーガンの事務所から、次々と荷物が運び出される。モーガンは動じない。
誰かに話したくてたまらなかったとばかりに、くっくと喉を震わせた。
「だがな、あいつは俺を振った。……惨めだったよ。あいつはこの俺を振ったんだ。だからなぁ、あいつにも同じくらい、いいやそれ以上の惨めな思いをさせてやろうと決めたんだよ」
演説会のように大仰に両腕を広げたモーガンが、大衆の前では決して見せない、陰鬱な笑みを浮かべる。にったり、引き伸ばされた唇が弧を描いた。
「あの女、魔術師だったんだ。ははっ、良いザマだ」
「……連行しろ」
吐き捨てたアンダーソンが、モーガンに手錠をかける。かしゃんっ、金属の跳ねる硬質な音が響いた。