師匠、生活力どこに置いてきたんですか?
穏やかに笑ったドーリーさんが、僕の頭を撫でる。
柔らかく目許を緩めた彼が、踵に重心を乗せて、くるりと身体を反転させた。
「アオイちゃん、小さい頃からあたしに懐いて、本当可愛かったのよー!」
「実質、ドーリーさんが育ての親ですから」
「はー。アオイちゃんがここに来て、もう10年くらい経つのかしら? 早いものねぇ……」
「えへへ。僕も来年成人ですよ! 今17歳です!」
「……そういわれると、15歳くらいにしか見えないのよねぇ……」
「来年18歳で成人します!!」
肩越しにこちらを振り返ったドーリーさんが、曖昧な笑みを浮かべる。
わかっている。自分でも17歳には見えないと思っているんだ。出生が不明だから、僕の年齢は限りなく不詳だ。
でも、来年成人だと思っていたのに、「残念! 15歳です!」と言われる身にもなってもらいたい。僕は早く大人になりたい。
「あの頃のアオイちゃん、ほんっと言葉が拙くって、お野菜をおやしゃいって言っていたのよ!」
「恥ずかしい! とんだブラックボックスを開けてしまった!!」
「あたしが帰る日なんか、泣いて泣いてしがみついて……」
「ああああっ、その辺になると、うっすら記憶にあります!!」
「おい」
「何ですか? 可愛い可愛い愛弟子に『おかえり』の一言も言えない甲斐性なしの師匠」
扉を開けたぶっきら棒な声へ、根に持っている案件をぶつける。少しはドーリーさんの慈愛を見習ってほしい!
表情ひとつ変えない師匠が、廊下の奥へ顎でしゃくる。ひくりと僕の口許が引き攣った。
「茶を淹れろ」
「お茶くらい自分で淹れてください。大体、今までどうやって生きてきたんですか」
「茶」
「もう!!」
結局負けてしまう辺りが駄目なんだと思う。
師匠の横を抜けて、ずんずん台所へ向かう。
ただでさえ植物に侵食されている家なので、屋内は屋内なのだと認識したくて、僕は掃除を頑張っている。
しかしだ。その床に、茶筒が転がっていた。
蓋は別の場所に落ちている。
そしてぶちまけられた茶葉が、放物線を描いたのだろうと推測できる軌跡を残して飛散していた。
自分の肩が震えるのがわかった。
誰だ、ここでパーティやった人!! ばらまいていいのは、クラッカーの中身までだ!!
「ちょっと師匠、何やらかしたんですか!?」
抱えていたタマゴをドーリーさんへ押しつけ、茶筒を回収して中身を確認する。
もう! 一回分あるかないかしか残ってないじゃないか!
ほうきを掴んで引っ張り出し、ちり取りも掴む。師匠は明後日の方を向いていた。
「こういうときは、お茶の催促ではなく、茶っ葉が吹っ飛んだことを先に言ってください!!」
「見ればわかるだろう」
「心積もりの問題です! はい、師匠。ちり取り持ってください!」
無理矢理血色の悪い手にちり取りを握らせ、ほうきで茶葉を集める。
ううっ、もったいない……! このお茶おいしかったのに!
ちらりと顔を上げると、突っ立っている師匠の隣に、ドーリーさんが立っていた。
んふ、笑った彼が優雅に口許を利き手で隠す。師匠の剣呑な目がそちらへ向けられた。
「やあねー、エレン。綺麗な顔が台無しよ?」
「黙れ」
「いいじゃない。仲が良くって」
「師匠! ちり取り!!」
「ほらほら、お呼びよ」
舌打ちした師匠が屈む。長い黒髪が無造作に床を滑った。……本当、師匠はものぐさなんだから。
ジャケットのポケットから、僕には不要な髪紐を引っ張り出す。師匠の後ろへ回り、髪を掬って結んだ。
雑な一纏めだけど、師匠は元々雑だから、いいか。
再びほうきを構えて茶葉を掃く。
あー、今日の掃除がまだだったんだ……。あの血の欠片を回収しないと……。
「師匠、ちり取り浮かさないでください! 集めたみんながお出掛けしちゃいます!」
「……放っておけばいいだろう」
「嫌ですよ、僕が!」
何とか片付けを終えて、残った茶葉でお茶を作る。
明日の師匠のお茶、その辺の葉っぱの煮汁でいいか。
師匠とドーリーさんの前にお茶を並べて、戻ってきたタマゴを腕に抱えた。ちらり、師匠を窺う。
「師匠、このタマゴどうするんです?」
「お前に任せる」
「突然の放任やめてください」
師匠はしれっと緑茶を飲んでいる。
優雅に頬杖をつくドーリーさんが、顎の下で指を交差させて微笑んだ。
「アオイちゃんになら、安心して任せられるわ」
「このサイズのタマゴを、どうやって孵化させたらいいんですか?」
「食用にしようとしなかったところから合格よ。エレンなんて、第一声が『食えるのか?』だったのよ」
「師匠、これを調理させられる身にもなってください。僕は嫌です」
「だから任せると言ったんだ」
危うく師匠の中で、もう一品タマゴ料理が追加されるところだった。恐ろしい。
まず、割るにしても重労働だと思う。金づちで叩いたら割れるのかな?
……やめとこう。今日の晩ごはんは、野菜づくしの野菜まつりなんだ。
遠い目でつらつらと思考にふけっていると、ぴしりと何かがひび割れる音がした。
ぎょっと腕の中を見下ろす。
……滑らかだったタマゴの殻に、亀裂が走っていた。ぱらり、砕けた破片が暗闇へ飲み込まれる。
ど、どうしよう。割るとか考えちゃったから、タマゴ割れちゃったのかな……?
え、まさかもう孵化してるのかな? こんな常温で!?
アヒルのタマゴだって、あたためなくちゃ孵化しないのに!?
殻が生んだ隙間の暗闇が、もぞりと動いた。ぱちり、瞬いた目と目が合う。
ぎこちない動作で顔を上げ、師匠へ助けを求めた。
「ししょう、ししょう、たすけてください……」
「知らん」
「どうしてそんな冷たいことが言えるんですか? 未知の生物と邂逅した弟子が心配じゃないんですか?」
「任せると言った」
「あらあら、もう孵ったの! どんな子かしら?」
立ち上がったドーリーさんがこちらを覗き込む。
瞬間、飛び上がったタマゴから二本のコウモリのような羽が突き出した。
ぱあああん、鮮やかに弾ける破片が舞う光景に、唖然とする。タマゴはそのままよろよろと飛び立ってしまった。
ごん! 柱にぶつかったタマゴが、また更にふらふらと飛んでいく。
……ええ!? 殻のまま飛んでいくの!?
「ま、待って! 危ないよ、タマゴー!!」
「驚かせてごめんなさい! 待ってちょうだい、タマゴちゃあああん!!」
前方不注意のまま飛行するタマゴが、台所を出て行く。
慌てて追いかけるも、驚いたように飛び上がったタマゴが、速度を上げて廊下を飛び回った。
僕とドーリーさんで追い掛け回したタマゴは、最終的には僕の顔面にぶつかって止まった。強か尻餅をついて、顔面も腰も痛かった。