事例報告:天井
雨粒が激しく地面を打ち鳴らす。
白く煙る景色は見通しが悪く、暗鬱とした分厚い雲は、ごろごろと不穏な音を立てていた。
茶色の馬の手綱を引いたセシルと、鞄を抱えたアオイが、雨宿りの場所を求めて山道を駆ける。
悪路がぱしゃぱしゃと雨音を跳ね上げた。
「アオイくん! 向こうに建物があります!」
振り返ったセシルが示した方角に煙る、三角の低い屋根。
高い木々の隙間からちらつくそれに、少年が応答した。転びそうな足で水たまりを蹴り、懸命に建物を目指す。
辿り着いた小屋には明かりはなく、セシルがノックするも返事はなかった。
彼女が改めて外観を確認する。
こじんまりとした平屋の建物は、屋根から草木を生やし、壁面には蔦を這わせていた。
窓と思しき箇所には、内から外から、全面を覆い隠すように板で打ちつけられている。
その執拗な様子に、セシルは首を傾げた。
朽ちた厩は長年使われた形跡を見せず、全体が雨漏りし、浸水している。
セシルが玄関を開けようとするも、古ぼけた扉には南京錠が下がっており、開きそうにない。
試しにドアノブを揺するも、耳障りな音ががちゃがちゃ響くのみだった。
髪から滑り落ちる雫に目を細めたアオイが、雨音に負けないよう声を張る。
「セシルさん、開かないんですか?」
「みたいですね。どうやら訳あり物件のようです」
「やめましょう」
きっぱり、アオイが首を横に振る。少年は真顔だった。
けれども打ちつける雨はますます激しさを増し、暗い頭上が稲光を走らせた。
遠くで雷鳴を轟かせる悪天候に、セシルが逡巡する。
ずぶ濡れのアオイは、鞄が濡れないようジャケットの内側に抱いていた。
雨音に掻き消されそうな声量で、「クランド、大丈夫?」囁いている。
私のお嫁さんが濡れている……。小さく呟いたセシルが刀を抜き、扉に一閃走らせた。ぎょっとした少年が身を竦ませる。
「何してるんですか!? セシルさん!!」
「このままでは、アオイくんが風邪を引いてしまいます」
「いや! だからって、明らかに危険な場所で雨宿りするなんて、そんな心臓ふさふさなことも出来ませんけど!?」
「大丈夫です。何とかなりますよ」
にっこり、水も滴る良い笑顔で振り返り、セシルが扉を蹴破る。
激しい破壊音を立てて呆気なく粉砕された砦に、アオイが顔色を悪くさせた。ひえっ、悲鳴が飲み込まれる。
そんな少年に構うことなく、何ごともなかったかのように、セシルがキルシュごと中へと踏み入る。
木片の散らばる床には埃が積もり、長年の放置年月を物語っていた。
室内を覗き込んだアオイが、けほりと小さく咳き込む。少年は忙しなく辺りを見回していた。
「長らく人の手が入っていませんね」
埃まみれの部屋を一巡し、セシルが呟く。
ぶるるっ! 身体を震わせたキルシュが、派手に水を飛ばした。わあ!? アオイが驚いたように悲鳴を上げる。
「ううっ。これって、きぶつはそん、とかじゃないんですか? 大丈夫ですか、セシルさん」
「おや、アオイくんは難しい言葉を知っていますね」
「からかっているでしょう」
むすりと頬を膨らませた少年が、雨音に混じって異音を聞く。
ぽきぽき、何処か耳馴染みのある、小気味良い音だった。
再び怯えたように辺りを見回したアオイが、不意に頭上を見上げる。
薄暗い天井には、藤棚のように鈴生りになった眼球が、いくつもぶら下がっていた。腕を回しても届かないだろう、ずっしりと重たそうなほど実っている。
幾重にもぶら下がるそれらと、一斉に目が合った。
「ひっ!?」
「ああ、なるほど。これは家を捨てますね」
ぎょろぎょろ動く目玉が彼等を見下ろし、ぽきぽき、垂れた手のような、爪のようなものを、関節に合わせて曲げ伸ばしする。
悲鳴を引きつらせたアオイがセシルにしがみつく。
しかし、彼女は悠長に納得の声を上げていた。少年が動転する。
「せ、セシルさん!? これ、大丈夫なタイプですか!?」
「いいえ。大丈夫じゃないタイプです」
「じゃあ何でそんなにゆったりしているんですか!!」
「今の雨足なら、もうしばらく待つと、小雨になるかなぁと思っていまして」
肩越しにセシルが振り返り、雨に濡れた顔を笑ませる。
僅かな光量の中でも、彼女の美貌は輝いていた。
「逃げた方が早いやつです」
「絶対これ、解き放っちゃいけないやつですよね!?」
「あはは、そうですね。やっちゃいました」
「この場合って、誰に怒られるんですか!?」
「私の上司でしょうか」
のほほんと微笑むセシルが、音もなく滑り降りてきた鈴生りの目玉を刀で裂く。
ぷし、個々が飛沫を上げ、両断された。ごとりと床に落ちた爪が、痙攣の後に丸く縮まる。
込み上げてくる吐き気を耐えるように、アオイが固く鞄を抱き寄せた。
もごもご、クランドが鞄から鼻先を覗かせる。
涙目の少年を背に庇い、セシルが刀を構えた。
「分が悪いですね。この家ごと爆発させたり、燃やせたらいいんですけど、生憎の天気ですし」
「発想が豪快ですね!?」
「あれは『見下ろす者』と言って、あの爪の下に口があります。肉食です。どうやらひとつの目玉から分裂出来るらしく、ある程度成長すると株分けするそうです。まあ、相手をしても、きりがないという奴ですね」
「何で突然生態について教えてくれたんですか!? 聞きたくありませんけど! それよりキルシュ姐さん大丈夫ですか!?」
慌てるアオイを置き去りに、「キルシュは勇ましいので」セシルが刀を振るう。
高いいななきが蹄を打ち鳴らし、茶色の馬が後ろ足を蹴り上げた。
どかんッ!! 激しい物音を立てて、テーブルがひっくり返る。いくつかの目玉が下敷きになった。
唖然とするアオイの背後に、するすると『見下ろす者』が下りてきた。ぽきぽき、爪が鳴る。
「くわっ」
鞄から顔を覗かせたクランドが、滅多にない鳴き声を上げて雷を落とした。
同時に閉めることの出来ない出入り口から、稲光が白く差し込む。
間もなく程近い上空が、鼓膜を脅かす雷鳴を轟かせた。はっとアオイが顔を上げる。
「クランド! ここに雷落として!」
縋るように幼獣の入った鞄を抱き寄せるも、かぱりと口を広げるクランドははらぺこだった。
きゅるるる、か弱い腹の音を響かせている。
咄嗟にアオイが青バラを編んだ。
途端、『見下ろす者』の眼球が一斉に少年を向く。刀を返したセシルが、異常を察した。
「アオイくん! 物陰へ!!」
「うわ!?」
続々と少年目掛けて降りてくる『見下ろす者』が、爪をぽきぽき鳴らせる。
ねばりと重たい雫を垂らしたそれが、パキパキ音を立てた。ずるり、爪の根元が伸びる。
粘性の高い糸を引くそれは、ホースのように、手首のように、ゆるゆると行動範囲を広げた。
口の周囲を行儀良く囲んだ鋭い爪が、ぽきぽき関節を鳴らす。雫がぼとりと落ちる。
逃れようにも、あちらこちらから伸びる爪に、アオイは戦慄した。
人の頭など容易く飲み込めるだろう、開いた口が眼前に晒される。
かくかく不規則に動く爪が、少年を捕らえようと痙攣した。関節の音が絶え間なく反響する。
中央にある口が、涎を垂らした。ぽとり、ぽとり、アオイの顔に、肩にかかる。
クランドを抱き締め、少年が身を縮めた。
呼吸が引きつる。セシルが刀を振るうも、敵は多勢だった。
「アオイくっ、」
「くわーッ!!」
ピシャーンッ!!
かつてないクランドの絶叫が、雷鳴に掻き消された。
白んだ景色が一瞬陰影を飛ばし、落雷の衝撃に家屋が揺れる。炎の爆ぜる音が静かに響いた。
キルシュがいななき、セシルが顔を上げる。『見下ろす者』がぎょろぎょろと眼球をさ迷わせた。
「アオイくん! 外へ出ます!!」
「は、はい!」
キルシュの手綱を掴み、セシルが号令を出す。
転がり出た外はなおも降雨が続いていたが、雨足は先に比べれば弱くなっていた。
三角の屋根からは火の手が上がり、きな臭いにおいを辺りへ重たく運ぶ。
へたり込むアオイの耳に、ぽきぽき、関節の曲がる音が届いた。
重なるそれらは忙しなく、不安定な心地にさせる。
赤く照らされた屋内から、垂れ下がった眼球が彼等を覗いていた。じっと見ていた。
焼け落ちた木材が崩れ落ち、光景を遮る。
鎮火した灰の中に、あれだけあった眼球の痕跡は、ひとつも見つからなかった。
*
「38度。立派な風邪ですね」
げほげほ! 激しく咳き込んだアオイが、宿のベッドで丸くなる。
苦しげに呻く少年が、億劫そうに瞼を開いた。
「ううっ、何でセシルさん、平気なんですか……?」
「鍛え方の差でしょうか。最後に風邪を引いた日が思い出せません」
「その見た目でですか!? うっそだー!!」
「他人と接する時間が短い、というのもあるかも知れませんね」
アオイの前髪を指の背で払い、絞ったタオルを額に乗せる。
ベッドの脇に座るセシルの看病に、少年が眉尻を下げた。
「……セシルさん、僕なら平気です。うつりますよ」
「お気になさらず。食欲があるのでしたら、お粥をもらってきましょう」
「……今はいいです」
「わかりました」
のしりと枕元に沈むクランドを撫で、アオイが苦い返事をする。
少年の顔を覗き込んだセシルが、微笑のままこくりと頷いた。手套を外した指が、アオイの頭を撫でる。
「では、いっぱい寝て、早く元気になってくださいね」
「……絶対夢見悪そう」
「うなされていたら、起こしますよ」
「本当ですか? 信じますからね? 起こしてくださいよ?」
熱と恐怖心から潤んだ瞳で睨まれ、セシルが爽やかな顔で微笑む。
「おやすみなさい」囁いた彼女がベッドから立ち上がった。
時折咳を混ぜるアオイが、苦しげな寝息を立てる。
丸くなって眠っていたクランドが、ぱちりと片目を開けた。顔を上げた幼獣が、かぱりと口を広げる。
「…………」
眠るアオイへ、魔力計測器を近付けたセシルが、小さく息を呑む。普段の微笑を消したその顔は、緊迫していた。
初回の淡い光よりも、強く輝いた計測器が手中へ収められる。
ひやりとした手の甲で、静かにアオイの頬を撫でたセシルが、難しい顔をした。
「……アオイくん。魔術師は魔力が強くなると、瞳に影響が出ます。具体的には、光彩の色が金や琥珀に変わります。私も、間近で見たのは初めてです」
けんけんっ、咳き込んだアオイが寝返りを打つ。
額から落ちたタオルを、節の目立たない指が拾い上げた。
普段黒の手套に包まれているそれは、意外にも女性らしさを伝える。
「きみの瞳は、時折金色を散らします。……これ以上の反応は、非常に厄介です」
セシルを見上げるクランドを、苦笑が見下ろす。
素手の指先で幼獣の背を撫で、身を起こしたセシルがタオルを水桶へ戻した。
宿の女将から氷のうをもらうため、細身がベッドを離れようと踵を返す。
「……アオイくん、起きてます?」
しかと握られたワイシャツの裾に、セシルが困惑の声を上げる。
睫毛を下ろしたアオイは浅い呼吸を繰り返すのみで、問いかけに対する反応はなかった。
片手で口許を覆ったセシルが、染まった頬を誤魔化すように咳払いする。
――絶対にお嫁さんにする。
胸中に抱かれた決意が、更に強固なものへと進化した。