飼い犬が手を噛む
青い空が見えた。何処までも高くて、何処までも広い空だった。
同時にこれが夢だと気づく。何処までも遠い青には手が届かなくて、無性に空しい気持ちになった。
『なんじ花の子』
不意に声が聞こえた。エコーするそれは重なり合って聞こえにくく、何処から聞こえているのかわからない。
首を巡らせるも、何処までも伸びやかな青が広がっているだけだった。
『われの子の礼』
「だれ……?」
『必ず果たそう』
唐突に浮力を感じた。落ちているのだと理解した瞬間、もっとこの色彩の中にいたいと思った。
濃い青から淡い青へ、どんどん落ちていく。青い空がどんどん遠退いていく。
最後に僕の顔を、黒い翼竜が覗き込んだ。
はっと目を覚ます。そこは眠る前と何ら変わらない、暗い石の部屋だった。
*
小さな檻に閉じ込められたクランドは、その白い身体を丸めて縮こまっていた。
ジネヴィラの屋敷に勤めるメイドが代わる代わる餌と与えるも、見向きもしない。背中の蒼の羽を避けて装着されたハーネスを邪魔そうに蠢かせ、幼獣は目を閉じていた。
「おい! リントヴルムの幼獣は餌を食べたか!?」
「も、申し訳ございません、それが……」
「使えん女だ!」
でっぷりとした腹を揺すり、ジネヴィラがメイドに悪態をつく。深く頭を下げる彼女が、顔面を蒼白にさせた。
この街一番の権力者の機嫌を損ねれば、彼女に明日はない。震える唇を、彼女は引き結んだ。
「くそッ、何か食え! 艶が悪くなる!」
男が檻を蹴り飛ばす。がしゃんっ、金属の揺れる音がした。
しかしクランドは目を開けることなく、丸くなっている。
ジネヴィラに捕らえられ、幼獣がアオイから引き離されて四日。クランドは水さえも口にすることなく、ただひたすらに身体を丸めていた。
「おい! 無理矢理にでも口に詰め込め! 衰弱させたら、ただでは済まさんぞ!!」
男が憤慨した様子で踵を返す。メイドが震え上がった。
得体の知れないドラゴンの口に、何かを詰め込まなければならない。……もしかすると、腕に噛みつかれるかも知れない。
しかし、ジネヴィラの命令に背けば、この街で生きていくことは出来ない。メイドは悲壮な顔をしていた。
ジネヴィラの向かう先は、この四日間、毎日欠かすことなく顔を出している地下室だった。
万が一にも中身が脱走しないよう、厳重におもりを置いた床を男が動かす。
鎖によって巻き上げられた床が、軋んだ音を立てて持ち上げられた。
彼は地下室に、簡素なベッドを増やした。
食事も三食与え、風呂にも入れている。
散歩の時間は脱走しようと暴れたため、取り止めにした。
簡単に死なれては困る。あれは金のなる木だ。そう易々と手放してなるものか!
ジネヴィラが狭い階段に、高らかに靴音を響かせる。重たい鉄製の扉を、彼のみが持つ鍵で解錠した。
地下室に簡素なベッドが増やされた。
何度かの夜を石の床で過ごしたアオイにとって、今更生活環境が微量なりとも改善されたところで、ここでの暮らしが最良になることはない。
変わらず部屋の隅で縮こまり、ひやりとした石に体温を吸わせていた。
この部屋に時計はなく、明かり窓もない。通気口のみが、寂しい音を立てている。
しかし定期的に運ばれてくる食事と、風呂の時間のおかげで、アオイは感覚的に時間を把握することが出来た。
そして何より決まった時間になると、『ご主人様』を称するジネヴィラがやってくる。その時間が、アオイにとって堪らなく苦痛だった。
がたん、頭上の扉が開かれる音がする。淀んでいた空気が循環し、アオイの髪を揺らした。
はっと彼が顔色を悪くさせる。怯えたように身体が縮められた。
間もなく踵が石段を叩く音が近づく。
例えどれほど身を潜めようと、この部屋にはアオイ以外に誰もいない。無意味な抵抗を嘲笑うかのように、がちゃんっ、重たい扉が開かれた。
「おい、お前! あのリントヴルムの餌は何だ!?」
服がはち切れんばかりに突き出した腹を揺すり、ジネヴィラが低い声を発する。びくりっ、肩を震わせたアオイが、身を強張らせた。
少年は『リントヴルム』が何かはわかっていなかったが、聞かされる特徴がクランドそっくりのため、クランドのことなのだろうと推測していた。
どうやらクランドは、この監禁生活中に一切の飲食を行っていないらしい。それが更にアオイの不安を掻き立てた。
斯く言うアオイ自身も、提供される食事に手をつけていない。少年が掠れた声を振り絞った。
「……ぼくが、編んだ花と、こたえた、はずです」
「それを食わんから聞いているんだ!」
「いッ」
磨き抜かれた革靴の爪先に蹴られ、アオイが苦悶の声を上げる。
懸命に身を守ろうと出した腕を無骨な手が掴み、男が少年の身体を引き摺り倒した。
「言え! あれは何を食べる!?」
「だからっ、花って!」
「なら、あれが食う花を作れ!」
腹を蹴られ、怒声を浴びせられ、咳き込んだアオイが花を編む。
この部屋に閉じ込められて以来、毎日際限なく編まされるそれに、少年は意識を朦朧とさせていた。
ぽろぽろ、溢れ出るマリーゴールドが、色のない地下に鮮やかな色彩を零す。
欲に満ちた男が、少年の手を叩き落した。短く苦痛の声が発せられる。
「ふんっ、こんな地味なものはやめろ! もっと派手なものにしろ!」
「っ、はで……?」
「そうだ! 次の茶会で、モーガン先生がお見えになる。お前の披露目の日だ! その際にお見せする、立派な花が必要だ!」
「りっぱ……」
アオイが花を編む。目の覚めるような蒼をした、大輪のバラだった。
くらんどのごはん、少年の唇が小さく呟く。
――クランドは食いしん坊だから、きっと今頃はらぺこだ。お腹の音がきゅるきゅる鳴いて、切なくなるから、いっぱい食べさせてあげなきゃ。
セシルさんにあげたお花も狙っちゃうから、満足するまであげよう。
ひとつじゃたりないだろうから、もっと編まなきゃ。どのくらい食べるかな?
……クランドに会いたい。無事を確かめたい。
師匠、今頃なにしてるかな。
……セシルさん、困ってないかな。
ぼんやりとしたアオイが、花を編む。ぽとり、ぽとりと落ちるそれを、ジネヴィラが掻き集めた。
男が低く笑う。集めた蒼のバラを抱え上げ、堪え切れないとばかりに高笑いを上げた。バラの花が撒き散らされる。
「そうだ、それでいい! これは高値で売れる!」
男の高笑いを、通信音が遮った。高揚した気分を害されたジネヴィラが舌打ちする。
彼が不機嫌そうな声で、ジャケットの襟に留められた赤い石に話しかけた。ノイズを走らせた低い声に、彼の顔色が変わる。
「これはこれは、モーガン先生!」
誰もいない空間へ頭を下げるジネヴィラを、アオイが虚ろな目で見詰めた。
へこへこ、髪の薄い頭が何度も下げられる。
『音が遠いな』
「ははは、実は地下へ来ておりましてな。先日『保護』した、魔術師の子どもの面倒を見ていたのですよ!」
『ほう?』
「これが金のなる木でして。是非ブランドン・モーガン先生にもお見せしたく思いましてな!」
へへへ、軽薄に笑ったジネヴィラが、ますます背を丸めてジャケットの襟へ顔を近づける。彼が殊更声を潜めた。
「もしもお眼鏡に適うようでしたら、是非お連れください。なに! 遠慮はいりませんよぉ!」
『そこまで勧めるからには、余程の出来らしいな?』
「ええ、ええ! 今仕込み中です。きっと先生も驚かれますよぉ。わっはっは!」
腰に手を当て、背筋を伸ばした男が声高に笑う。
『では期待しよう』通話口が音を漏らした。ジネヴィラが何度も頷く。猫撫で声が、肉の弛んだ喉から零された。
「では、次のお茶会、楽しみにしております」
通信を終えた男が、深く息をつく。次第にくつくつ笑い出し、ついには高笑いへと変わった。
振り返ったジネヴィラが、アオイの胸倉を掴む。下卑た笑顔が何度も少年を揺すった。肉に埋もれた目が更に細くなる。
「おい! もっと花を編め! 先生に取り入るんだ!」
「せんせい……?」
「あの方に気に入られれば、わしは勝ったも同然だ! こら、ぼさっとするな、花を編め!!」
ぼう、とするアオイの頬を乱暴に叩き、少年の焦点を取り戻させる。
再び表情を恐怖に引きつらせたアオイが、怯えながら青バラを編んだ。
「芸がない!! もっと別の花にしろ!」
「うぅッ」
ぱしん! またしても頬を叩かれ、少年が苦悶の声を上げる。頬を押さえる彼は、涙を浮かべていた。
ふとジネヴィラの表情が止まった。次いでにたりと下衆な笑みを浮かべる。
アオイの腕を掴んだ男が、簡易ベッドに彼を投げた。痛そうな悲鳴が上がる。
「そうか、もっと別の仕込みをすればいい! おい、お前! 女役をやれ!」
「……え?」
「何をやっている! さっさと服を脱げ! 先生の要望に全て応えられるようにするんだ!!」
男の言葉が理解出来ず、硬直していたアオイのシャツを、太い指が掴んだ。無遠慮に捲くり上げられるそれに、少年が顔色をなくす。
シャツを引き下げようと抗う手首を一纏めにされ、益々アオイの表情が強張った。
「嫌だ! 離せ!! 触るなッ!!」
「うるさいッ、大人しくしろ! お前が先生に気に入られれば、わしに金が入る! 大金だ! お前がわしの金になるんだ!!」
「嫌だ! いやだ!!」
「なら這いつくばって犬の真似をしろ! わしの靴を舐めるんだッ!!」
「……ッ!! いやだ!!」
暴れるアオイの膝が、男の脇腹に食い込んだ。豊かな肉が揺らめき、男が噎せる。
両手で脇腹を押さえるジネヴィラを、腕を解放されたアオイが突き飛ばした。激しい尻餅の音が響く。
怒りに満ちた目が少年へ向けられた。
「貴様ァッ!! 躾け直してくれるわァッ!!」
「ぼくにさわるな!!」
ばきり、割れた石の床から緑が溢れた。
次々と伸び上がる茨が、アオイの周りを取り囲む。地響きが天井から砂塵を落とし、ジネヴィラがぎょっと周囲を見回した。
尻餅をついたままの男が、アオイから離れるように後ろへと這う。その足許が砕け、伸びた蔦が絡まり巨木を生み出した。
「あああ、ああ……っ」
ジネヴィラの眼前で双葉が芽吹き、若葉が生い茂る。若々しい緑が絡まり、石の壁を飲み込んだ。
岩の割れる音が瓦礫を落とし、彼が必死にその場を転がり出る。駆け上る石段は弛み、歪んだ隙間が緑を噴き上げた。
蔦が、茨が、壁を侵食する。砕ける音がついて回る。根が波打ち、枝が突き破り、男は悲鳴を上げて走り続けた。
成長する木々は寄り集まり、有名な絵画も、高価な調度品も、次々と飲み込んでいく。
名もなき植物は枝葉を伸ばし、ついには豪奢な屋敷までもを飲み込んだ。大樹と化した木々が葉擦れを鳴らす。
ざわめく梢を、雷鳴のような咆哮が揺らした。
純白の鱗に蒼の角を生やしたドラゴンの成獣が、その長くしなやかな体躯をうねらせる。屋敷を割る大樹を守るように旋廻し、天に向かって吼えた。
星を掲げていた夜空には雷雲が立ち込め、稲光が視界を引き裂く。落雷と同時に、針のような雨と流星が降り注いだ。
雷鳴が轟く。悲鳴さえもが飲み込まれた。
「あああ……」
ほうほうの体で逃げ出した屋敷の主が、あまりの惨状にその場にへたり込む。彼の口はその音以外を忘れたかのように、単音だけを伸ばしていた。