ケンカしない世界って、ある?
キイイイイイッ!! 甲高い咆哮が辺りに木霊している。
アオイの鞄から恐る恐る顔を出したクランドが、即座にふたの内側に引っ込んだ。
「あの子、どこ、行っちゃったん、だろ……!」
道から外れた草木の間を見回し、走り続けたアオイが呼吸を弾ませる。
肩で息をする彼は相変わらず運動に弱く、ぜいぜい、荒い息をついていた。
「――ッ! ……ッ!!」
「いまっ」
風のざわめきが葉擦れの音を立て、がさがさした中に人の声を混じらせる。
瞬時に顔を上げたアオイが、声の方へと駆け出した。
「……い! 静かにしろ! 静かにしろって!!」
「ふぎゅぎゅぎゅッ」
高台に群生する木々の根元で、ごそごそと人の頭が動いている。
アオイの立てた足音に、その人の身体がびくついた。がささ! 走り去る音がする。
「あっ、待って!!」
「くわっ!」
「ひえ!?」
どごんッ、空から降ってきた石の塊が、少女の行く手を遮る。
しゅううう、煙を上げるそれは、一抱えはあるだろう重たそうな石だった。
尻餅をついた少女が、ボロ布を抱えたままへたり込む。
「……え? あれ、クランドが落としたの?」
顔から血の気を引かせたアオイが、自身の鞄を見下ろす。きゅるるるるる、か弱い腹の音が響いた。
……あ。クランドがやったんだね。ふー……ん。
少年が遠い目で鞄の中に手を入れた。編んだ花を中に落とす。すぐさまもしょり、花びらを食む音がした。
「……きみ、その布の中身、見せて」
「な、何なんだよ、お前!?」
アオイが話しかけたことで我に返った少女が、布を背中に隠して威嚇する。
「ふぎゅぎゅ!!」くぐもった鳴き声が彼等の間に響いた。少女が顔色を真っ青にさせる。
「ち、ちがう! これはッ、頼まれた品で!」
「その子、返そうよ。こっちに渡して?」
「うるさいうるさい!! 私には金が必要なんだよ! お前みたいな坊っちゃんに、何がわかんだよ!?」
「このままだと、みんな死んじゃうよ!?」
「うるさい!! 私は……ッ、私が死んでもいいのかよ!?」
少女の怒声に、アオイが目を瞠る。
煤で汚れた肌と、櫛すら通していないだろう、ほつれた髪の少女だった。
汚れの目立つシャツとズボンは身体の大きさに合っておらず、何処かぶかっとしている。泥まみれの靴は擦り切れていた。
ひと目で生活に困窮しているのだろうと判別出来る彼女が、目に涙を溜めて怒鳴る。
ふるふる、アオイが首を横に振った。
「ちがう、僕が言いたいのは、そうじゃない。このままだとドラゴンがみんな殺されちゃう! きみ、何を浚ってきたの!? もっと真っ当なことしようよ!」
「……なっ、何言ってんだよ、お前! あんな奴等、どうなってもいいだろ!?」
「良くないよ! 本当は人を襲わないんだよね!? きみ、幼獣を浚ったの? その子も弱っちゃうから……ッ」
「うるせえなッ!! これは売りもんだ!! ドラゴンは金になんだよ! ぐちゃぐちゃ正義感ふりかざしてんじゃねぇよッ、クソガキが!!」
少女の恫喝に、少年が肩を跳ねさせる。
その隙に彼女は立ち上がり、幼獣を抱えて走り去ってしまった。
彼等の頭上を、影が過ぎる。はっとアオイが顔を上げた。風が頬を撫でる。
「危ない!!」
「ひっ!?」
咄嗟に編んだ茨がドラゴンの軌道を逸らせ、鋭い鉤爪を避ける。
しかし突然自身を囲った植物の存在に、少女は動転した。
ボロ布に包まれた幼獣を投げ捨て、茨の隙間を潜って逃げ出す。
「魔術師だ!!」彼女の喉が悲鳴を上げた。
「ま、待って!!」
地面を転がったボロ布が、弱々しく丸くなる。
駆け寄ったアオイが布の塊を抱き上げた。捲った中から現れたのは、灰色をした翼竜の幼獣だった。
ふるふる震える姿は衰弱し、固く瞼が閉じられている。
「どうしようっ、クランド、この子バラ食べるかな……?」
鞄から顔を出したクランドを見下ろし、アオイがおろおろと青バラを編む。
けれども近づけても開かない口に、少年は狼狽した。
抱え直した幼獣は、変温動物特有の低体温を腕に伝える。
消え行きそうなほど弱々しい鼓動が、ますます少年に焦燥を抱かせた。じわじわ、彼の目に涙が溜まる。
「師匠、師匠っ、こういうとき、どうすればいいんですか……!?」
このとき鏡があれば、少年は自身の瞳が半分以上金色に染まっていることに気づけただろう。
しかしこの場にそのような道具はなく、アオイは幼獣を抱き締め震えていた。
ざわざわ、風もないのに木々がざわめく。
アオイが座り込む地面の草花が、突如その背丈を伸ばし出した。
はたと気づいた彼が立ち上がり、慌てたようにその場を立ち退く。
しかし彼が新たに踏んだ草花が、するすると同じように成長した。雑草が茂る。双葉が芽吹く。
「なに、これ……」
戸惑いと困惑の声を上げ、アオイが足許を見下ろす。
一歩下がるごとに草花が成長し、頭上の梢ががさがさ背を伸ばした。
少年の顔が、恐怖に引きつる。空を遮る若葉の成長は止まらない。
不意にもぞり、彼の腕の中で幼獣が身動ぎした。
あれほど衰弱していた身を捩り、元気に黒い瞳を覗かせ、かぱりと口を開く。
並んだ牙にはまだ隙間があり、捕食は苦手そうな印象を与えた。
「ぎゃわわッ」
「え!? 起きたの? そ、そっか! お母さんのところに帰ろう!!」
高らかに鳴いた幼獣に肩をびくつかせ、アオイが困惑する。
何故この幼獣は、突然元気になったのだろう? 疑問は尽きなかった。
彼が空の見える場所まで移動する。
歩くごとに草花が瑞々しく咲き誇るため、不気味に思った少年はいつもより早足だった。
伸び続ける梢が途切れ、茜の混じり始めた空が顔を出す。その色彩を遮るように、黒色の翼竜が旋廻した。
空を埋め尽くすそれらが、甲高い咆哮を上げる。じたばた、クランドが鞄から出ようと暴れた。
「ごめんなさい! この子、返します!!」
アオイが空へ近づけるように、幼獣を頭上へ抱き上げる。
ばたばた、柔らかな羽を羽ばたかせる幼獣は、まだ飛行に至れない状態らしい。
アオイ目掛けて高度を下げた翼竜が、彼の手から幼獣を連れ去った。キイキイ、鳴き声が上空で反響する。
幼獣が親元へ帰ったことに、アオイがほっと息をつく。
ぱしゅっ、耳慣れない音が、微かに彼の鼓膜を震わせた。
同時に鋭い痛みが首筋に走り、患部を押さえたアオイがふらりと崩れ落ちた。
身体を支えることも出来ずに、少年の身体が横転する。
「魔術師一名の捕縛完了。翼竜の幼獣を所持していました」
知らない声だった。
セシルが赤いピアスへ話しかける調子で、騎士団の制服を纏った男が、アオイの腕を後ろ手で纏める。
暴れるクランドが男の腕に噛みつくも、振り払われた小さな身体が草原に弾んだ。
「クランド……っ、やめて、くらんど、いじめ、ない……」
脱力する肢体と遠退く意識に抗うことが出来ず、アオイの視界が閉じられた。