うちの師匠は放任主義
「ただいま戻りましたー」
抱えた荷物を落とさないよう、玄関を開ける。
アトリエの扉から、ぬっと現れた影が声を発した。
「あんら、アオイちゃん! おかえりなさい!」
「ドーリーさん! いつ来られたんですか?」
「うふふ、さっきよ」
聞き馴染んだ太い声音に、ぱっと気持ちが華やいだ。
明るい外から暗い屋内へ入ったことによる視界の誤差を、瞬きで払拭する。急いでドーリーさんの元へ向かうと、優しい仕草で頭を撫でられた。
ドーリーさんは、190センチを超えていそうな大柄の体格をしている。
鍛え抜かれた身体は均衡の取れたもので、逞しい大胸筋はいつでも衣服をぱつぱつにさせていた。
そのためか、ドーリーさんの服は布地が少ない。今日も独創的な格好をしている。
ぱっと見は金髪をふわふわのマッシュルームカットにした、碧眼で顔のいいムキムキの男性なのだけど、何というか、情報量が多い。
「アオイちゃんにも、見てもらいたいものがあるの!」
「僕にですか?」
独特な話し言葉で片目を閉じたドーリーさんが、アトリエへ僕を手招く。
立ち入ったそこは、相変わらず物が雑然としていた。
アトリエは吹き抜けだ。白いタイルに、のびのびとした広い空間。
二階分の大窓から差し込む光は、太陽の角度の都合か、今は明るい日陰を作っている。
壁一面を覆う本棚は天井まで届き、ハンドルつきの梯子がかかっている。
……ちなみに、あの梯子を使っているのは僕だけだ。
師匠は浮けるし飛べる。一跳躍で屋根にだって登れる、よくわからない人なんだ。
そして天井から棚から足許まで、並んだプランターとそこから溢れる植物に覆われている。
正直何種類の植物がここにあるのか知らないけれど、様々な草花が並ぶ光景は雑多で、見ていて楽しい。
最後に、部屋の真ん中に置かれた大机と、師匠がいつも座る安楽椅子。
完全な日陰になる位置にある師匠スペースには、師匠が腕を伸ばす範囲に必要なものが取り揃えられてある。
今朝僕が入れたハーブティのティーカップも、空の状態で脇机に置いてあった。
どうやらこの人は、今日ここから一歩も動いていないらしい。
こちらへ一瞥することなく読書に耽る黒い頭に、むううっ、不満から頬が膨らんだ。
僕は朝から師匠のローブについた屍肉を、泣きそうになりながら落としたのに!
落ちようもない汚れと戦って、オリバーさんのところまで全力疾走することになったのに!
せめておかえりくらい言ってください!!
「師匠、ただいま戻りました」
「…………」
「し、しょ、う!!」
「喧しい。静かにしろ。聞こえている」
「ほんっと、この人は!」
「まあまあ、アオイちゃん」
ドーリーさんに宥められるが、がるるッと唸る敵対心が牙を向いて止まらない。
ふん、だ。安楽椅子に座って頁を捲る師匠から顔を背け、ドーリーさんを見上げた。
「ドーリーさん。見せたいものって、何ですか?」
「うふふ、実はね、これなのよ」
柔和に微笑んだドーリーさんが大机へ近付き、これまた雑多に物の積まれたそこから、ひとつの包みを取り上げる。
大事そうに腕に抱えた彼が、丁寧な仕草ではらりと布を捲った。
現れたのは、滑らかな殻を持つ、大きな白いタマゴだった。
「それ、何のタマゴですか!?」
「それがわからないのよ~」
「えええ……。大きなヘビとかだったらどうしよう……」
「あんら、楽しそうじゃない!」
「そうですか!?」
愉快そうに笑ったドーリーさんがタマゴを差し出すので、ごちゃつく机に買いもの袋を置いて受け取った。
おずおずと抱えたそれはひやりとしていて、さっきまで抱えていた買いもの袋ほどの大きさと重たさをしている。
ええっ、このサイズのタマゴから生まれるものって、何だろう!?
「この前ね、お散歩してたら、やんちゃボーイたちが馬車を襲ってたの」
「……はあ」
頬に人差し指を当てたドーリーさんが、んふ、笑って片目を閉じる。
独特な言い回しを聞きながら、こくりと相槌を打った。
「それで、おいたは駄目よって成敗したら、ボーイたちのお家から色んなものが見つかってね」
「ボーイ……」
「お巡りさんと一緒に色々と調べていたら、このタマゴを見つけたの! お巡りさんたら、生きものは預かってくれなくて、困っちゃってね」
「……盗掘品を、押しつけに来た、と」
「そうなるわね!」
指先を交差させるように手のひらを合わせたドーリーさんが、ぴんぽーん、正解の音を立てる。
つまり、やんちゃボーイなる盗賊かそれに類似する人たちをやっつけたら、このタマゴを見つけてしまって途方に暮れていた、と。
益々このタマゴの中身、なんだろう……。
「お前はここを、託児所だと思っていないか?」
「あら、惜しい。迷子センターよ」
「どちらも大して変わりない」
ぱたりと本を閉じる音を立てて、師匠が立ち上がった。平坦な声音は、ひどく無機的だ。
陶器のような白い肌と、無造作に伸ばされた長い髪。
中性的な面持ちは精巧な人形のように整っていて、無表情なそれには血が通っているように見えなかった。事実冷血漢だ。
骨格は男性寄りな気がするのだけど、服装は黒いドレスだ。チュールレースが透かす胸元に膨らみがないのが、また混乱を誘う。
僕はもう慣れ切ってしまっているので、師匠はこういう生きものだと認識している。
けれど、師匠といい、ドーリーさんといい、僕の周りには性別のよくわからない人しかいない。
僕は死ぬまで男でいようと、固く心に決めた。
安楽椅子へ本を投げ置いた師匠が、切れ長の琥珀色の目をこちらへ向ける。
ひくりと肩の跳ねた僕に構うことなく、重たくため息をついて横を通り過ぎた。
ぱたん、アトリエの扉が閉まる音がする。
……え。今、僕の顔を見て、ため息をついた?
「……何なんですか、あの人」
「アオイちゃんを拾ったときのことを、思い出したんじゃないかしら?」
うっかり低くなった僕の声へ、ドーリーさんが明るく微笑みかける。
はたと瞬いた。僕は拾い子なのだけれど、当時のことを何も覚えていない。
「僕、そのときのこと、全然覚えてないんです。気がついたら師匠のところにいた感じで……」
「あたしは今でも、しっかり覚えているわ。あれはねぇ、確か――」
自身の頬に人差し指を添えたドーリーさんが、んふ、笑みを零す。
「あの日もあたしはやんちゃボーイを成敗していたの。そうしたら、なんとびっくり! 青い髪の男の子を見つけたの!
お巡りさんはやっぱり生きものを預かってくれなくて、あたし、困っちゃってね。
ほら、あたし、落ち着きないでしょう? お仕事があれば、そっちへ飛んで行かなくちゃいけない。学もそんなにないから、あたしから教えられることは少なくてね。
お巡りさんからは、孤児院も勧められたわ。でもね、まずは心当たりに当たって砕けてからにしようと思ったの」
「それで師匠ですか」
「ええ。あのときのエレン、だいぶん擦れてこわーい顔をしていたもの。ちょっとはマシになるかしら? って魂胆と一緒にね」
「僕は生贄だった……?」
んふ! 軽やかに片目を閉じられ、ぐぬぬと口を閉じる。
ドーリーさんは、師匠のことを『エレン』と呼ぶ。
どうやら師匠は性別はおろか、名前も年も忘れているようで、不便に感じたドーリーさんがつけたらしい。
「でもね、エレンったらひどいのよ! 『ガキの面倒など見んぞ』って追い返そうとするの!」
「師匠らしいです」
「何とかごり押しで家に入ったらね、エレン、さっきみたいなため息をついて、あなたのおでこをこうやって掴んだの」
「えっ、ドーリーさっ」
突然目許を塞ぐように頭を鷲掴みされ、身体がびくつく。
すぐに離されたけど、あんまりない経験に心臓がびくびく跳ねた。
「何て言ってたかしら? 確か、『お前の名はアオイだ。前のものは忘れろ』だったかしら。
アオイちゃんね、拾った当初は全然喋らない子だったんだけど、エレンのその言葉からお喋りさんになったのよ」
「間違いなくそれ、口が立たないと師匠に抗えないって、幼心ながらに察してますよね!?」
「んふふ、どうかしら」